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伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』光文社新書

 ヨシタケシンスケさんの表紙がズルイ。そして福岡伸一さんの序文はへそまがりの私にはちょいとキツイ。と、まずは本文以外のところでざわざわしてしまった。おそらく私はこの本の編集者のセンスがあまり好きではないのだろう、と勝手なことを思う。

 私は生まれつき右目が弱視だ。視力矯正が出来ないので、メガネも右目はただのガラスを入れている。最近になって「アサガオ症候群」という原因も判明して、両親と共有した。子供の頃原因がわからず、大学病院に通ったり、入院したり、良い方の目にアイパッチをして過ごしたりしていたので、一緒に苦労した親も「そんな症状があるのか」と納得し、何かファミリーヒストリーな感じだった。なので、このタイトルには個人的な興味もあった。

 本書を一読して「両目の見えない人の世界」は、私の「片目の見えない世界(弱視ですが)」とは、まったく異なることを痛感した。私は明らかに「目の見える世界」の情報と意味の中を生きている。そして、以前どこかのセミナーで似たような話を聞いたおぼろげな記憶もあるのだが、著者の「障害とは何か」の定義が心にジーンときた。

 そもそも障害とは何でしょうか?
「障害者」というと「障害を持っている人」だと一般には思われています。(中略)こうした意味での障害は、その人個人の「できなさ」「能力の欠如」を指し示すものです。(本書209頁)

 ところが、新しい考えでは、障害の原因は社会の側にあるとされた、見えないことが障害なのではなく、見えないから何かができなくなる、そのことが障害だと言うわけです。(中略)「足が不自由である」ことが障害なのではなく、「足が不自由だからひとりで旅行にいけない」ことや「足が不自由なために望んだ職を得られず、経済的に余裕がない」ことが障害なのです。
 先に「しょうがいしゃ」の表記は、旧来どおりの「障害者」であるべきだ、と述べました。(中略)「障がい者」や「障碍者」と表記をずらすことは、問題の先送りにすぎません。(中略)むしろ「障害」と表記してそのネガティブさを社会が自覚するほうが大切ではないか、というのが私の考えです」(本書211頁)

 つまり、年老いて「何かができなくなる」状態も、「障害」ということになる。その「障害」を減らす努力をみんなでしようじゃないの、ということだ。
 私も「片目」で見ていることで、「障害」というか「不自由」を感じることがある。遠近感が苦手で、お酌をするときに相手のコップにうまく注げないことがある。車の運転はもっと深刻で、若い頃に車を横にぶつける大事故を2回起こして、30代で車の運転をやめた。それも広い意味で「障害」といえるのだろうか?とすると、自動運転が普及すれば、そういう私の「障害」は解決することになるのかな?

 ところで、著者の文章を書き写していてその「ひらがな」の使い方に感銘を受けた。繊細で、やさしい表現を意識しておられるなと。そして、ハッとした。私が、なぜ福岡伸一さんの序文に違和感を覚えたのか、わかったからだ。そう、天邪鬼の私は「自分で確かめたい」のであって、冒頭で「他人の評価」を聞かされることがいやだったのだ。やはり、この本の編集者とセンスはあわない!とぜんぜんちがうところで大いに納得したのであった(笑)。


 
 

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