江州皿屋敷2
〈寄進帖〉
菩提寺の養春院での葬儀は、孕石家からの助力もあり盛大なものだった。
いち家人のためにこれほどまでの式をするのかと噂をされたが、政之進様と菊の仲は近所に知れ渡っていたため、表立って口にする人はいなかった。
家族のだれもが周りにいっていないと思うが、それでも、菊がお手討ちにされたことは広まり、口さがない町雀によりあることないことが流布していた。後ろ指をさされたことも一度や二度ではなかった。
喪主は父が務め、姉の法名は「江月妙心」となった。
ただでさえ体の弱い母は、皿を養春院に奉納したものの、この日を境に床に臥せがちになってしまった。
四十九日の朝、法要に参加した政之進様は頭を丸めていた。再度深く私の両親に謝罪を述べたいとのことだった。その姿をお茶を運んだ時に目にした。墨衣を召されており、腰には何も差していない。そのなりは、若い修行僧そのものだった。
政之進様が家を出るとき、玄関に見送りに行った。すると、振り返り声をかけてくれた。
「桜、少し痩せたか。この度は本当にすまなんだ。菊はお主のことをことのほか可愛いと思っていたようで、何度も話の中で名前が出ていた」
何か口にせねば、しかし、あの日、あの場所にいたことなどいえるはずもない。膝を曲げ、目線を合わせて政之進様が続けた。
「拙者はこれより雲水となり、生涯をかけて菩提を弔いたいと思う。桜もできるだけのことをしてやってはくれまいか」
表情は暗く、快活な政之進様の面影はまったく残されていない。ふくよかだった頬はこけ、剃り上げた頭に比べて、あごや首に鬚がぽつぽつと残っている。人は、短い間にこれほどまでに変わってしまうのか。
外まで見送って短い挨拶を述べたが、いつもこうしたところで気の利いたことがいえない。いや、この日に限っては、姉を斬った当人が目の前におり、そのことについて泣きたい自分とそれを見る冷静な自分とが混在しているようだった。
政之進様には、この後、一度もお会いすることはなかった。
遠くに伊吹山の緑が見えた。盛夏はもうすぐそこまで迫っていた。風のうわさでは、政之進様は正式に出家し、孕石家の元の居地・遠江の井伊谷へと向かったと聞かされた。孕石家は廃嫡、お取り潰しとなった。
「江戸へ」という話が来たのは、翌年の秋も深まり初雪まであと少しという頃合いだった。江戸屋敷の女中の人手が足らないということなのだそうだ。人は江戸で雇うことも多いが、国元から呼ぶこともあった。「やはりある程度素性が知れたものを」と考えるのは分からなくもない。
依頼は孕石家と付き合いの深かった老中様からだった。親族の叔父の六兵衛が、私の存在を話してくれたのだそうだ。できるだけ若く、武家の出で、掃除や料理などの家事一式をできるというのがその条件だった。お世辞にも井伊家のお屋敷をお手伝いできるほどそれらの技能が高いとは思えなかったが、父は謹んで受けることを決めてきた。選ばれた最大の理由は、やはり年齢だろう。それだけ、長く務めてもらえる人を探しているということなのだ。年内に江戸へ来て、辞める女中の仕事を継いでもらいたいということだった。
彦根藩の江戸屋敷は、上屋敷、中屋敷、下屋敷の三つがあり、俗に三屋敷と呼ばれた。先代将軍の家光様により「武家諸法度」が制定され、参勤交代が各藩の大名に課せられた。藩邸は、その登城や江戸での生活のために土地を拝領したものだ。
江戸行きに先立ち養春院に出向き、姉の墓前に手を合わせる。しかし、仏壇や墓に手を合わせ、お盆などの法事で菩提を弔うことしかできてはいない。それだけでいいのか、政之進様にもいわれたが、他に自分にできることがないかというのがこの一年余り、頭を占めていることだった。城下に最近増えつつある仏具店で何か供養になるものをつくる、あるいは、年忌の法要や永代供養を行うなどが考えられたが、先立つものものなく、さてどのようにすればそれらが実現できるのかということがさっぱりわからなかった。奉公へ上がれば、あるいは彦根と違う町に身を置けば何か思いつくのではないかというのも、今回の江戸行きで期待することだった。
姉の墓前で、「何か望みがあれば伝えてね」と手を合わせても、姿を現すことも声が聞こえることもなかった。
体が弱くなった母の面倒は、もう一人の姉がみてくれることになった。
霜月に江戸についた。参勤交代に伴う移動へ同行する形だった。一四日間の旅程の途中、雨で増水した相模川の渡しを待ったり、宿で山賊が出ると脅されるなどそれなりに多くの出来事があったが、無事に日本橋に着くことができた。
江戸は独特の町だった。人と建物と犬が多く、言葉もまるっきり違った。彦根を出たことのなかった私には目新しいことばかりだった。また、明暦の大火があり、その復興で長屋が増えたり、それまで朝夕の二食だけだったのが、昼に食事をとるようになったりなど毎年同じことを同じ日にしていた彦根とは違って、日一日と生活が変わっていくさまに驚かされた。
女中の仕事は、日が昇ってから暗くなるまで、掃除から料理の下ごしらえ、洗濯、繕い物や針仕事など覚えることが山積みでてんてこ舞いだった。すべては、井伊様のお屋敷を円滑に回すため。必死で仕事を覚え、女中頭の千代からも顔を覚えてもらった。お給金など上がらないが、仕事の幅は広がった。基本的には千駄ヶ谷の下屋敷に詰めていたが、時には紀尾井坂の中屋敷や桜田御門のすぐそばの上屋敷に赴いて仕事を手伝わせてもらえるほどにまで馴染んだ。
屋敷には多くの侍や女中が詰めており、三屋敷を合わせると二〇〇名を超える奥方・女中がいた。人は流動的で、二年に一度の参勤交代の折には大きく人が動いた。そして、また江戸に戻ってくるころには何人もの新しい人が入ってくるのだ。
住まいは、井伊直孝様の菩提寺として知られる世田谷の豪徳寺の東に一里ほど、駒場のはずれにある叔父の屋敷に住まわせてもらうことになった。
主に奉公する下屋敷までは約一刻。慌ただしい師走を越えて新春の候、家で叔父の給仕をしていると、晩酌の相手がいないのか、私を呼び止めて傍に座らせ、お酌をさせながらぽつりぽつりと話を始めた。
「仕事はうまくいっているらしいな。あちこちで名を聞く」
「おかげさまで新参者ながら皆さまに覚えていただいて、三屋敷も行き来させていただいています」
「わしの力など微々たるものよ。桜の頑張りによるところが大きいだろう」
酌をすると、表情を緩めて杯に受けた。叔父は早くに娘を失くしているため、単純にうれしいのだろう。そして、少し表情を曇らせていう。
「菊の件は無念だった」
私達姉妹は、この叔父に随分と世話になった。特に彦根に戻ってくるたびに珍しい土産や江戸の出来事を話してくれるので、うちの家に遊びに来るのが楽しみだった。
「孕石政之進様からも、最後の折に『できるだけのことをしてくれ』と」
「そうか。菩提寺は養春院だったな。大きな法事や永代供養をお願いできるといいが、寄進も伝手もないのお」
チロリから酒を塗りの盃に注ぐと、のどを鳴らして飲んだ。叔父は御騎馬徒衆を務めていたため、江戸屋敷内ではかなり顔が広い。
「女中頭の千代がまだ若いが万事(よろずごと)に通じておる。相談してみれば妙案も浮かぶやもしらぬ」
叔父がこれからは一人で杯を傾けるといったので、部屋を辞そうとすると、追いかけざまに声をかけてきた。
「菊の話は上屋敷でも何度か耳にした。実際にあったことなのだから隠す必要などないが、身内に手討ちになったものがいること、しかも、二人は恋仲だったとのうわさが広まっておる。身内の瑕疵は容易に付け込まれる。くれぐれも気をつけろ」
小さく「ありがとうございます、肝に銘じます」と応えて部屋を出た。
翌日、女中頭の千代と少し話す時間があったので、姉の法事について相談すると、「お菊様の件は、三屋敷でもほとんど皆が知っている。そしてあなたの姉ということもね」という。
そうだったのか。叔父に忠告はされていたものの、それほどまでとは知らなかった。少し考えていると、千代が「こういうのはどう」と続けた。
「寄進帖というのがあるのよ。お菊様へ弔意のある三屋敷の女中の名前を募って作ったらどうかしら。人によって、出ている日も時間も違うけど名前が集まれば随分と違うはず。皆からとまではいわないけれど、お金も少しずつ集めればそれなりの規模になるはずよ。それで、菩提寺に供えて永代供養をお願いするというのはどうかしら」
かなりの良案に思えた。
「時間はかかるけど、仕事の手を休めないように一人ひとりあたればできるわよ。私も陰ながら応援させてもらうわ」
こうして、二〇〇名を超える女中や奥方たちへ一人ひとり趣旨を説明し、名前を書いてもらうことが日課となった。もちろん、叔父へも助力を仰いだ。綴じた形で持ち歩くわけにもいかないため、懐に紙を入れて一枚に名前が集まったら家へ帰ってきちんと保管し、新たな紙を用意するという日が続いた。
随分暖かくなり、江戸っ子の口の端に初鰹が挙がる頃のこと。寄進帖の人名は一五〇名を超えていた。暮れ六つの鐘と同時に、下屋敷を辞して叔父の屋敷へと向かっていた。
晩春とはいえ、六つを過ぎると随分と暗い。代々木八幡の杜を過ぎ、富谷に差し掛かったあたりで後ろに人が付いてきていることに気付いた。いや、この時間のことだからまだ何人も歩いている。たまたまかと思ったが、一定の距離を置いてずっと後ろにいるような気がする。
ここから先は人家が減り、少し寂しい道となる。道沿いの森の横に二八蕎麦の屋台を見つけたので駆け込んだ。月代が広く、乏しい髪で小さな髷を結った主人が少し驚いたようにこちらを見た。
「今、火をおこしていますんで少しお待ちを。それとも冷やでいいですかい」
「あの、後ろ、私のずっと後ろに人がいませんか」
首を伸ばして、後ろを見てくれる。
「そりゃあ、この刻限ですから何人も歩いておいでですけどね」
「腰に刀を差した人です」
「それも、もちろんおられますよ。もうすぐ日も暮れますし。吉原までいかなくとも岡場所はいくつもありますからね。おっと、女の方には野暮な話でしたな。で、どうします?」
「冷やを一杯」
返事をしてすぐに器が出てきた。どんぶりに蕎麦粉八割、小麦二割で打った麺が入っており、冷たい出汁がかけてある。彦根で食べつけたものとは少し味が違うような気がする。水はもちろん、調味料も違うのだろう。申し訳程度にネギが散らしてあった。
一口目をすすったとき、すぐ横に男性が来て、「掛け、一杯」と声を上げた。少し驚いてむせると、「かたじけない、声が大きかったか」とこれも大きな声でいう。
顔を見ると知った人だった。向こうも同じ三屋敷に勤めるものだと気付いたようだ。
「桜殿でしたか、大変失礼した」
「大丈夫です」
この男、甚右衛門様は、確か小姓として直興(なおおき)様へ仕えている。
「このようなところで蕎麦などたぐられるのですな。たしか、六兵衛様のお屋敷に一緒に住まわれていたと。いや、そこまで詮索するのは無粋ですな」
元々の出身が実家の近くだったことや、年も近いことなどから何度か話す間柄となっていた。ふと思いだした。この人は、見た目は華奢だが藩の剣術大会で二番手の腕前だった。
「実は……」と事情を話している間に、掛け蕎麦が来た。器を手に持っているものの、まったく口を付けずに真剣に聞いてくれている。後を尾けられているように思うというと、首を伸ばして道の前後を見た。聞き終えてから、延びた蕎麦をすすりながら、「それでは、拙者は桜殿の後を一町ほど間を開けて歩いてまいりますので、その蕎麦を食べられたら出立されよ。確か住まいは……」
「駒場です」
「承知した。今日は、この後特に用事もござらんので、よい腹ごなしになり申す。もし、だれもいなくとも気に召されるな。それと、背後は拙者に任せて後ろを振り返らずに急がれよ」
蕎麦の器を店主に返し、六文払って道の前後を見た。確かに人はちらほらといるが、先ほどの侍は目につかない。あるいは気のせいだったのか。遠く山の端に沈みそうな夕陽に照らされながら、黄昏時を急いだ。
しばらく進むと田畑ばかりとなり、道を歩く人の姿はまばらとなった。代々木村を過ぎ、もう少しで駒場という場所で、「待て」と後ろから声がかかった。
振り向くと、懐手にした浪人風の男が立っている。
「彦根藩江戸藩邸詰めの女中、桜だな」
「違います」と道を急ごうとして肩をつかまれた。目の前に、姉からもらったお守り袋がぶら下がっていた。懐を探ると無い。どこかで落としたのだろうか。
「少し、話をしようか。中の書付も読ませてもらった」
有無をいわさず木陰に連れ込まれた。
「ちょっと、最近の動きは派手すぎではござらんか」
まだ言葉使いは丁寧だが、剣呑な雰囲気に満ちている。
「この倹約のご時世に、皆から金を巻き上げるというのはおだやかじゃないねえ」
口調が崩れてきた。体をこわばらせて、押し黙っていると、左手で私の顎を持ち、
「なあに、簡単なことさ。寄進帖をこっちに渡してくれればいいんだ。金もな」
「できません」
震える声で断る。
「あんまり手荒な真似はしたくねえが、死ななければいいともいわれているしなあ。この書付の事、あちこちでいわれたくはねえだろう」
ゆっくりと男の手が腰に佩(は)いた太刀に伸びた。そのとき、
「触れるな!」
甚右衛門様の声だ。安心して膝から崩れ落ちた。男は一瞥すると、慌てもせず、
「人が女と木陰で何をしようが、あなたさまに関係のないことでしょう」
「そうはいかん。その方は……知り合いだ」
話しながら男と私の間に割って入り、相手の肩を押した。気おされてか、男は数歩下がった。そして再度刀の柄に手をかける。
「腕の一本も置いていくつもりだな」
「ここを離れて別の仕事を探しなされ」
浪人が抜刀した。上段に大きく構える。一方、甚右衛門は太刀の柄に手をかけたままだ。
時が止まって見えた。
次の刹那、大きく振りかぶった太刀が降りおろされたが、大きな金属音がして後ろにはじかれた。と同時に甚右衛門が太刀を横に払った。
男の手から刀が落ちた。みると、男の左手の小指と薬指も地面の上にあった。
「死ぬことは無かろう。去ね」
「くそ、このままでは済まさんからな」
捨て台詞を吐いて、指と刀を拾って男は走り去った。
甚右衛門様は、懐から手拭いを出すと、刀身をさっと拭いて鞘に納めた。
「大丈夫でしたか」
「本当に助かりました」
立ち上がろうとしたが力が入らない。これが腰が抜けるということなのか。よろけて地面に両手をつくと、目の前にお守り袋が落ちていた。切られた衝撃で落としていったものらしい。咄嗟に拾う。中には書付も入っていた。肩を貸りてようやく立ち上がったが、ゆっくりとしか歩けなかった。
「送りますよ」と笑った甚右衛門様の顔を見て、意外に整った顔なのだと気付く。
結局おぶってもらって、家路についた。途中、私の緊張を解くためなのか取り留めのない話をした。記憶に残ったのは、「あの男、彦根で見たことがあります。恐らく食いつめた浪人が、金で雇われたのでしょう。武士も生きにくい世の中になりつつありますなあ」という所だけだった。
家に着くと、遅くなっていたことで気をもんでいた叔父が転がり出てきた。甚右衛門様とは顔見知りのようで、短く説明すると足を洗うのも早々に座敷に通された。
「怪我はないか」
「血の出ている所もございませんし、先ほど立てなかったのは驚きすぎて」
叔母がお茶と漬物を持ってきた。丁寧に礼を述べている。寄進帖を渡すようにいわれたと説明したところで、叔父の顔が曇った。
「つまり、屋敷内に誰か不満を持つものがいるんじゃのう。それでも続けるか。番屋に届けるという手もあるが」
「ここであきらめてしまっては、姉も浮かばれませぬ」
即答だった。
「すべての人からお名前をいただけなくとも、もう少し続けさせてはいただけませぬか。お上に申し述べるのもお待ちください。寄進帖が集まりさえすればこのようなこともございますまい」
「続けてもよいが、今日のようなことがあると心配じゃ」
叔父の言葉に、甚右衛門が間髪を入れずにいう。
「それについては、妙案が。拙者が今日のようにお送り申すというのは」
「確かにそれはよい案じゃ。そちが仕事がないときは、わしが一緒に帰ってくるかの」
それから、寄進帖に名前が満ちるまでには更に一年の歳月が必要だった。しかし、三屋敷に勤める、あるいは関係する奥方、女中二九二人から名前を賜ることができた。
藩にも届け出を出し、葉月中葉ついに法要を営んでもらえることとなった。養春院は長久寺の末寺にあたり、その長久寺から和尚さまが来て盛大に執り行われたのだそうだ。
「のだそうだ」というのは、伝聞の形だからだ。叔父は出席がかなったが、私は江戸を離れることはできなかった。しかし、きちんとした形で、しかも僧侶にそろってお経をあげてもらえるのであれば、自身の出席などどうでもよかった。
戻ってきた叔父は、事細かに供物の菊や餅の種類、住職の着物の素材、響く読経の音声(おんじょう)など事細かに語ってくれた。
今回の法要は七回忌だったが、今後も毎夏決まっている法要に併せて永代供養を営んでもらえるとのことだった。私が結局この目で法要を見たのは随分と後になってからだった。
彦根に戻ったのは、母の体調が大きく崩れた時のことだった。早飛脚の知らせを受けて、お伺いをたてると、しばしの暇をいただくことができた。江戸に来てから実に一〇年がたっていた。寄進帖の件で親密となり、夫婦となった甚右衛門も一緒の帰郷だった。祝言は叔父夫婦に介添人になってもらって行った。両親と会わせるのは初めてとなる。
彦根へ戻って少し母は持ち直したが、数日後に亡くなった。
息を引き取る前日、私を枕元に呼んで、何か言いたそうにしていたが、結局、「思い残すことなく江戸で勤めを全うせよ」と述べるにとどまった。帰郷は、還暦を迎えるまで、そのたった一度きりだった。
<続く>
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