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占い師の手 (渋谷ノスタルジア vol.2)

渋谷駅から高速の通る大通りを越え、桜丘町に登っていく細い横道に入ったところにある、その雑居ざっきょビルの1階は小汚い中華屋だった。

中華屋の左手の狭い通路の奥に、周囲の建物にはさまれた、見通しの悪い外階段そとかいだんがある。

革靴かわぐつで登るとくぐもった音の響く、安っぽい金属の階段だ。

その折り返しを数えながら登っていくと、注意深い人は、そのビルが5階建てだということに気づく。表からは4階建のように見えるが、最上階は通り沿いが引っ込んだ作りになっているために下から見えないのだ。

階段を登りきった先には、愛想のない鉄の扉がある。重い扉だ。

それを開けると、真っ黒闇のちょうど目の前1メートルくらいのところに、四角い鉄板に店の名を掘り抜いた照明がある。

壁も床も天井も黒いなかの小さなオレンジ色の光を見てようやく、ここはなにかの店かと分かるわけなので、知らない人は絶対に入ってこられない。

携帯端末から近辺のお店が評価レートとともに一瞬で一覧検索できるような世界が来る、少し前の時代のことだ。

はじめて連れていってくれた人が親友のミサちゃんではなかったら…ちょっと仲良くなりかけの男の人だったりしたら、私はそこに辿たどり着く前に、「やっぱり、今日はもう帰ります」と言っていただろう。

それくらい怪しいたたずまいに反して、そのバーは暖かい場所だった。お店を回していたのは、二人組の大男だった。

オーナーの田神さんは、昔何かの格闘技をしていたとかいうのが納得の強面こわもてで、いつも、カウンターの常連さんたちとそつなく話しながら忙しく立ち働いていた。

残業で夕食を食べ損ねたといえば、その日あるもので適当に、メニューにない絶品の一皿を作ってくれたので、一時期ワーカホリックだった私にとっては頼れる存在だった。

料理が苦手だという私に、「いいオリーブオイルと塩を持っときな。なんだって野菜切ってかければすごく美味しくなるから。いちごと胡桃くるみなんか混ぜたら、急に上級者っぽくなるからさ」と、いつか彼氏ができた時のための裏技を教えてくれたのは、田神さん。

15年以上経ってもまだ私はその教えを守っていて、塩とオリーブオイルだけは常にいいやつを持っている。まあ、子供もいるとそれだけでは贅沢すぎるので、お手頃価格のものと使い分けているけれど。

もう一人の大男のさぶちゃんも、小山こやまの様な佇まいだった。しかしこちらは、無口にシェイカーを振る姿から、繊細ないやしのオーラが漂う。

さぶちゃんは、お客さんが少ない時には500円ワンコインで占いもしてくれた。一つテーマを決めてタロットカードを操り、手相を見て、言葉をくれる。

占いというものを大体信じていなかった当時の私だが、時々たわむれに頼むさぶちゃんの占いは好きだった。

なんでだろうと不思議だったが、今になって思うのは、彼の言葉にはおしつけがましさがなく、きざしを「読む」ことに忠実で、解釈はこちらに任せてくれたから。実はそのスタンス、インタビュアの仕事をする時の参考にもしている。

表題写真は、ある時に手相を見るために差し出されたさぶちゃんの手が、やわらかくあたたかかったので、つい撮らせてもらった一枚だ。

当時の私は、ぐるぐるととめどなく回り続ける無限地獄むげんじごくのような考えぐせの中にいた。が、そこから抜け出せたきっかけには、間違いなく、さぶちゃんの言葉があった。

つまりそうじて、わたしがいまわたしであるのは、今はもうないあのお店のおかげであり、さらにいうと、そこを紹介してくれたミサちゃんのおかげなのである。

だからわたしは、渋谷でひとりでも元気だった。

ありがとう。

渋谷ノスタルジア vol.1


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