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『言語交錯』解題:平坦化する音楽と「新しさ」を求めて

2021年6月1日更新(約3,4000字)

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本文は2021年3月に発売された『言語交錯』に付録する解説冊子をもとに、大幅に編集を加えたものです。音源はこちら。


序:「都市」から「言語」へ


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 2021年2月、東京新宿の都会をホテルで見ながら、この文章を書いている。生涯で3度目のこの都市はまだ馴染みないために毎度圧倒的規模に驚愕しているが、人通りは昨年より少なく感じた。朝ラッシュ時間帯で新宿から丸の内線に乗ったが、比較的空いていたように思う。出張のため観光はできず、加えて緊急事態宣言も発令されていたため、基本的にホテルと訪問先の往復だったが、少しだけ時間を作って秋葉原に立ち寄った。15年ぶりに秋葉原に来たが、以前に来た時と比べて、自分が思っていた「アキバ」のイメージからすると何か肩透かしを食らう感覚を覚えた。

 私にとって秋葉原は2ちゃんねる的なオタク文化の拠点というイメージがあり、その秋葉原という都市に対するイメージは今も昔も大して変わってないだろう。当時小学生の私は2ちゃんねるなどで書き込みすることはなく、いわゆるオタク文化にどっぷりつかった人間ではなかった。それでも、それでも『電車男』や『恋のマイアヒ』をリアルタイムで経験し、秋葉原とインターネットが中心となってこれから大きく世の中が変わるという漠然とした期待を持っていた。15年前、オタク文化に詳しくない自分はただ漠然と秋葉原を楽しんだだけだったのだが、私が降り立った2021年の秋葉原には歩行者天国はなく、一見すると何かオタク文化を代表するような特徴的な何かがあるとも思えないような、小綺麗なビル街でしかなかったのだ 。

 2000年の文化拠点としての「アキバ」はどうして、小綺麗な都市「秋葉原」となったのだろう。想定されうる理由として、昔の「アキバ」ならではのオタク文化が15年を通して全国各地で展開されたことが関係していると思う。私が今住んでいる京都に目を向ければ、古くから寺町通りに面し小さな電気街があり、その近くにはいわゆるオタク向けのチェーン店が複数あった。より視野を大きくとれば、大阪日本橋近辺が急速にオタク文化の西の拠点のようになっていったのは、丁度私が秋葉原初めて立った時期くらいだったと思う。かつての「アキバ」名物のメイド喫茶は全国に拡大し、また秋葉原でのみ買えた精密な電子部品なども、今やAmazonを利用すれば、最速2日で届くようになってしまった。歩行者天国なく、少し綺麗になった「秋葉原」は、路上でハルヒのコスプレ集団がゲリラ的に「ハレ晴レユカイ」を踊ったかつての「アキバ」から大きく変わってしまったのだろうか。

 しかし、私はその中でもある点を通して、かすかに「アキバ」を感じることができた。秋葉原に向かう山手線の中で、私は2008年に起きた秋葉原連続殺傷事件を調べていた。数多くの事件や震災に埋もれてしまったことによって過去の事件のように見なされることも多くなったこの事件だが、私にとっては『電車男』的な文化拠点的イメージであった「アキバ」が音を立てて崩壊するような感覚を覚え、それゆえにかなり大きな印象を私に残していった。私は決して慰霊のために秋葉原に向かったわけではなかったが、ある種の「聖地巡礼」を通して、「秋葉原」ではなく「アキバ」に触れることができたのだった。だが、当時大型トラックが突っ込んだ場所を調べてそこに向かってみたものの、特に石碑や慰霊碑などが大きく立っているわけでなく、ただの一角であった。当時大きく報道され書籍も発表されたほどの影響を与えたのだが[2]、13年前の事件であるという社会的事実だけでなく、私も幼かったゆえに深く印象に残っていただけだったのだろうか。かつてトラックが突っ込んだその場は今では多くの人が行き交うだけの空間になっていたが、それでも、その一角は私にとって綺麗な「秋葉原」ではなく、ゼロ年代のネット文化とともに育った「アキバ」を連想させるものであったのも事実だ。繰り返しになるが、2008年の事件という私が目にした衝撃とその痕跡を求めながら、私は「秋葉原」で「アキバ」に遭遇することができたのだ。

 世代的に「アキバ」を肌感覚で知らない私にとって、13年前の連続殺傷事件は小綺麗な「秋葉原」から「アキバ」の文化的痕跡を見いだしてくれた。だが多くの人にとって13年前の事件は過去の話だ。無論、私の肌感覚でしかないのだが、それでも「アキバ」的な文化が全国的に広まり社会から認められていくことによって、かつての「アキバ」という都市の特徴的な文化は失われ、残ったのは小綺麗な「秋葉原」だけなのではないだろうか。独自文化が輸出され、独自性を失い、それに伴い多くの要素が均一化され、異質なもの、特徴的なものが無くなってしまった都市、綺麗な「秋葉原」。そこには、何が残っているのだろう。無論、そこで「アキバに戻れ」という回顧主義的な主張は全く生産的ではない。だが、かつての「アキバ」のような独自文化を今の「秋葉原」から見いだすためには、何か別の手法を用いた都市の切り取り方、別の都市の語られ方、文法との衝突が必要なのではないだろうか。秋葉原連続殺傷事件という私なりの記憶をもとにした秋葉原の語り方、文法を用いて、私はかつての「アキバ」を夢想した。ここで私たちは決して「アキバ」にいたる必要はないが、私たちが都市に対して何等かの語り方、文法を維持しなければ、私たちの都市は完全に無機質になってしまう。それはまさに、無機質かつ小綺麗な「秋葉原」である。環境によって制御されつくされた都市の中で、私たちはどのようにして新しい文化を生み出すことができるだろうか。

 都市の文化を維持するため、その記述方法、文法を変えること。その方法はあるいは、従来の語り方を逸脱する点で疎外を受けるだろう。2008年の事件が完全に忘れ去られたとき、私の文法は完全に孤独なものになるのかもしれない。しかし、あるいは私が今回行ったような忘れ去られた聖地巡礼は、都市の記憶と文化を維持するために必要なことではないだろうか。「アキバ」の個性が消失し「秋葉原」という量産化された街になっていく過程が仮にあるのなら、この孤独はきっと均一化と無機質化に抵抗するものとして、そして過去の想起と現代を衝突させる形で「新しい文化」を生み出すために、必要なことではないだろうか。

 疎外された文法、孤独な言語によって新しい語られ方、コミュニケーションを生成する。「言語交錯」は外部に位置する存在、別様の視点によって、私たちの在り方の輪郭を作り上げるための思想であった。だが一方で、そのような「孤独」には限界がある。なぜなら、言語の外側の世界、言語で表現しようのないようなものを言語で表現しようとしている行為それ自体が、矛盾を抱えるからだ。

 ここで私は視点を変え、言語と文法の限界についての議論を哲学史より見出してみたい。20世紀の文学者ロラン・バルトは『零度のエクリチュール』という著作を通し、新しいエクリチュール(書かれたもの)が本質的に孤独であり、かつその孤独はたちまち失われてしまうといった[3]。バルトは今日の消費社会が貪欲な消費活動を続けるさまを批判しながら、パターン化された消費とは異なる「新しいもの」である「零度のエクリチュール」を求めた。バルトは『零度のエクリチュール』においてカミュの『異邦人』を取り上げ、それが「ニュートラル」、「無活性」、そして「零度」であると評価した。『異邦人』の文章はエクリチュールの中に望まれない意味、支配的イデオロギーが含まれず、それゆえに嘘を拒否するものとして「正直」なものとして語られているとバルトは主張する。それはエクリチュールが含んでしまう「歴史」——文章が含んでしまうある種のイデオロギー——に意味が拘束されることを免れながら、全面的に責任応答的であり続けるもの——「文学」的解釈を生じさせることが無いもの——として、「文学」を却下するのだ。

 こうして、文学的解釈の拒否により消費社会の支配的言語に抵抗する「零度」は、今日の消費社会上における消費のされ方に対し、それをある意味で批判するものとして読める。このようなバルトの姿勢は今日、全国に量産・複製化された「アキバ」の消費が続く現代社会に内面化された「文学」を乗り越える「零度」として、今まさしく必要とされているのではないだろうか。彼は21世紀のインターネットを見ることなく交通事故で亡くなった。だが、資本主義の有する巨大なイデオロギーからだれ一人逃げることの出来なかった現代の私たちを前に、バルトは何を思うだろう。インターネットを通して無意識的に情報を吸い取られる私たちは、自身が希望するかしないかにかかわらず強制的にフィードバックを受け、過去の経験に類似したものを経験させようとする。その作用はスマートフォンの予測変換や、動画投稿サイトのおすすめなどに登場し、そしてかつて「ユビキタス」と言われ、今では「モノのインターネット(Internet of Things)」という概念を通し、もはや各人におけるインターネットの利用状況に関係なく、私たちは目に見えない巨大な力によって、無意識下で自分が快適になるように自動的な選択が行われている。それはまるで、バルトが「文学」と称した巨大かつ支配的なイデオロギーが、私たちの生活の微細にまで浸透しているようではないだろうか。「零度のエクリチュール」はこうした批判として、私たちにさまざまな新しさを提供しうるものとして、注目されるべきだろう。

 しかし、「零度のエクリチュール」をこのように読み解くのならば、それは20世紀のフランクフルト学派の思想と大して変わらないものとなってしまうだろう。『啓蒙の弁証法』を執筆したテオドーア・アドルノは「文化産業」という言葉によって、20世紀初期から開始した産業社会における芸術の消費に対して避難的な態度を示した[4] 。彼の態度は、本稿が見てきた『零度のエクリチュール』における態度と大きく変わらないだろう。バルトはアドルノ的思想を文学というフィールドで実践した人であるということはできるだろうが、バルトは文化産業批判として作られるエクリチュールがやがて、大衆の娯楽として、つまり「文学」として消費されていくことになることを指摘している点で、より独創的だと思われる。バルトはカミュによって作成されたエクリチュールを肯定的に論じつつも、それがやがては明晰な古典作品として、フランス文学史を形成する一つの要素となってしまうことに自覚的である。

不幸にも白いエクリチュールほど不実なものはない。自律的な運動がはじめに自由があった場所事態で練り上げられ、硬化した形式の網がますます語りの最初の新鮮さを圧迫し、あるエクリチュールが不定の言語にとってかわって再生する。作家はついに古典派となり、自らの始原的な創造活動のエピゴーネンと化し、社会はかれのエクリチュールをひとつの流儀に変え、それをもまた自らの形式的神話のとりこにしてしまう[5]。

いくら当時に新しいと評価されても、それがいつまでも新しいままではいられない。だからこそ流行は常に更新され、零度のエクリチュールはその冷たさを保つことはできない。この前提が生涯にわたって展開され続けたバルトの哲学は一貫して悲観的であるように見える。あらゆる文学は単に自由であることはできず、そして文学的伝統から己を逃避することはできない。それでもなお、バルトはあらゆる意味における作家の自由な言語活動が止まらないことを指摘している。

文学的エクリチュールは歴史の疎外と歴史の夢とを同時に担っている。つまり、文学的エクリチュールは、必然として、階級分裂と不可分の言語の分裂を証しているが、自由として、その分裂の意識であり、その分裂をこえようとする努力であるということにほかならないからである[6]。

言語の限界を理解しておきながらも、それでも言語の限界を超えようとするバルトの姿勢は、肯定的に見られるべきだろう。零度は瞬間でしか保てないことを理解しながらも、新しい表現を求めて実践を積み重ねていく。そのような姿勢は後述のように、現代アートにおける「アートとは何か」という問題と重なってくるだろう。現代アートは常にこれまでの制度批判の上で成り立ち、そして現代アートの美的判断はその批判意識を自らに取り入れながら成長してきた。その中で、私たちはやがて従来の文法に回収されてしまうとしても、その状況を打破するために自らの言葉を作り上げていく必要がある。その作業は人類未踏の領域であるゆえに、孤独な作業になるのだろう。しかし、そのような孤独こそ、私たちが「アキバ」にいたる方法であり、零度のエクリチュールにいたる方法であり、そして全く新しいアートに出会う方法ではないだろうか。

 当初の予定通りに10曲を公開した今、思えば「言語交錯」とはこのような新しい孤独を求めすための作業だったのかもしれないと思っている。その作業は均質化される「秋葉原」、支配的イデオロギーをもつ文学、あるいは私たちの文化産業に抵抗し、新しいものと遭遇する可能性を追求するために行われる。それは一方で、受容者側にとって快楽を提供しない点から、聞き手に不快な印象を与えることもあるかもしれない。そして、そのようなエクリチュールは常に透明なものであるゆえに、多様な解釈の可能性を含む。この曲たちに強い意味があるかといわれればそうとは言い切れない。また、解釈を作者が強制するようなことは、再度バルトによってみればまさしく「作家の死」的な問題で否定されるべきことだろう[7]。「作家の死」という小論の中で、彼は「作家」という存在が近代以降に生まれた独特の存在であることを主張し、その脱構築を通して言語そのものに迫っていった。彼の思想を継承するならば、この曲たちは1曲目から聞き始める必要もないし、そもそも各トラック分けて収録されている以上は、どのトラックを聞き始めるかを巡る自由は受容者たる聞き手にある。その前提の上で、本稿は一つの補助線として書かれた。

 これから続く長い実践の前でも、その後でも、この文章が読まれるタイミングはどちらでも構わないと思う。だが、この文章が用意する補助線が何等かの意味で、新しい理解の発生に貢献されることを祈りたい。

1.言葉を扱う覚悟はあるか?

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1994年、京都で産まれた。
産まれた時のことは勿論、覚えていない。
人は生まれてきてから、4年間は記憶を持てない。
私の一番古い記憶は何だろう。
3歳くらいの記憶はぼんやりと頭の中にあるが、
その記憶が確かなものであるという根拠はない。

3歳から7歳までは海外にいたが、ほぼ覚えていない。
小学校の始めの一年は日本人学校だったが、幼稚園は現地の学校だった。
食わず嫌いが激しく、給食が嫌いな私は、よく「悪い子」だと言われた。
幼稚園では筆算まで教えられ、英才教育を詰め込まれた。
きっとその時の自分は嫌がっていたのだろうが、今となっては良い経験だったと思う。

日本に帰ってきて以降、言葉の違いにとても苦しめられた。
関西の言葉と文化に馴染めなかった私は、日本の学校に転校して以降、いじめを受け続けた。
言葉にとても敏感だった私は、必然的に人付き合いが苦手になった。
海外で身につけていた英語力も、努力しなければ1年で失われた。
その後、私には何も残らなかった。

中学校に進学してからは、いじめは酷くなったが、
それなりに少しは楽しく過ごせていたと思う。
いじめの記憶はほとんどない。
いや、どちらかというと、あまり思いだしたくはない。
いずれにせよ、よいものではなかった。
中学から始めた部活動でのテニスはあまりに弱すぎて、後輩に勝てなかった。
神経質な私にスポーツは向いていないと、うっすら思った。
それでも、この間に出会った人達は私を成長させてくれたし、部活動も最後に諦めるまで、なんとか続けた。
とても楽しい記憶だったし、感謝している。
みな、元気だろうか。
元気であってほしいと思う。
大学を卒業し、企業に就職し地元を離れた友達も、気づけば多くなった。

中学でいじめを受けた私は、きっと進学校ならいじめを受けることは無いと思い、
地元で3番手の進学校に進んだ。
そのあとの3年間は、今でも思い出したくない時期だ。
人間性と学力が比例しないということを、初めて理解した。
いじめは入学してからすぐに始まった。
中学から続けてきたテニスも、最後には辞めざるを得なくなった。
体調を崩して、カウンセリングも受けた。
私をいじめた人は教育大に進み、今では学校教師らしい。
今でも信じられない。
高校生活は随分過去のことになったが、彼らのことは今でも忘れずにいたい。
きっと、死ぬまで忘れないだろう。
部活をやめた私は、大学受験のさなかで初めてギターに触れた。
自分の思いを歌にできることは、私にとってとても衝撃的だった。
文化祭のために組んだバンドで、初のライブを行った。
あの時のライブの思い出は、今でも私を突き動かしている。
だが、受験は不合格通知の嵐だった。
晴れた顔で卒業していく周りを横目に、泣きながら勉強したことを覚えている。

3月入試で晴れて私大に入学してからの私は、
思えば小学校から受け続けたいじめの記憶に縛られ続けた。
音楽を好きになった私は軽音サークルに入ったが、過去のトラウマのせいもあって、
友達を作れなかった。
結局最後には一人になって、サークルもやめてしまった。
居場所を失った私は、ライブハウスに居場所を探し始めた。
伸しかかるノルマ、それを解消するための集客が課されたが、
そもそも人付き合いに苦手意識もあった私には、とても重圧だった。
あまりにも安いアルバイトをしながら少しずつ資金をため、新しいギターも買った。
だけど、どうしても人が苦手な私は衝突を重ねつつ、すり減った。
大学のゼミでも消耗が激しくなっていった私は、
4年生で再びカウンセリングを受けることになった。

いま、大学から抜け出せないでいる私は社会に出ず、言葉の使い方を学んでいる。
私はこれまでいくつか、言葉を使った朗読を作ってきたが、
それらの全ての言葉には意味が込められている。
言葉は、私達をどのようにでも変えてしまう。
言葉を使う私達は、言葉に対して責任と覚悟を負わねばならない。
言葉で自己表現するのならば、
私達は言葉に自分の全てを注ぎ込むほどの覚悟を持たなければならないだろう。
その覚悟を私たちは持ちうるだろうか。
言葉をめぐる争いはいまだに絶えない。
それでも、私は言葉をかけ合わせながら、交錯されるそれの可能性を、信じるしかないのだ。
止まることなく変化を続ける動態的都市の中を、生き抜くために。

言語は、私たちの使用するメディアでは最古の部類に位置する。私たちは言語を使用して相手に自己表現をし、それが記録されていった蓄積の結果が人類の歴史となってきた。一方で、先述のように言語はその性質ゆえ、言語の枠組みを超えて意志を伝達することはできない。あるいは、そのような文章は例えば哲学者ドゥルーズおよびガタリによって執筆された『千のプラトー』のように、もはや不可解ともいえてしまいそうな文章の領域に手を出すことになるのかもしれない[8]。そのような文章は新しいものではあるものの、一方で文章が正確に意味を持てないがゆえ、エクリチュールとしても理解しがたいものとなってしまう——もっとも、『千のプラトー』では意図的に抽象化された議論が展開されている。

 そのような言葉について、私は前節でバルトの言葉を引用しながら、イデオロギーに支配された言語体系、文法から逸脱しうる零度のエクリチュールの可能性を論じてきた。それらは孤独だが、新しい価値を生み出しうるものだ。だが、そのような新しい価値は必然的に、何かしらの手段によって受容されることによって歴史として組み込まれていく。そこには、ある種の文脈めいたものが必要だ。前節で現代アートにについてわずかながらに触れたが、20世紀初期から現代に至るまでの美術史はおよそ「美」なるものそのものを表現するのではなく、それがなぜ「美」たり得るのかをめぐる哲学の歴史に対する批判的検討が基盤に存在している[9]。非常に難解かつ意味が分からないと称されがちな現代美術作品はそうした背景を知って初めて、意味を読み取ることができるのだ。零度のエクリチュールは常に零度を維持できずあらゆる文脈に回収されていくものの、一方でエクリチュールの新鮮さを奪い取るような私たちの文脈が無ければ、私たちはそれに触れることさえもできないだろう。

 そうした文脈と、その上に成り立つ意味の解釈を放棄したとき、私たちはあらゆるものを己の欲望のままに、直観的に消費するしかできなくなる。無論、消費社会批判はある種の啓蒙主義的、エリート主義的見解からの浅はかな批判に陥る可能性があり、それでは何も変わらないだろう。とはいえ、私たちは何も考えずに音楽や文章、その他あらゆる表現を消費し続けることは非常に危険だ。そしてその危険さは、今日の情報社会においてなおさら強烈に表面化している。

 このことについて、少し寄り道をしたい。2001年に哲学者・批評家の東浩紀が『動物化するポストモダン』で示した「データベース型消費」という概念は、大衆があらゆる表現を消費する際に、それが「物語」ではなく複数の「萌え要素=データベース」の消費となったことを指摘したことで、今日に至るまで非常に大きな影響を持ち続けている[10]。議論の背景にインターネットも含まれている東の指摘は、それ以前のコンテンツの消費が「大きな物語」と称される一つの膨大なストーリーの消費であったのに対し、およそ90年代以降のコンテンツ消費方法がキャラクターの細かな要素ごとでの消費に変化していることに気づき、そしてその細かな要素(=萌え要素)の組み合わせによって多様な作品が生産されていることを指摘した。この東の主張は例えば、今日におけるいわゆる「異世界系」と称される小説群がその骨子となるストーリーの要素を共有している点で考えられる。今日のライトノベルの多くでは現実社会に疲れ切った主人公が第一話で何等かの理由——不思議なことに、みな一様にトラックに轢かれるのだが——によって死を迎え、ゲーム的世界観を持った異世界上で自由に生活するという話が多数だ。それらは基本的な構造を共有しながらも、少しずつデータ、つまり萌え要素を組み変えることで微妙に差別化され、かつその微妙な差異によって消費がなされている。このようなデータ、萌え要素の集合体を東は「データベース」と呼び、その中の複数要素から構成された要素たちの組み合わせたるコンテンツの消費を「データベース型消費」と称している。

 データベース型消費はもはや、今日では至る所に存在している。先のライトノベルの例は顕著だが、それはあるいはJ-POPの完璧にパターナリズムされた世界をもとに考えてもよいかもしれない。必ず「サビ」が存在し、またそれが複数回、微妙な差異を加えて繰り返される構造が多くの曲に共通してみられる状況は、J-POPがいったいどのような要素によって構成されているかを考えるにおいて示唆的だ。では、この何が問題なのか。データベース型消費は受容者の「萌え」を要素に分解すること、つまりは何を好んでいかを収集することによって、制作者に効率よく作品を生成させることを可能にしている。したがって、私たちが好んでいるものが何かというデータを一度獲得してしまえば、それを再利用しつつ差異を生み出し生産することで私たちは永遠と自分の「萌え」を消費できるということだ。これはいわば、私たちを永遠に「萌え」によって快楽させられるということだ。このような状況はいくばくかユートピア的に思われるが、一方でそれによって私たちは不快になることが無くなってしまう。それは私たちに類似した快楽を提供し続けることによって視野を狭くしてしまう可能性をはらむ点で、前節で述べたような「文学」によってエクリチュールが制限されてしまうというバルトの悲観的な文学論とも近い意味があるだろう。突然として目の前に生じてきたような新しいものによって、私たちの認識が根本的に変化するような可能性のすべてが奪われてしまうのだ。このような状況を無批判にユートピアとは言えないだろう。むしろ、私たちが意識しない水準で新しいものと遭遇する機会を失っているという点で、それはディストピアだといわざるを得ないのかもしれない。

 そして、現代では紛れもなく後者の方に舵が切られている。データベース型消費が提唱された2000年代も過去のとなった今、大企業は顧客のサービス利用状況をデータとして収集し、データベースを構築し、それをフィードバックすることで顧客に最適な消費を促そうとする。AmazonやNetflixといった企業が提供する「あなたへのおすすめ」はまさしく、私たちが買った/視聴したという個人情報を企業が大規模に収集し分析することで、類似商品の消費を促している。そうして私たちはデータベースの提供する快楽に従順になっていくが、一方でデータベースに支配されてもいるだろう。作品やコンテンツとの遭遇が仕組まれている状況では、例えば全く何の意図もなく掲示板で見つけた音楽に出会うといった、偶然の出会いは存在できない。経済学者イーライ・パリサーによって「フィルター・バブル」と称されたこのような状況下では、私たちが想像もしなかった新しい創造性に出会うことは無く、東の表現を用いれば「動物」的に表現を消費し続ける人々の群れが現れるのだ[11]。

 このようなディストピアを避ける方法として、零度のエクリチュール、あるいは新しい表現は重視されるべきだ。そして先述のように、新しい表現はそれを受容する文脈をもってして初めて価値を見いだしうる。「言葉を扱う覚悟はあるか?」は文脈という大きな「物語」に自らを組み込むことで、これから開始される長い思考実践に受容者を引き入れるために作られている。無機質な音楽と事実をそのまま描き出す言葉によって構成された本曲は、決して聞いて楽しい気持ちになることもなければ、単純に悲しい気持ちにもさせないような、複雑で不快なものとなることを目指して作られた。なぜなら、それが単純に悲壮感の表現に収まってしまえば、それがまたデータベースとして組み込まれてしまうからだ。私はそれが不可能であることを知りながらも、私の人生をありのまま書き写す。このような強力な言葉たちは、何かデータベースへの組み込みを拒否する力学を見せないだろうか。それは前節の孤独なエクリチュールの議論は決して存在しえないという主張のように、やがてはデータベース化されていくのかもしれない。それでもなお、本曲は言語交錯と称された一連の曲たちが何をしていくのかを提示し、データベースの次元で消費できない次元への残りの時間をかけて導くものであることを、明示しているのだ。

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