ある詩人のイディオレクト2―細川雄太郎異聞―
【陣中日誌】
麦島は釜山港の沖合にある巨済島の東方にあった。南北二キロ、東西五〇〇メートルの小さな島で、はるか南東には対馬があり、天気のいい日にはその姿をおぼろに望めた。空から見ると島の形が海に浮かぶ麦の形見えることから、この名前が付いたという。
麦島には、約一〇〇名の日本兵が詰めていた。一二月八日、日本が英米に宣戦布告し太平洋戦争が勃発。しかし、離島では静かな日々が続いていた。重砲兵として派兵された細川の生活は、訓練と掃除、当直などで過ぎた。上官は、目の前の朝鮮海峡を守ることは大陸への防御の要衝なのだというが、潜水艦はおろか敵艦も見かけることもまれだった。たまに艦影を見せるのは、釜山から荷物を運ぶ漁船ばかり。
周りを海に囲まれている島では、海産物を中心とした食物が豊富だった。細川は滋賀県生まれで丁稚に出てからは群馬住まいだったが、慣れない海の釣りも、こんなに簡単に魚が獲れてもよいのかと思うほどで、気晴らしにもなった。他所の戦地と比べても恵まれた軍隊生活だったといえる。しかし、耐えがたかったのは、上官からの鉄拳制裁だった。埒のないことで殴られ、そのたびごとに丁稚兵だとそしられるのは辛かった。
週に一回の休みの日には、皆がこぞって食糧配達の漁船に乗って釜山へ遊びに出掛けたが、その集団には加わらず、島のはずれにあるススキ原に寝そべって詩作に励んだり、実家への手紙を書いたりした。しかし戦地でのこと、手帳は上官の検閲を受けた。多くの上官は、何も言わなかったが、中には「軟弱なものを書きおって」と拳骨を飛ばす者もあった。
そんな中、佐藤伍長は検閲の後、ハンコをくれるだけで特にとがめだてをしなかったので、細川はできるだけ佐藤伍長の検閲に合わせて詩作を心掛けた。それ以外のページは日記などで埋めた。
ある休日、いつものように海の見えるススキ原で詩作に励んでいると声をかけられた。
「ここにいたのか」
振り返ると、佐藤伍長がいた。立ち上がり、敬礼しようとすると、
「そのままで。体調はもういいのか」
と問われた。数日、腹の具合がよくなかったのだ。「大丈夫です」と返すと、うなずきながら、佐藤伍長は、続けた。
「実は、私は岐阜で国語教師をしていてね。雑誌に掲載されていた貴君の詩を何篇も読ませていただいているんだ。特に好きなのは『泣く子はたァれ』だ。この詩はよいね。それをもとに海沼先生が加筆・作曲された『あの子はたァれ』もラジオで拝聴して、ずいぶんと心に響くつくりになっていた」
「ありがとうございます。それで、詩作にも寛容に?」
「貴君が細川雄太郎でなくとも、上官には、戦地でコツコツと詩作を重ねる新兵を謗る権利はないよ」
と隣に腰を下ろした。訓練でまなじりを釣り上げている雰囲気はまったくない。
「ラジオを聞いてから、元の詩をもう一度じっくり読んだが、特に『泣く子はたァれ』にも『あの子はたあれ』にも出てくる❝なんなんなつめの花の下❞が心に響いた。あれは、モデルがあるのか」
「実家の庭にあるナツメなんです。まだ、若木で下で子どもは遊べませんが」
「確か田舎は近江の日野か。湖東だと、岐阜もすぐだな」
しばらく、晩秋の海峡を眺める。そろそろ遠くに冬の気配を感じる時節だ。
「そうだ、近く守備隊歌の歌詞を募集する。出してみたらどうだ。得意とする童謡とは少し毛色が違うと思うが、入選すれば多少なりとも恩賞も出る」
というと、軍服についたススキを払って立ち上がった。そして、「書き溜めた詩が世に出せる時代が来るといいな」と呟き、手を挙げて帰って行った。
ぼんやりと後姿を見送った後に、敬礼をしなかったことを思い出した。特にとがめだてしなかったことを見るとよかったのか。ふと思いついて、ポケットから手帳を取り出し、中表紙に「陣中日誌」としたためた。
(滋賀県文学際に投稿したものを改稿)
〈続く〉
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