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ある詩人のイディオレクト1―細川雄太郎異聞―

【再会】

「関! もしかして、関沢君と違うか」

 見覚えのある顔を、カーキ色の群れの中で見つけて駆け寄った。相手も目を白黒している。そしてやっと、「雄ちゃん、一緒の輸送船(ふね)やったんか」と丸眼鏡の奥で目を細め、互いの肩を叩きあった。

 一五分前、一等輸送艦は玄界灘を朝鮮半島側にわずかに過ぎたあたりにいた。上官たちは、周囲の状況を鑑み、船底に押し込めていた新兵たちを甲板に開放した。昭和一六年八月。時刻は昼を過ぎたころだった。

「それにしても、こんなところで出会うとは。奇遇やな」

 広い甲板の中、ひと気の少ないところまで移動して、腰を下ろした。空はどこまでも青く、照り付ける太陽の明るさに海との境が判然としない。

「ホンマや。雄ちゃんのところに赤紙が来て、戦地に向かったって聞いたのは、随分前やったのに」

 関沢の眼は潤んでいた。上官に見られたら「気合が足らん」と鉄拳を喰らうところだが、周りに人影はない。

「秘密召集やったみたいで、敦賀で結構待たされた。奉公袋も見られたらあかんという厳命で滋賀から向かったんや。関沢君も、舞鶴重砲兵大隊から大阪港へ?」

「京都の下宿に赤紙が来てな。なんやかんやであっという間に大阪港や。そんなことより雄ちゃん、こんなところまで来て丁寧な呼び方せんでええよ。いつも通り、関って言うてくれ」

 関沢はこの時二一歳。六歳下ながら、丁寧でイマジネーション豊かな詩を書くことで定評があった。群馬の奉公先から通っていた詩作の師匠、横堀夫妻の同人誌『童謡詩人』で知り合った仲だ。彼の住まいが京都の五条で滋賀県の蒲生郡にある実家から近いこともあって、正月の帰省の折には夜っぴいて詩や童謡について、「あのフレーズが魅力的だ」「あの詩は自分ならこう書く」など話し合った。息が詰まる船内で、これから向かう戦地への不安に苛まれていた時に、旧知の友の笑顔はまさに干天の慈雨といったところだった。

「関は、電気屋で働いてた時にけがをしてたんと違(ちご)たっけ」

「右の足がちょっと短いねん。おまけに近眼やしな。徴兵検査もギリギリやったのに、こうして駆り出された次第や」

と丸眼鏡を指して見せた。

欧州でのドイツのポーランド侵攻など世界情勢はきな臭さを増す一方だ。

「よっぽど人手が足りんと見えて、われわれのような非力な文民にまで重砲を担げとおっしゃる」

 他愛もない話に、思わず笑みがこぼれた。表情が緩むのは、七月に日野の自宅を出て以来ではなかろうか。あの時の母の心配そうな顔と、妹の泣きはらした瞳を忘れることはできない。

「そういえば雄ちゃん、あの曲、ラジオで何度か流れてたで」

 あの曲とは、細川作詞の「泣く子はたァれ」である。群馬の醤油醸造、岡崎商店での丁稚時代に『童謡と唱歌』に掲載された詩をこの時すでに業界の中核をなしていた海沼氏のピアノのもと、音羽ゆりかご会の秋田さんが歌い上げたものだ。

「全国放送に取り上げてもらえるのはうれしいなぁ」

「タイトルは、❝あの子はたあれ❞になってたけどな」

「このご時世に、泣く子はいらんのやそうや」

「そうか、同人に載った時から少し歌詞が変わっていたんもそういう背景か」

「海沼さんが、随分と止めてくださったそうやけどな」

 日が傾くのはあっという間だった。こういう機会が次にいつ持てるかは分からない。ましてやこれから戦地に入る身としては、こうして詩について縦横に話しあうことのできる相手はいない確率が高いだろう。ポケットから黒皮の手帳を出して関沢にいった。

 「戦地といえど、合間を見つけてコツコツと詩を作ることにするわ」

 関沢は嬉しそうに笑って、うなずいた。

「生きて帰ろう。そして、二人でうたをつくろう」と二人で誓い合った。

 船はその日の夜遅く、釜山港に着いた。それからすぐ近くの麦島へと配置され、各兵隊たちは赴任地へ散っていった。関は、南方への配置となったようだ。

(滋賀県文学際に投稿したものを改稿)

                            〈続く〉


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