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自論

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短編詩集みたいに書いてます。 忙しいときにこそ、読んでもらいたい一転語のようです。
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#私の作品紹介

自論③⓪:「わたしの哲学⑵ ~空間論「三洋」~」

この世界には、2つの世界がある。 魂修行をする仮の世界である「この世」と、 死後に還って、今世、何を成したかによって辿り着く場所が決まる本当の世界である「あの世」があると。 パラレルワールドも存在するし、そうなるとややこしくなるだろう。 ただ、私たち人間は、この世とあの世を行ったり来たりして、自分自身が霊的な存在であることに目覚めなくてはならないと。 そう教わっている。 そして、私はこう考えた。 もし、別の世界があるならば、それは「その世」があるということであり、

自論②⑧:「わたしの哲学⑴ ~善事と悪事~」  

世の中には良いことと悪いことがある。 良いことをすれば天国に行き、菩薩の世界へ行くことで、人助けができる。 悪いことをすれば地獄に行き、反省するまで天上へ上がることができず、閻魔大王から舌を抜かれることさえある。 これが死後の世界である。 生きとし生ける世界では、自由と自由の相剋によって悪は発生する。 なので、みんなが幸せになっていくように自助努力をしていくことが大切である。 そして、わたしはこう考えた。 人間には3つの指向的法則性があることを。 それは自分に

自論②⑥:「現とは何かを考える」

これは宗教から学んだものではなく、人から教わったものでもない。 自分が根に持っているオリジナリティそのものであり、この世界でふと思いついた自分の考えである。 「現」とは、「現代」の現である。 しかし、本来の意味はそうではない。 「現」とは、「現れたる」という意味であり、 あまねく宇宙のとある星には、現れたる世界が展開されている。 それは「現人」「現国」「現神」によってユートピアが構築されているのであり、その源にあるものこそ「法」である。 私が過去、宇宙人であった

自論②④:「物とは何かを考える」

これは宗教から学んだものではなく、人から教わったものでもなく、 自分が根に持っているオリジナリティそのものであり、自分で悩んで想い続けた考案でもある。 物は不動であるが、人間と同じような精神性を持っているのではないかと考えられる。 それを魂魄の魄と言っていいのか、似た表現で「官」と呼ぼう。 その精神性は、人間が思考する能動性とはちがって、 物の精神性は受動的。 当時、物とは、”念力”という超能力を使って、物を浮かせたり、飛ばせたりして、自由自在に動かせることができて

自論①②:「会話不成立を乗り越える」

わたしは、友達によく言われることがある。 話が噛み合っていない。 空気が読めない。 会話、通じてる? 話、聞いていますか? 会話は、言葉のキャッチボールだと言うけども。 それが魔球であるとか、 高いところから飛ばしているだとか、 りんごの味や色を聞いているのに、りんごじゃないことを言うだとか、 相手の言っていることに対して、意味を理解することはこんなにも難しいことなのかと、思うほどである。 「テレパシー」 それは、言葉を使わない言語。心の言語。 これさ

自論①①:「努力って、なんだろう?」

今、今日、できることは、 地道にコツコツと続けていくしかないのである。 与えられた環境の中で、最善を尽くすこと。 先延ばしにせず、今片付けられることをすること。 努力に努力を重ね、精進に精進を重ねること。 苦手なことにチャレンジすること。 今というこの結果は、原因という種を撒いて、刈り入れした現象であると この世とあの世を貫く幸福を実践すること。 《完》 どうも、丸々です!ァディオ───(`・ω・´)ノ───ス 今のブログ生活がもうすぐで3年経つことを想

自論⑩:「自立してないことの悲しさよ」

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自論⑨:「耳差別」

私は両耳がどうやら悪いようである。 左の方は、高い音が聞こえないと診断された耳。 中学の頃、毎月、風邪引きしては、鼻水を垂らして、 いっぱいティッシュで強く鼻を擤{ka}んでたら、 耳の栓が取れたようだ。 右の方は、低い音が聞こえにくい耳。 だから、そっちに人の話を左で聞こうとしたら、 耳糞が右より少し溜まったようだ。 周りの人から、耳が悪いことで罵倒される。 耳鼻科に行ってないのが申し訳ない。 そういうサイレンが鳴っているかのようだ。 ただ、耳が悪いからと言

自論⑧:「幼少の記憶⑵ <兄弟剣果>」

古いボロアパートの中での記憶。 其は、20年前の頃のことであった。 白い剣のおもちゃで、 弟と 剣道みたいに稽古っぽいことをして 遊んでいた。 エイッ、エイッ! とやり合い、 振り方をミスってしまって、 弟の頭上に直撃。 すると、弟は鼻から血を流した。 今でも、笑えるこの一面。 弟と剣でお互いやり合ってる感じは、塩っぱい思い出に過ぎない。 「剣道」の稽古では、 演劇の剣道の剣で、侍をどう倒すかという本格的なお芝居のこと。 そういう槍撃ちをしてた時

自論⑦:「呪いについて考える」

呪い 其は、自分良ければ全て良しと思う心。 そして、其は、忘己利他でない感情。 この心は有害無益であると言い換えられる。 呪いは電波のように発信し続けているとも言われている。 では、自分に当て嵌めたら、どうなるのだろうか? 呪われて首を絞められそうになったことは微かにある。 しかし、其は、自分が周囲の中の感応する人においては 呪いを売ったということになる。 これはある種の罰を受けるという衝動を自分に課したということである。 一方で、「天道説的人生観ではなく、

自論⑥:「幼少の記憶⑴ <霧の中のバス停>」

保育園児の頃。 思い返せば20年前のことだったか。 登園前の交通手段は過酷であった。 父と弟と一緒に保育園まで向かった。 弟と同じ保育園。 父は送り迎えした後、出社した。 それは、朝であった。 霧のかかったバス停。 信号場の先には 周りには日産マーチが駐車した新築の一軒家があり、 バス停の目の前には 空き地に虎柄のロープが架かっていた。 私はそこで縄跳びのようにジャンプしたり、 綱引きのように紐にぶら下がったり、 虎柄のロープで遊んでいた。 バス

自論⑤:「渡る世間は鬼ばかり。」

この世は、鬼で満ち満ちている。 イラッとする人が敵のようにやってくると。 つい、カッとなって爆買いしたくなる時がある。 そうしているうちに、我を忘れて meijiのミルクチョコレートを 草むらにぶん投げて、 街中にいるホームレスの人が拾ってくれることを信じて 拾わずに帰っていく。 あれは210円した。 そのお金はチョコが溶けて色褪せてゆくのだろう。 私はただ疑って生きようとは思わない。 しかして、この世の中の腹黒さだけは憎たらしいものばかりであると。