情報化と地方〜情報化の効果が薄い訳〜

結局、情報の使い方は考える必要がある。特に今後は、

ある程度成熟した社会において、社会全体の価値は伸ばせないのではないか。そういう話は前回投稿した。だから情報イノベーションは新規需要を作り出すより寧ろ、需要の転換を引き出すにすぎなかったのではなかろうか。

実際日本では、ネットワーク産業の隆盛が1990年代から進んだが、前回お伝えしたようにGDPは上がっていないという。楽天ができ、So-netが誕生、第二電電も拡大した。それでもなお、社会全体の価値は上がっていないのだ。

最近しきりにこの類の話をしているのは、私が地域に根を置こうとしている、あるいは関わろうとしているからである。だから私には、成長や成熟と利益の話が切実にのし掛かってくると考えている。何故なら、活性化の中で「稼ぐ」というワードが、何度も好意的に扱われているからである。

私の通うSFCでは、地域活性化に関する研究が盛んだ。例えば長谷川葉子研究会では、口永良部島について、アートやデザインを通じた活動をしている。また飯盛義徳研究会では、地域を歩き人々と繋がるなかで、様々な文化・スポット・コミュニティの「資源化プロセス」を開発している。でもそれって正しいの?それが私の考えだ。

地方がいくらPRに力をいれたところで、実際はパイの取り合いが起こるにすぎないのではないか。実際に奄美大島は、どうしても沖縄と比べられ、需要は回復していないというデータが出ている。またふるさと納税を見てみても、納税額の減少に総務省が待ったをかけたように、納税者の取り合いが激化している。このように各地域は、新たな魅力を創出しても、価値が上がらない状況になっている。

この状況は、まあ当たり前である。言わずもがなだ。「神の見えざる手」のグラフ(需給曲線)を見れば一発だ。
そもそも現代の情報は、自らの関心がない限り(そして地方の情報は総じてそこに入る)、水道哲学的に同価値として消費される。地域ごとに魅力を発信する。そうすると市場に供給される情報は多くなり、価値は総じて下がる。だから情報量を増やしたところで、地域の価値が上がりにくくなるのだ。

そもそも、今まで述べてきたような情報というものは、どのように生産されるのか?人間にとって有益な、意味のある情報はどう生まれるか?
目下のところ、その生産主体は、機械と人間の2つである。近年では、人工知能の作った小説が星新一賞の一次選考を突破したように、機械(AI)もよく利用されるようになった。またSNSの発達により、誰でも情報を作り、開かれたプラットホームに提供できるようになった。
これらの性質を考えてみよう。大都市では人が集まり、周辺に関する情報が流れてくる。また人工知能は、資金の面でフラットに導入できるものではない現実を考えると、どうしても資本額に応じて情報が偏るだろう。この結果、地方と都市部の「情報発信格差」は埋まっていないのではないだろうか。

話を最初に戻すと、情報は過去にあるものの上乗せとしてではなく、書き換えとして消費される。そして、情報フローの太さは、都市部へ偏る上に全体的な強化が発生する。それゆえに情報をできる範囲で増やしても、全体的に情報の単位当たり価値が下がるため、価値の総体は変わらない。
だから、高度な情報化が進んだ現代では、地方の価値をあげるのは難しい。単に「資源化」や「情報化」を行っても、効果は薄いのではないか。

だから、単に人を増やす、情報を増やす、とやったところで、あまり期待できないと私は考えている。縮小する社会の中で、単なるリソースの取り合いが発生するだけである。

だったら何をするんだ?

価値を上げるのではなく、時代にあった形で変化させていく。必要と思えるものを維持できるように。まだ方向性はそれだけなのだが(変わる可能性も大いにあるが)、限られた時間のなかで少しづつ探っていきたいと、そう思う。

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