見出し画像

[2000字エッセイ#2]『輪るピングドラム』と遺族の倫理ー地下鉄サリン事件・東日本大震災・パンデミック社会

この記事は自由に価格を付けられます。
https://paypal.me/ukiyojingu/1000JPY

 5月最後の祝日。6月は祝日がないため、少なくとも70日以上は祝日を迎えることはないらしい。自宅で『輪るピングドラム』の連続視聴番組を見ながら、この文章を書いている。当時リアルタイムで見ていたアニメーションだったが、10年前の放送と聞き、意外なほどに最近の出来事であることを知った。私にとってはもっと昔、中学生くらいの出来事のような気がしたからだ。このアニメの世界観の設定もあるだろうが、2011年の放送と聞いて私の中ではたちまち3月の東日本大震災が頭に浮かぶ。幸いなことに(といっていいのだろうか)、私は今まで大きな地震を体験したことがなく、10年前の震災も大きな影響は受けなかった。だが、当時目まぐるしく状況が変化し、また大勢の人間の死が規制されず「生々しく」撮影・報道された当時の衝撃は、私に大きな衝撃を与えた。宮城で大規模地震が発生し、それから間もなく茨木で大地震が発生したときには、まだ世間のことも知らない身でありながらも大事件が起きてしまったことを感覚的に理解した。メディアが正気と秩序を明らかに失い、正しさを保証できない情報をそれでも人命のために報道し続けたあの混乱さは、もはや言葉で十分に表しがたい衝撃を持っていたのだ。

 1995年の「地下鉄サリン事件」がこの物語の大きな背景にあることは有名だ。明確に指摘されることは決してないが、物語中で語られる1995年3月20日の大量殺人は現実社会の同年同日に発生した地下鉄サリン事件と重なっている。このことはすでにいろいろな場面で語られているが、そのような事件を語る物語が2011年という未曽有の大震災が発生した年に流されたのは、きっと大きな意味を持っているのではないだろうか。災害かあるいは事故かという点でこれらは大きく二分されるべきだが、報道が優先されることで情報が錯綜し、何か正しい情報であるかが誰にとっても理解できなかった状況が形成されていた点では、両者は共通する。いずれも大規模な人間の死亡と、それに伴う遺族のドキュメンタリーに大きな注目が集まった。『輪るピングドラム』では加害者と被害者の世代をも超えた因果関係がいくつもの場面で問われるが、それは皮肉にも原子力発電所をめぐる企業と地元の関係とも何かしら重なるものが見えてくるように思える。

 世代を超えてもなお、呪いのように降りかかる遺族の倫理的問題。そこにもう一つ視点を加えるなら、失われる命に対する理不尽な願望という点も、両者に共通する問題かもしれない。『輪るピングドラム』では少なくとも2度主人公が死んで蘇るが、そのいずれもが主体性に欠け、自らの願望によるものではない。大量殺人と災害のいずれにおいても、死んでしまった被害者は何も発言することはできない。残された遺族は唐突になくなった死者を傷み、喪に服す過程の中で死者が生きている世界を想像し、あるいは死者が死に至る原因を求め、攻撃可能な他者を設定する。その繰り返しによって喪の作業は完了し、いつしか私たちは再度社会を回そうとするのがこの世の中の定石であり、およそ100年前に心理学者フロイトが述べたことであった。その願望は遺族の復帰においては必要不可欠な行為であるゆえに、非難されるべきものではない。だが、それは無意味を伴う。遺族が死者の生きている世界を求めることは決して問題ではないが、それは死者が蘇らない世界であるゆえに必要とされる。にもかかわらず、代償を差し出すことによって死者の生存も可能にしてしまう世界では、もはや遺族は遺族としてなすべき仕事すらできなくなってしまうだろう。そういった残されたものに対してかけられた呪い(まさしくこのアニメの主題の一つが「呪い」だ)が、このアニメでは一貫して描かれているといえる。1995年の事件から2011年に向けてのメッセージとして発生された当時の声は、偶然にも大災害によって1995年に準じた状況に置かれた私たちへと送り出され、まさしく新しく生み出されてしまった遺族に届けられていったのであった。

 そして放送10年が経過した今、世界規模での感染症の拡大によって、私たちはまた新しい遺族集団の発生を目にしている。少しずつ到来した感染症社会は決してこれまでのようなメディアの大規模な混乱を招くことはなかったが、マスメディアに対する不信感がSNSでは騒がれ、そしてフェイクニュースをチェックするサイトに対しフェイクを指摘することがなされてしまっている現代社会の中では、これまでとは異なった形での情報の混乱とメディアの錯綜状態が発生している。日本国内では他国と比較して死者は少ないと耳にすることは多いが、それでも多くの死者が出ていることはもはや否定しがたいことだろう(と断定することすら、現代社会の中ではもはやできないのであるが)。地下鉄サリン事件を通して発生した遺族の倫理は『輪るピングドラム』を通して2011年に問いかけられ、そしてそれから10年が経過した現代、パンデミック社会を通して改めて問いかけをしているのではないか。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
いいねありがとうございます。