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性と生の自己肯定感について【乳と卵を読んで】

こんにちは、じゆうです。


いきなりですけど、自分の体を「キモチワルイ」って感じた時期ってないですか?(本当にいきなりだな。笑)

私は一応、女ですが、思春期に自分の心と体が変化した時の違和感や恐怖感をものすごく覚えています。


とても繊細で危うくて。そんな時期の揺らぎを思い出す作品でした。

あたしはいつのまにか知らんまにあたしの体のなかにあって、その体があたしの知らんところでどんどん変わっていく。こんな変わっていくことをどうでもいいやとも思いたい、大人になるのは厭なこと、それでも気分が暗くなる。どんどん変わっていく。過ぎていく。それがゆううつで、なんでかものすごく暗い。でもその暗さは厭、気分が厭、厭厭が目にどんどんたまっていって、目をあけてたくない。から、あけてられない、になりそうでこわい。

乳と卵

母親がホステスをしている緑子。

その母、巻子は豊胸手術をしようとしている。

緑子はその母親の姿に女性という性への嫌悪感、自分が生まれたことで母が色々失ったと思っているであろうこと、色んな負の感情があること。

その感情で母にひどいことを言ってしまいそうなこと。

とにかく、女の子が女性へ変化する時の、母親を女性と認めることの、わたしなんて生まれてこなければよかったのにと思う時の、掻きむしりたくなる気持ちを思い出して辛くなった。

(でも、読んだあとの後味は悪くなかったです!)

でも、そんな厨二病こじらせまくりだった私も大人になったので、この本を読んで思ったことを書いてみたいと思います。

自分の体への嫌悪感はどこからくるのか

ここが本の主題ではないかもしれないけど、私はここが気になってしまいました。

胸について書きます。あたしは、なかったものがふえてゆく、ふくらんでゆく、ここにふたつあたしには関係なくふくらんで、なんのためにふくらむん。(中略)女子の中には見せあって大きくなっているのをじまんする子もおったり、うれしがって、男子もおちょくってみんなそんなふうになってなんでそんなんがうれしいの、あたしが変か?

乳と卵

あぁ…わかるなぁ。
自分の意思とは関係なく変化して、それが笑いもののように扱われていることへの不快感。
思春期にはそれがきつかった。(今もか。笑)

なぜ、そう感じるのか考えてみたらひとつの仮説を思いついた。

「男性器は名称からセックスを想起しないことが多いけど、女性器は直接的にセックスを意味する、いやらしい名称が通称であり、女性の体=いやらしいもの、と思う深層心理が植え付けられている」

この仮説を確かめる方法はよくわからないけど、みんな思春期の変化をどう感じていたんだろう?男女での違いはあるのかしら。

ただ、名称については本当に由々しきことで、セックス=女性器の名称で表現されるのは本当にどうかと思っている。

たかが言葉と思う人も中にはいるかもしれないけど、言葉が与える影響は本当に大きいから。

使用済みの生理用品を捨てる箱は汚物入れじゃなくてサニタリーボックス、血液がついたパンツは汚れたパンツじゃなくて血がついたパンツ。精子がついたパンツも汚れたパンツじゃなくて精子がついたパンツ。そう表現するように性教育の本にも書いてあったなぁ。

自分の体やその体から出るものも汚いものではない。

思春期に感じていた不快感の感触を鮮明に思い出して、親や社会が、自分の体が汚いものではない、いやらしいものでもないということを言葉や行動で刷り込んでいくのは本当に大切なことだと思った。

なぜ自分を産んだのか親を責める気持ち

「なぜ、私を生んだの?」

「あなたに会いたかったからよ」

幼い時にされる、よくあるやりとり。
でも、よく考えれば生まれてなかったら私に会いたいもへったくれもないわけで、私が生まれていなくても悲しんでいる人はいないんですね。元からいないんだから。

だから、というわけではないけど、自分なんていなくなればいいのにって思っていた。今も思っていなくはないけど。

でも、緑子は気づくんです。

あたしは気がついたことがあって、お母さんが生まれてきたんはお母さんの責任じゃないってことで、あたしはぜったいに大人になっても子どもなんか生まへんと心に決めてあるから、でも、あやまろうと何回も思ったけど、お母さんは時間がきて仕事に行ってもうた。

乳と卵

自分の生まれてきた苦悩を親に当たりたくなるんですよね。
でも、親も自分の責任で生まれてきていないということに気づける緑子は聡いと思いました。

私は、正直、思春期の頃は、そこまで考えていなかったかも。


親になってみて思うのは、そんなに自分の生を嫌悪していたのに、私はなぜ子どもを生んだのか?

人は幸せにしてもらうよりも、幸せにする方が喜びを感じると何かで見たことがあるけど、子どものことを考えて行動している方が幸せを感じるのだろうか。それが子どもを生んだ理由の全てではないけど、それはなんとなくわかる気がするなぁ。

私は子ども達と出会えたことで純粋に幸せだと感じられる回数は絶対に増えた。

でも、自分の子どもが、生まれたことに苦しむときは、どんな言葉をかけられるんだろう。
子どもを幸せにすることが自分の幸せというなら、結局子どもを産むのは親のエゴってことだから。

子どもと関わる時には、「自分の満たされなかったことをしてあげたい」そんな気持ちが少し入っている気がする。

アダルトチルドレンのカウンセリングの「心の中の泣いている小さな自分を抱きしめてあげる」ような。

今更大声で訴えるようなことでもない小さなささくれに、絆創膏を貼るような。

昔の自分と子どもを重ねて見ているのは否定できない。子どもとの関わりが自分を癒すことに繋がっている。そんな側面もあるかもしれない。それが良い事か悪い事かはわからないけれど。


でも、子どもは子どもであって、私でも、私の所有物でもないから。
その線引きだけは誤ってはいけない気がしている。

まとめ

とにかく、よい作品だった。
私は思春期ドロドロを思い出して、ページをめくる手が重かったけど。

本後ろの紹介文にはこう書いてあった。

緑子は言葉を発することを拒否し、ノートに言葉を書き連ねる。夏の三日間に展開される哀切なドラマは身体と言葉の狂おしい交錯としての表現を極める。

乳と卵 

…身体と言葉の狂おしい交錯としての表現を極める…

本当に表現が極まっていた。さすがとしか言いようがない。
私が思春期に感じていた不快感の感触がありありと思い出された、というのはそういうことなんだと思う。

この作品を男性が読むとどう思うのかな?そんなことが気になったので、あとで他の人の感想も調べてみようと思う。


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