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本当にわたしは自由なのか

大学卒業してすぐくらいの時のこと。(かれこれもう20年近く昔!)

ネパールで、カトマンズやパタンの街並みや寺院を見て回った観光のあと、高級ホテルのラウンジで、わたしはガイドのビザヤさんとサシでお茶を飲んでいた。(大手代理店を介して申し込んだ家族旅行でその仕事を引き受けているビザヤさんは、日本語も英語も流暢なエリートだった。)

何百年も前から立つ建造物の壁でところどころレンガが外されている穴は、鳥のために用意された家だった。野良犬も野良牛も野良人もみんなそこに野良っていることを許されていた。ヒンズー教と原始的な仏教が隣り合う街中のいたるところに大きな神様の像があり、生花やお菓子が備えられていた。通りすがる人たちが手を合わせていった。そんな、信仰が息づく町の様子についてわたしが感想を述べた続きだったと思うが、ビザヤさんは、

「わたしたちにとっての宗教は、西洋的なReligion(信仰)ではなく、Responsibility(責任)なのです」と言った。

「わたしの"Responsibility"とは、子供にとっての父であり、妻にとっての夫であり、親にとっての息子であり、仲間にとっての同僚であり、あなたにとってのガイドであるということ」と。

ネパール人のビザヤさんが、日本語の中に英語の単語を交えて説明を試みてくれた言葉だった。言語学的なことにも宗教学的なことにも詳しくはないけれど、それはなんだか、わたしの心にスパっと届いた。

日本語の「責任」じゃなくて、英語のResponsibilityなんだね。で、西洋的な宗教の説明ではなく、東洋人である自分の生き方を説明してくれたんだね。

ちっとも窮屈ではなく、とても自由でゆったりとした感じで、ビザヤさんは「責任」について語った。それは美しい言葉だと思った。

その感じを、長らくわたしは忘れずにいたのだが、先日、哲学者の斉藤慶典先生によるレヴィナスの「責任(Responsibility)の概念のとらえ直し」についての解説を聞く機会があって、それ、それだよ!と膝を叩きたくなった。

【生命の原理である「自分のために」に対して「(何ら自分と連続性を持たぬ、まるっきりの)”他者”のために」が成立しうるかどうか】という倫理命題に関して、ヴィドゲンシュタインの「語り得ないことには沈黙」に異を唱え、レヴィナスは過剰な言葉(「顔」とか「応答」とか独特な言葉)を使って論じようとしたというのである。

語ることの困難さゆえに、ないことにされているかもしれない、ありそうにもないけど、あるかもしれないもの、すなわち、倫理について。

そこでいう責任は、完全に受動的で一方通行な「応答せざるをえない」不自由の上にある責任である。無限の責任である。しかし、その下で初めて自由が可能となるような責任である。

わたしが言葉足らずなのはわかっている。

いやしかし、「私のために」ではない自由について、ありそうもないけどあるかもしれない、その責任について、さらりと説明されてすんなりと受け取った(と思った)時のハッピーな経験を、なかったことにはしたくないので、勢いのあるうちに稚拙でもいいから記しておこうと思った。

20年前のカトマンズは今よりまだ政治も安定していたし(その直後に王族の暗殺があって、10年前に行った時には町が荒んでいた)、パタンの美しい古い街並みも健在(2015年の震災で壊滅的被害を被った)だった。ビザヤさんとは仲良くなって、そのあと日本にいらした時に、名古屋の水族館を案内したこともある。人口雪の降るペンギン水槽に目を奪われて何十分も動かなくなってしまった姿が忘れられないけれど、いつの間にか連絡も途絶えてしまった。元気にしているだろうか。いまも、あの、原理的にかくれざるをえない、ありそうもない自由の言葉を使っているだろうか。

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