見出し画像

浮世絵の絵の具ー藤黄・他ー

追記
藤黄は(広義にはオトギリソウ科)フクギ科フクギ属 ガンボウジノキなどの樹木の樹脂から作られます。色材として、使用におけるその色は鮮黄色を示し、日光には退色します。又その成分には強い下剤作用があります。
「海藤」という漢表記の由来はわかりませんが、現在確認されている中で国内最初の画法書と言われている、土佐光起「本朝画法大伝」(成立年:1690年)内の「藤黄」の説明箇所には「~唐より来、海藤樹を煎して作、~」とあり、「海藤」の表記が見られます。

石井研堂「錦絵の彫と摺」(1929)には「其価格高いので上物でなければ之(藤黄)を用いない」とあります。江戸時代の浮世絵において藤黄は一般的に用いられた絵の具ではありません。調査報告例の少なくさから、どれだけの範囲で使われていたのか不詳ですが、1767年頃に刊行された鈴木春信「三十六歌仙 紀友則」には検出例があります。
鈴木春信(1725頃~70)の作品は上物として、紙しかり絵の具しかり、お金が掛けられている傾向にあり、少なくとも春信の作品において、藤黄はその使用頻度の高さが見受けられます。(ほか、春信の作品からは細工紅よりも高価な本紅なども検出されています。)

(明和年間(1764-72)の初め頃、趣味人達の間で私的に絵暦などの木版画(摺物)を絵師、彫師、摺師達に依頼して作らせ、その出来た上がった作品を交換し合う会が流行します。むしろ採算など考えない裕福な趣味人達が、凝ったものを・贅沢なものを作ろうとしたことで、木版画の技法や質・完成度は発展を遂げます。やがてその美しさに目をつけた版元が商品化を図り、錦絵というものが誕生します。(当時は江戸で生まれた錦織のように美しい絵という意を込め、「東錦絵」と銘打ち商品化されました。)
この時代の筆頭の絵師が鈴木春信です。鈴木春信の作品に藤黄(や本紅)などの、高価な絵の具や和紙が使われているのには、こういう出自や背景があるからです。
(やがて市場向けの商品として薄利多売となっていきますが、錦絵は鈴木春信が第一人者になる、(それ以前の浮世絵版画と比べて格段に)「色数の多い多色摺り浮世絵版画」のことであり、北斎や広重の有名作のように、現代一般に想像される浮世絵は錦絵に該当します。)

Takamatsu Toyokichi 
「On Japanese pigments」(1878)には「藤黄はどれも中国から輸入されている」とあり、又前述の「本朝画法大伝」の記述からも、基本的に江戸時代の藤黄は中国から輸入されていたと考えられます。但し、鶴田榮一「顔料の歴史」(2002)には江戸時代に長崎に輸入されていた藤黄の積立地(産地)として「交趾」・「シャム」の記述があることから、産地はまた別だと考えられます。

小泉栄次郎編「実用色素新説:一名・絵具染料案内」(1894)には「販売品には筒形藤黄或は筆管藤黄という円柱形をした上等品と、無形藤黄或は沙黄という塊状をした下等品がある」といったことが書かれています。また、矢野道也「絵の具製造法」(1904)には、市販品には「円柱形」・「塊形」・「無定形(粉形)」の3品があることが記されています。
現代も藤黄は市販されていますが(映像・写真のはそれです)、江戸時代のものからは変遷していることを思わせます。なお、藤黄の外面の色は黄赤色、深赤褐色ないし黄褐色で、経年により緑色を帯びるということが明治期の文献からはわかります。

画像1

様々な文献を見ていると、藤黄の別称として「雌黄」が用いられていることがあります。又その一方で「石黄」の別称として「雌黄」が用いられていることもあります。この名称の混用は江戸時代から現代に至るまで、様々な文献上に見受けられますが、北野信彦「近世出土漆器における材質・技法の把握に関する文化財科学的研究」(2001)によると、江戸時代においては、基本的には「雌黄」は「石黄」に対応しているとされています。(名称の混用は恐らくですが、藤黄と石黄の色の近似性によるものが大きいのかもしれないと思っています。これは当時の自分の見識不足もありますが、ある絵の具屋さんで石黄の名で売られ購入したものが、後になって藤黄であるとわかったことがあります。なお管見の限り、現代の摺師の間では藤黄の使用は見受けられません。)

・キハダ(黄檗)に関して
前述の「実用色素新説:一名・絵具染料案内」によると、キハダの木は「山城・美濃・近江・越前諸国の山中に産する。その外皮の外部は暗灰色だが内面は黄色を呈し、その色素は熱湯に溶出する」とあります。
使用用途としては染料の他、生薬などにも用いられます。

浮世絵における使用において、「錦絵の彫と摺」には「皮を粉末にしたものを紅を絞った水と合わせて使う」とありますが、紅を絞った水とは何なのか、(湯ではなく)水で色素を抽出できるのか、使用の度に粉末カスを取り除く手間をかけていたのか、等々その使用法の実態はまだわかりません。
目黒区美術館「ミュージアムシート011」(2016)によると、江戸時代の浮世絵における実際の色材分析調査において、キハダの使用例はこれまで確認されていないとありますが、今年2020年になり、広重美術館(http://www.hiroshige-tendo.jp/)よりキハダの検出例があるという情報を受けました。
キハダ(及びズミ)の使用実態の解明は今後さらなる調査が待たれます。

・ズミ(桷・棠梨)に関して
「On Japanese pigments」(1878)と竹内久兵衛「実業応用絵具染料考」(1887)からは、ズミの木は「磐城・甲斐・信濃・下野・越前等に産し、通称「やまなし」と言われる。その外皮は水で煮出し明礬を混ぜて染料に使われる。最も常用される染料である」、といったことがわかります。また、水で煮出した液体に明礬及び灰汁を加えて、(ないし灰汁で抽出した液体に明礬を加えた後糊を混ぜて)、乾燥させたものは「煉桷(ねりズミ)」などと言われ、これが絵の具として供給されていたことがわかります。

「錦絵の彫と摺」(1929)や榊原芳野 編「文芸類纂 巻八」(1878)には摺師の絵の具としてズミの記述がありますが、実際の色材分析調査において、今のところその使用の確認例は見受けられません。

・黄土について
前述の「錦絵の彫と摺」や「文芸類纂 巻八」には挙げられていませんが、貴田啓子・北田正弘「江戸時代の浮世絵版画に用いられたフェロシアン化鉄顔料の劣化」(2010)によると、幕末の三代歌川豊国の作品の黄色部分からは黄土(及びウコン)が検出されています。
なお明治時代の摺師の絵の具の記述が見られる、T. TOKUNO「JAPANESE WOOD-CUTTING
AND WOOD-CUT PRINTING」(1894)には石黄、ズミ、黄土、ウコンの名を挙げた上で、「現在はほとんどが石黄の使用に代わった」ということが書かれています。
黄土の使用実態についても今後解明したいと思っています。

参考文献

土佐光起「本朝画法大伝」(成立年:1690年

Takamatsu Toyokichi 
「On Japanese pigments」(1878)

榊原芳野 編「文芸類纂 巻八」(1878)

竹内久兵衛「実業応用絵具染料考」(1887)

小泉栄次郎編「実用色素新説:一名・絵具染料案内」(1894)

T. TOKUNO「JAPANESE WOOD-CUTTING
AND WOOD-CUT PRINTING」(1894)

矢野道也「絵の具製造法」(1904)

石井研堂「錦絵の彫と摺」(1929)

北野信彦「近世出土漆器における材質・技法の把握に関する文化財科学的研究」(2001)

鶴田榮一「顔料の歴史」(2002)

貴田啓子・北田正弘「江戸時代の浮世絵版画に用いられたフェロシアン化鉄顔料の劣化」(2010)

目黒区美術館「ミュージアムシート011」(2016)

目黒区美術館「色の博物誌」(2016)

wikipedia
「フクギ属」https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%AF%E3%82%AE%E5%B1%9E

Special Thanks 菅原広司、末光陽介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?