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浮世絵版画の復元的復刻について   三代目歌川豊国「東海道五十三次之内水口長右衛門」を例に

(※この記事は研究誌に投稿し不採択となった原稿を加筆修正したものになります。検証的不備を前提にお読み下さい。)

Ⅰはじめに

これまで数多くの復刻版浮世絵(以下、「復刻版」)が作られて来たが、基本的にそれらは模造的ではあっても復元的ではなかった。
復刻版に関する調査研究は少ないが、文献資料上に散見される復刻版に関する言及、作品の比較観察、及び、彫師摺師からの見聞(例えば優れた復刻版とはどういったものを指すのかといったことや、制作の際にどういったことに注意が払われているのかといったなどについて)といったことからは、復刻版とはいかに江戸時代当時の作品と同質のものを再現するか(復元性)ということよりもむしろ、彫りや摺りの木版技術の点、紙や絵の具(以下、「色材」)といった素材の点、又或いは制作認識の点で、美術的向上性を志向しながら、いわば改良版作品として発達して来たと言えるだろう。
そういった従来の伝統的な復刻版に対し
、筆者はこれまで復元性を焦点とした復刻版の研究制作に取り組んで来た。そして同時にその上での基礎的なこととして、江戸時代における浮世絵版画の技術や素材などについての調査研究を行って来た。
未だそれらの途中ではあるが、本稿では三代目歌川豊国「東海道五十三次之内水口長右衛門」(嘉永五年〈一八五二〉)を例に、その研究について紹介する。

Ⅱ原画について

今原画は予算と保存状態の良好さを基準に選定した。
原書房の原敏之氏により江戸時代の真作としての鑑定を受けている。大久保純一「浮世絵出版論 大量生産・消費される〈美術〉」(平成二十五年(二〇一三))(注1)からは、この作品が摺られていたのは少なくとも嘉永六年(一八五三)二月までの期間であり、それ以降は絶版になったと考えられる。また同書からは、「並摺り・中摺り・極上摺り」とグレードを分けた摺りで当時出版されていた可能性が考えられるが、今原画はその摺りから「極上摺り」以外であると見られる。
江戸時代の浮世絵版画は売れ行きに応じ増刷されるケースが少なくなく、又使用されていた色材や紙は江戸時代という期間においても変遷がある。そのため特に素材の調査研究の点からは、原画とする作品は(後世の贋作や復刻版ではないということは勿論のこと)、初版の出版年が特定出来る作品で、なるべく初版に近いものであることが望ましいが、今原画はその条件にもある程度合致していると言えるだろう。
【(注1)吉川弘文館、一二七~一四三頁。】

原画として使用したオリジナル作品

Ⅲ原画の色材分析について

江戸時代の浮世絵版画に使用されている色材の大半は肉眼での判定不可であり、そのためには科学的な分析調査が必要となる。今回の分析は株式会社堀場テクノサービスに依頼した。測定機器には「HORIBA社製XGT―5200 絵画測定仕様」・「HORIBA社製顕微レーザーラマン分光分析装置」・「HORIBA社製ラマン顕微鏡」•「Bruker社製FTIR LUMOS」の四機器を使用した。原画の分析にあたり、リファレンスとして事前に筆者が用意した色材サンプル(注2)の測定を行った。また「XGT―5200」については、それら色材サンプル(石黄を除く)をドーサ引きした木灰煮米粉入楮紙、乃至ソーダ灰煮楮紙に摺ったもの(筆者が過去に制作した復刻版)に対しても測定を行った。その上で、次の図版中に示す計一八点に対して、各一点につき四機器全てを用いてのクロスチェックでの測定を行った。また「XGT―5200」については、色材由来の反応をより明確に分析するために、紙の余白部三点に対しても測定を行った。
【(注2)墨(炭素)、紅(紅花からの色素抽出液に由来する)、鉄丹(酸化鉄)、水銀朱(硫化水銀)、鉛丹(四酸化三鉛)、石黄(硫化砒素)、ウコン(ウコン根からの色素抽出液に由来する)、ベロ藍(フェロシアン化第二鉄)、本藍(藍染糸からの色素抽出液に由来する)、青花紙(オオボウシバナからの色素抽出液に由来する)、天然土性ベンガラ(酸化鉄)、鉛白(塩基性炭酸鉛)、他に米粉と膠。】


分析結果を踏まえ、使用の可能性が高いと推定された色材を次に記す。(次の各番号は図中のそれに対応する。)
①鉛白・墨・ベロ藍
②墨・紅・ベンガラ
③ウコン
④石黄・ベロ藍
⑤鉛白・ベロ藍・硫酸鉛(ただし、硫酸鉛の白色材は正倉院宝物中で確認されており(注3)、また鉛白が経年変化により硫酸鉛となる可能性も思われるが(注4)、現時点では浮世絵版画に使用された色材とはされておらず、未だ筆者の探求は得ない。)
⑥鉛白・ベロ藍
⑦石黄・鉛白・ベロ藍
⑧石黄・ベロ藍
⑨青花紙・紅
⑩石黄・ベロ藍
⑪石黄・ベロ藍
⑫青花紙・紅
⑬鉛白・墨・本藍
⑭紅
⑮石黄・墨・ベロ藍・ベンガラ
⑯墨
⑰ベロ藍
⑱紅・ベンガラ・チタニウムホワイト(ただし、チタニウムホワイトは現在の摺師間では「胡粉」としての使用例は見られるが、この色材の生産は二十世紀に入ってからのことであり(注5)、今原画での使用(推定)の背景については、未だ筆者の探求を得ない。)

【(注3)成瀬正和「正倉院宝物に用いられた無機顔料」(「正倉院紀要」二十六号、宮内庁正倉院事務所、平成十六年(二〇〇四))。
(注4)朽津信明・下山進・野田裕子「松戸市立博物館蔵の板絵に見る鉛白の変色と再白色化」(「保存科学」三十五号、東京文化財研究所、平成八年(一九九六))。
(注5)清野学・酸化チタン研究会「酸化チタンー物性と応用技術ー」(技報堂出版株式会社、平成二年(一九九一)、一~二頁。】

Ⅲ使用した色材について

・墨について

現在生産されている、鈴鹿墨の油煙墨を使用した。その使用法は「漬け墨」の法(墨片を水に浸し置き、柔らかくなったものを乳鉢や硯上ですり潰し墨汁とする方法)によったが、その方法は文献資料によって多少異なる。管見の限り、その浸漬期間には「数日間」・「約半年間」・「約一年間」・「約一年半〜三年間」の四期間が確認され(注6)、それを「硯上でヘラですり潰す」か「乳鉢と乳棒ですり潰す」かして墨汁化される。今回は筆者の摺師時代の方法にならい、一年ほど浸漬したものを乳鉢と乳棒で擦り潰して使用した。
明治初めの段階では、摺師はその職業上、書籍等を摺る「墨摺」、浮世絵等を摺る「色摺」、熨斗紙等を摺る「熨斗屋」の三種に別れていたと云われており(注7)、それら職業的な違いは使用する墨の種類や使用方法に関係していたものと思われる。又或いは時代ごとの変遷も思われるが、その分明化については今後の調査を待ちたい。

【(注6)Tokuno, T. and Koehler, S. R. " Japanese wood-cutting and wood-cut printing "(Report of the United States National Museum for the year ending June 30, 1892, p226, Smithsonian Research Online Homepage,
https://repository.si.edu/handle/10088/29868 )。榊原芳野編「文芸類纂」巻八文具志下(文部省、明治十一年(一八七八)、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号二十七)。稀書複製会 編「版畫禮讃」(春陽堂、大正十四年(一九二五)、二七八頁)。
山村基毅「つくるー浮世絵の摺師」(「諸君!日本を元気にするオピニオン雑誌」二十六(十一)号、文藝春秋、平成六年(一九九四)、一一三頁、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号五十八)。
(注7)小松宗徳「版画手摺に就いて」(「浮世絵」二十三号、浮世絵社、大正六年(一九一七)、三十頁、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号二十一。】

・紅について

大関増業編「彩色類聚巻之下」(文化十四年〈一八一七〉)(注8)を参考に紅花餅・藁灰・木灰・米酢・鳥梅を原料に試作した。
紅色材の製法に関連する文献資料調査上、紅色材の製法は大別すると二種あることがわかる。紅花餅は水により含有する黄色色素が洗い去られた後、アルカリ液を使い赤色色素の抽出が行われるが、その後、木綿や麻などの布を使い、その抽出液から純粋な赤色色素を分離回収する作業が行われる法と、行われない法である。前者の法は江戸時代からの製法関連資料において、一般的に確認される。明治十年(一八七七)の「工業新報」内の「臙脂(ゑんじ、かたべに)の最良品を製する法」(注9)や、「紅:伊勢半百七十年史」(昭和三十四年〈一九五九〉)(注10)では、アルカリ液による抽出液中に含まれる黄色色素などの不純物を除いて、より純度の高い赤色色素を得るための方法として、その必要性が言及されている。一方後者の方法は、文献資料上、前者の方法ほど多くは確認されないが、「彩色類聚巻之上」(注11)にて言及され、その方法によるものは(麻)布を用いる方法に比して、艶が劣るものになるとされる。
紅花餅に含まれる黄色色素は水に溶解するが、文献資料調査上、又筆者の試作経験上、紅花餅から水だけで黄色色素を完全に除去することは不可と見られ、その後のアルカリ液による抽出液内には、ある程度量の黄色色素は含まれるものと見られる。山岡次郎「初学染色法. 染料薬品之部」(明治二十~一年〈一八八七~八〉)(注12)では、紅花中の黄色色素には水に溶解するものの他に、アルカリ液に溶解するものがあるとされる。瀬川林次郎「色料新編 : 一名・絵ノ具ト染料」(明治四十三年〈一九一〇〉)(注13)でも同様の言及がされ、紅花色素の内、水溶性の黄色色素の量は全体の三分の一程とされる。(なお、紅花色素は本来的に殆どが黄色色素で占められている。)
先述の布による赤色色素の分離回収作業抜きにして、本紅が作られていた・作れるとは考え難い。仮にもし作れるとしても、赤色色素の無用廃棄は、避けられるべきことであることを前提にすると、アルカリ液によって繰り返し何度か抽出された液の内、赤色色素の多いものを本紅用とし、その他は細工紅用として用いることになる。しかしこの場合、細工紅作りと本紅作りは互いに付随するものとなり、立原位貫氏関連資料(注14)に見られるように、本紅作りは継承される一方、細工紅作りは製法含め途絶えてしまうという、過去の状況は生じ難いように思われる。
細工紅に関して、近年一説には細工紅とは、本紅に比して赤色色素の純度の低いもの(黄色色素を多く含むもの)とされるが、明治時代以降の文献資料を調べると、前述の布を用いる方法によった(本紅として口紅などに使われる)高純度の精製紅に、浮粉など(注15)の澱粉糊を加えたものと考えられる。「紅:伊勢半百七十年史」」(注16)では浮粉の糊を加えることで、絵の具などの使用用途上、扱いやすくなることに触れられている。江戸時代の細工紅がどういったものであったかについて、筆者は未だ確証的な資料は確認していない。中川五郎左衛門 編「江戸買物独案内」(文化七年〈一八一一〉)(注17)内の広告では極上細工紅の表記が見られ、赤色色素純度の高い細工紅が存在していたことが思われる。また前述のように、絵の具としての使用用途上に、澱粉糊を添加する意味があるならば、江戸時代における細工紅も、その用途に基本的に変わりはなかったであろうことを踏まえると、赤色色素の純度が劣る品というよりも(そういった細工紅もあったとは考えられるが)、むしろ澱粉糊の添加の有無が、細工紅を細工紅ならしめる基本的な条件だったのではないかと考えられる。なお、鈴木孝男「紅花研究四七年間の記録(要約)」(平成九年〈一九九七〉)(注18)では、長沼牛翁「牛の涎」(文化十二年〈一八二九〉)内の砂利紅(片紅に生麩糊を加えた粉状乾燥物とされる)に言及した上で、この砂利紅が細工紅とされる。
片紅に関して、近年一説には片紅とは細工紅同様、本紅に比して赤色色素の純度の低いものであるという説が見られる。しかし文献資料調査上(注19)、片紅とは赤色色素の純度問わず、精製されたばかりの泥状紅ないしその乾燥物であると考えられる。文献資料上、片紅は「堅紅」と表記される例があるが、その「堅」の表記からは「乾いて固くなったもの」という意味、又、「片」の表記からは、「商品として完成品になる前のもの」という意味が思慮される。
本紅に関して、近年一説に本紅とは(口紅などに用いられる)赤色色素純度の高い、精製紅であるとの説が見られる。しかし、高見澤たか子「紅屋伊勢半本店(前)」(昭和五十四年〈一九七九〉)では、本紅という名称が使われるようになった理由として、アニリン染料の台頭に伴いそれらと区別するためであったとされる。このことは明治初期の伊勢半関連史料からもうかがえる(注20)。又、鈴木孝男「紅花雑記」(昭和四十二年〈一九六七〉)(注21)に引用される「貞丈雑記」(天保十四年〈一八四三〉)の言及からは、本紅とは茜などを使った「偽の紅染」と区別するために、紅花由来の「本当の紅染」を指して使われていた名称と見られる。江戸時代後期~明治初期の染色技法関連資料(注22)からは、当時紅花を用いない(蘇芳などを用いた)「紅染」が存在しており、本紅の名称は、それらに対し、特に紅花使用であることを意味して使われていたものと見られる。「江戸買物案内」で本紅の名称が染物屋の広告にて確認されることも(注23)、その背景があるのではと思われる。羽根田作兵衛「日本紅之研究」(昭和三年〈一九二八〉)(注24)では、精製されたばかりの泥状紅に対して、本紅の名称使用が見られるが、基本的にそこから口紅や細工紅などが作られるとされる。(つまり同書で言う本紅とは前述の筆者の検証上、片紅に該当する。)
以上こういったことからは、本紅とは紅花由来ではない赤色染料に対して、特に紅花に由来することを意味して・強調するために、使われていた名称であったのだろうと考えられる。
以上のように近年見られる説は、文献資料の検証上からは考え難く、筆者はそれらの説の由来を辿ったところ、鈴木孝男氏の言説によるのではないかと見られた。しかしながら、同氏が晩年発表された「紅花研究四七年間の記録(要約)」内の言及を見る限り、文献資料上の検証が十分に成されていたとは思われ難い。近年の説は改めて検討される必要があると思われる。

【(注8)「止戈枢要巻之一四五―一四六」(下鳥正憲出版、昭和二十五年(一九五〇)、一〇四頁~一〇七頁、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号五十六~七)。
(注9)上村六郎・辰巳利文「万葉染色考」(古今書院、昭和五年(一九三〇)、一六九~一七一頁、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号一〇三~一〇四)。
(注10)沢田亀之助、伊勢半170年史編纂委員会、五七二頁。
(注11)前掲注8、三十二~三十三頁、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号二十。
(注12)十一堂、一〇五頁、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号六十四。
(注13)半田屋医籍出版、三一五~三二〇頁、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号一六八~一七一。
(注14)神庭信幸・小林忠雄・村上隆・吉田憲司監修「色彩から歴史を読む」(ダイヤモンド社、平成十一年(一九九九)一六〇~一六一頁)。立原位貫「一刀一絵」(ポプラ社、平成二十二年(二〇一〇)、九十~九十三頁)。(放映)「浮世絵 よみがえる幻の色」(NHK、「ワンダー×ワンダー」、初回放映平成二十一年(二〇〇九))。
(注15)竹内久兵衛「実業応用絵具染料考」(竹内久兵衛出版、明治二十年(一八八七)、二七八頁、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号一五四)によると浮粉とは葛粉や山慈姑粉などを製する際に傍製されるものとされる。
(注16)前掲注10、五七五頁。
(注17)二巻付一巻上巻、山城屋佐兵衛他出版、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号五十一。
(注18)東北生活文化学会編「東北生活文化論文集」十六号(東北生活文化学会、平成九年(一九九七)、五十九~六十八頁、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号三十二~三十七)。
(注19)前掲注10、三九二~三九三頁。東坊城和長書他「職人尽歌合 三巻」(谷岡七左衛門出版、明暦三年 (一六五七)、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号三十九)。 前掲注8、一〇五頁。岩淵栄治「紅製法之事」(昭和二年(一九二七)(早田茂松「紅花は咲いている」、遠藤書店、昭和五十九年(一九八四)、二〇九頁)。大蔵永常編「農稼業事後編巻之ニ」(文政十三年(一八三〇)(後藤 捷一・山川隆平編「染料植物譜」、民芸織物図鑑刊行会、はくおう社、昭和十二年(一九三七)、八三六~八三八頁)。小野蘭山口授他「本草綱目啓蒙」四十八巻(七)(須原屋善五郎他出版、文化二年(一八〇五)、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号二十九~三十)。寺島良安編「和漢三才図会 」(前掲注13、三一九頁)。
(注20)「版画芸術」七(二十六)号(阿部出版、二二四頁、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号一一四)。「紅の花」(株式会社伊勢半本店、平成二年(一九九一)、一二七~八頁)。
(注21)被服文化協会編「被服文化」一〇八号(文化服装学院出版局、七十二頁、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号三十八)。
(注22)前掲注19の内、「染料植物譜」の七七三頁、七八三頁、八五三~八五四頁、八六八頁、一〇〇六頁。
(注23)前掲注17、コマ番号一六六。
(注24)小町紅本舗、昭和三年(一九二八)、十七頁~二十七頁、六十~六十一頁、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号十八~二十三、四十。】

・ベンガラについて

北野信彦「ベンガラ塗装史の研究」(平成十五年〈二〇一三〉)(注25)を参考に鉄丹ベンガラを試作し使用した。同書からは十八世紀末~十九世紀前期頃の段階で、江戸市中で安価に供給されていたのは、ローハベンガラよりむしろ鉄丹ベンガラであっただろうと考えられる。加えて、「文芸類纂」ではベンガラは「銕丹」と表記されていることを踏まえると、当時の摺師間で、より一般的に使われていたのは、鉄丹ベンガラではないかと考えられる。然しながら、今回の色材分析調査ではベンガラの種類の分析までは至らなかった。

【(注25)雄山閣、 九十九~一一七頁、一一九頁、二九九頁。】

・石黄について

石黄には人造石黄と天然石黄があり、今回の分析ではその同定までには至らなかったが、近年の研究(注26)から、今原画の摺られた当時は人造石黄が一般的に用いられていたものと考えられる。
国内での人造石黄は既に製造中止となっているが、少なくとも昭和後期の段階では、まだ製造されていたと云われており、今復刻ではその当時の人造石黄の在庫を入手し使用した。しかし凡そ一七〇年前の江戸時代のものとは、製法・品質において変遷があるものと見られる。今回の色材分析調査において、④⑧⑩⑪の箇所(先述図版参照)は、基本的にはベロ藍と石黄の混色と推定されたが、④と⑪に比して、⑧と⑩は強い褐色味を帯びている。塩田力蔵「東洋絵具考」(昭和十七年〈一九四二〉)(注27)や北野氏の研究(注28)からは、人造石黄は褐色化する可能性は考えられるが、また人造石黄はその原料の配合率で黄色から深紅色まで作ることが出来ると云われており、当時赤味のある品種が存在し、そういったものが使われた可能性もあるのかもしれない。この褐色の要因については特に疑問が残った。

【(注26)大和あすか・塚田全彦「嘉永年間の役者絵に用いられた石黄の分析」(「文化財保存修復学会 第四十三回大会研究発表集」、令和三年(二〇二一))。
(注27)アトリエ社、八十六~八十七頁、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号六十八。
(注28)北野信彦「近世漆器の産業技術と構造」(雄山閣、平成十七年(二〇〇五)、六十二~七十九頁)。】

・ウコンについて

現在染色用に市販されているウコン根片から、立原位貫氏の手法(注29)を参考に試作した。しかし江戸時代における製法については、未だ確証的な資料は得ない。ウコンは製法や経年の影響を受けやすいものと思われ、江戸時代の色を再現する上で、今後特に製法についての更なる調査が待たれる。

【(注29)山口県立萩美術館・浦上記念館編「木版画家立原位貫江戸の浮世絵に真似ぶ」(山口県立萩美術館・浦上記念館、平成二十七年(二〇一五)、一一六~一一七頁)。】

・ベロ藍について

製法関連資料(注30)を参考に試作したものに、分量並び色調の都合上、市販品を加え使用した。立原位貫氏は江戸時代の浮世絵のベロ藍はその色調の違いから、三種が使われていた可能性を指摘している(注31)。また、松井英男・南由紀子編「浮世絵の名品に見る「青」の変遷」(平成二十四年〈二〇一二〉)において、色材分析調査によってベロ藍の使用が確認された作品群のその該当箇所を見ると、印刷物上の目視ではあるが、(経年変化を考慮しても)主に黒味と黄色味の程度の点で、異なる複数の色調の存在が伺える。
諸資料(注32)からは、天保期から幕末にかけて、江戸の浮世絵に一般的に使われた品は中国産であり、中国産には、通常色とその薄口の二種があったと考えられる。つまり濃淡の違いを除けば基本的には一種であると思われるが、このことは前述の複数種の存在の指摘とは矛盾する。(なお、もし中国産以外を含めても、長崎貿易を通じ当時の市場に流通していたベロ藍は、三種と推定される(注33)。)
このことについて、実際にベロ藍を作ってみると、ベロ藍は製造時の原材料分量や加熱の程度における微妙な条件の違いなどで、完成品の黒味や黄色味に影響が出やすいと見られた。そこからは前述の色調の違いは、産地や品質の違いというよりも、当時の中国産のベロ藍の完成品の色調が、一定していなかったことによる可能性が思われた。一方で当時の中国でのベロ藍製造において、その時代の途中で製造技術の改良・変更によって、品質・色調に変更が加えられた可能性が無いとは言えない。今後当時の中国におけるベロ藍製造についての調査が待たれる。

【(注30)高松豊吉・丹波敬三・田原良純 編「化學工業全書 第一卷」(丸善書店、明治三十七年(一九〇四)、二八〇~三一三頁、三二四~三三〇頁、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号一四六~一六二、一六八~一七一)。矢野道也「絵の具製造法」(博文館、明治三十七年(一九〇四)、五十四~五十六頁、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号三十四~三十五)。John Brown, "Observations and Experiments upon the Foregoing Preparation."(Philosophical Transactions. Vol. 33 ,1724~1725, JSTOR Homepage,
https://www.jstor.org/stable/103734?seq=2#metadata_info_tab_contents)
渡辺遂編「製法新書」(二神寛治出版、明治十八年(一八八五)、八頁、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号十四)。「工務局月報 」七号(農商務省工務局、明治時代中期頃、三十二~三十九頁、 国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号十六~十九)。古田彩・田中陵二・浅野信二「「若冲の青」を再現する」(「日経サイエンス」四十七巻十号、日本経済新聞出版社、二〇一七年、五十五~六十一頁)。野村正雄「牧穆中の訳述「ベルリン青製法」と蘭書原本―宇田川榕菴「舎密開宗」との関連などー」(「一滴」二十五号、津山洋学資料館、平成三十年(二〇一八)、一~十七頁)。「ブタの肝臓からプルシアンブルーをつくる」(結晶美術館ホームページ、https://sites.google.com/site/fluordoublet/home/colors_and_light/prussian_synthesis)。
「動物の血や魚肉からプルシアンブルーを作る」(同上ホームページ、
https://sites.google.com/site/fluordoublet/home/colors_and_light/prussian_synthesis2)。
(注31)降旗千賀子・加藤絵美・佐川夕子 編「色の博物誌」(目黒区美術館、平成二十八年(二〇一六)、一二七~一二八頁)。
(注32)石田千尋「江戸時代の紺青輸入についてーオランダ船の舶載品を中心としてー」(「神戸市立博物館研究紀要」二十四号、神戸市立博物館、平成二十年(二〇〇八)、四十四~四十七頁)。佐々木静一「近世(十八世紀後半以降)のアジアに於けるプルシァン・ブルーの追跡」(「多摩美術大学研究紀要」二号、多摩美術大学、昭和六十年(一九八五)、十六~二十頁)。「青へのあこがれ~武雄に伝わる青色絵具~」(武雄市歴史資料館ホームページ、
http://www.city.takeo.lg.jp/rekisi/kikaku/2012/ao/ao.html)。他、前掲注15の「ベル」並び「薄ベル」の項(八十四~八十六頁、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号五十七~五十八)からは、幕末から明治初期頃にかけて、市場の主要なベロ藍が中国産からドイツ・イギリス産へと推移していったことが思われる。
(注33)葛飾北斎「画本彩色通二編」(弘化五年(一八四八)(宮川寅雄解題「葛飾北斎 絵本彩色通」、岩崎美術社、昭和三十九年(一九六四)、五十三頁)では、「こいべろ、そらいろべろ、あさぎべろ」の三種が確認される。「繪具大觀」(嘉永五年(一八五二)(「絵具染料商工史」、大阪絵具染料同業組合、昭和十三年(一九三八)、七十七頁)では、「はないろ、そらいろ、こいべろ、唐藍」が確認され、同書内の記述からは唐藍は「べろ」と同義と見られることから、三種のベロ藍の存在が推定される。前掲注32の内、武雄市歴史資料館ホームページでは、「大極紅毛紺青、唐口紺青、同薄手」の三種が確認される。】

・鉛白について

江戸時代、一般的に鉛白は、鉛板に酢酸蒸気を当てることにより製造されていたと見られる(注34)。この製法にならい試作したものに、分量の都合上、市販品を加え使用した。浮世絵研究の分野で、鉛白は少なくとも一八世紀までは上製品に使用されていたとも言われているが、上製品とは見難い今原画において多用が推定された。
幕末にかけて鉛白が安価に普及したことが思われる一方で、今作の使用版木数は六枚であり版木数としては比較的多く、つまり当初から上製品として作ることが計画されていた可能性が思われ、又先述のように今作は「並摺り・中摺り・極上摺り」とグレードを分けた摺りで当時出版されていた可能性が考えられる。そのため例えば、一つの工房内で「極上摺り」が摺られるのと同じ時期に、「並摺り」の摺りが行われれば、極上摺りに使った鉛白をそのまま並摺りに使うということも思われ難くはなく、摺りの現場で鉛白使用の基準が曖昧化を起こしていた可能性も思われる。

【(注34)T.Takamatsu ," On Japanese pigments".( Department of Science in Tokio Daigaku,1878, p2~7, 国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号七~九)。山川隆平「鉛丹及び鉛白と鉛屋市兵衛」(鉛市商店、昭和十四年(一九三九)、四十四~四十六頁、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号四十七~四十八)。】

・青花紙について

草津市で現在生産されているものを購入し使用した。富田由布子「文書資料に見る近世の青花紙生産と流通」(平成二十年〈二〇一八〉)(注35)からは、江戸時代後期の市場の青花紙には、現在とは違い様々な品質のランクが存在していたと考えられる。原画では紫色を出すのに使用されている。近年一説に、当時一般的に紫色に青花紙が使われていた理由として、その当時の人々の色彩への美意識の点からの説明が見られるが、江戸時代も又それ以降も、摺師の使用する色材というのは、各時代での色材の価格や木版技法上での扱いやすさといったことと深く関係しているものと思われ、紫における青花紙の選択にも、むしろそういった背景があると思われる。このことについて、それらの点も踏まえ、考えられる可能性を指摘しておきたい。
・「紺青に関する研究」(大正十五年〈一九二六〉)(注36)によると、ベロ藍はクエン酸鉄により褐色化が促進されるという。そのため梅酸液で溶かれた紅とは混色色彩上の問題があった可能性。
・実見上、新品に近い青花紙の色はベロ藍や本藍に比べ、紫色により近い青色のように見える。(元摺師の筆者の経験上からは、現行のベロ藍に本洋紅を少量足したような色。)故に青花紙を使用した方が、高価な紅の使用を抑えることが出来た可能性。
・青花紙はクエン酸によって紫化する。そのため梅酸液で解かれた紅との混色では、少ない紅の量でも紫色が出しやすいため、高価な紅の使用を抑えることが出来た可能性。
・本藍と紅による紫の確認例はある(注37)。しかし本藍も紅も粘着性の高い色材と見られ、木版技法上での扱いにくさ故に避けられた可能性が思われる。また色彩の点でも、くすみのある本藍との組み合わせは敬遠された可能性は思われる。ただし本藍の中には、肉眼ではベロ藍との判別不可と云われるものも確認されている(注38)。しかしそれは例外的な特上品であったと見られ、高コスト故に一般的には使用が避けられたものと思われる。

【(注35)「青花紙製作技術に関する共同調査報告書」(東京文化財研究所、一〇八~一一四頁)。
(注36)印刷局研究所 編「印刷局研究所調査報告」十号(印刷局研究所、五十四頁、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号三十六)。
(注37) 松井英男「浮世絵の見方」(誠文堂新光社、平成二十四年(二〇一二)、一八二頁)。
(注38)松井英男・南由紀子編「浮世絵の名品に見る「青」の変遷」(アートシステム、平成二十四年(二〇一二)、三十九頁)。】

・本藍について

立原位貫氏の手法を参考に(注39)、いわゆる「飴出し法」で試作したものを使用した。
今原画では本藍による色彩上の効果は見られないことから、当時の摺師の絵の具鉢や刷毛に残留していたものが、特に意図せずに混入したのだろうと思われる。

【(注39)前掲注29 、一一〇~一一一頁。】

基本的に以上の色材を使用したが、硫酸鉛並びチタニウムホワイトについては、筆者の調査研究の手が回らず使用を控えた。摺りの際には米糊並び膠を適時使用したが、文献資料上、明治十三年(一八八〇)から就業した摺師の言及として、昔は糊を使わなかったことに触れられている(注40)。他、「Japanese wood-cutting and wood-cut printing」や「文芸類纂」、高鋭一編「日本製品図説」(内務省、明治十年〈一八七七〉)、石井研堂「錦絵の彫と摺」(芸艸堂、昭和四年〈一九二九〉)といった文献資料からは、摺りの際の膠の使用がそれほど一般的だったとは思われ難く、江戸時代の摺師間における米糊と膠の使用実態については、今後の調査が必要と思われる。

【(注40)前掲注7。】

Ⅳ紙について

平成三十年(二〇一八)に高知県立紙産業技術センターに筆者所蔵の作品六点の紙分析を依頼し、その際のデータを参考に、和紙職人田村亮二氏に制作してもらった木灰煮米粉入楮(奉書)紙を使用した。ただし現時点では紙の復元はまだ研究途中であり、今回使用した紙は漉き道具の関係で、紙を光に透かした際に見える簀目の出方の弱さなどに、実見上特に原画との隔たりがある。理想的には、つまり復元的な観点からは、原画の紙の分析データを基に再現するということだが、今回はそこまでは至らなかった。
先述六点の紙分析から、特に留意されたのは米粉の配合量であり、六点中五点は(対原料重量に対し)二十~五十%程度、他一点では五十~一〇〇%程度とばらつきが見られた。江南氏らの研究(注41)では、江戸(並び上方)の刊本の紙における米粉配合量の多さが指摘されており、また大川氏の研究(注42)では、当時の紙に米粉が配合された理由の一つとして、原料の楮より米粉の方が安価であり、米粉を配合することでより少ない楮で多くの紙を作ることが出来た、つまり経済的であったことが挙げられている。こういったことからは、米粉の配合量と紙の品質のランク、引いては作品のランクとに、何らかの関係性の存在が思慮された。
礬水は市販の牛皮膠と、恒松栖「湯の花の研究―湯の花とハイノキで明礬をつくるー」(平成十九年〈二〇〇七〉)(注43)を参考に、試作した明礬から作ったものを使用した。
江戸時代の浮世絵版画に使われたのは越前や伊予産の奉書とも云われているが、吉井源太他「日本製紙論」(明治三十一年〈一八九八〉)(注44)では、江戸時代における浮世絵版画の紙としては、「越前の奉書」「土佐の奉書」「伊豫の伊豫柾」「杉原紙」が挙げられている。他、吉野敏武「古典籍の装幀と造本」(平成十八年〈二〇〇六〉)(注45)では、浮世絵版画に杉原紙が使用された可能性が言及される。杉原紙の紙質は奉書に似ていると云われているが、規寸が奉書とは異なる。浮世絵の紙を調査する上で、杉原紙の存在は留意される必要が思われる。

【(注41)江南和幸・徐小潔・岡田至弘「江戸時代の絵入り本を中心とした上方刊本と江戸刊本とに使われた用紙の紙質分析」(「和紙文化研究」二十五号、和紙文化研究会、平成二十九年(二〇一七))。
(注42)大川昭典「浮世絵の紙」(「ぶんせき」三号、日本分析化学会、平成十五年(二〇〇三))。
(注43)恒松栖出版、五十二~五十七頁。
(注44)有隣堂、九十四頁、国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号七十一。
(注45)印刷学会出版部、一二七~一三一頁。】

Ⅴ彫り・摺りについて

山桜の版木を計六枚用いて伝統的な木版画技法に則って彫りと摺りを行ったが、原画上に見られるミスやがさつな箇所(線の歪みや欠損、見当のズレ、刷毛の筋跡、着色のかすれ等)から、紙面裏への色材の抜け具合などに至るまで、鑑賞上余程の支障がない限りは出来るだけ再現するように努めた。
江戸時代の浮世絵と現代の復刻版を比較してみると、(一部の毛割箇所などを除いて)前者の彫り摺りの技術は後者に比して概してがさつである。
現在一般的に復刻版制作ではそういったところは修整される向きがある。しかし個人的な感覚からは、柳宗悦の民藝思想ではないが、そういった技術の無造作さは江戸時代の浮世絵版画の本来的な美と関係しているものと思われる。少なくとも、江戸時代の浮世絵版画と現代の復刻版とを比べた際に感じられる印象の違い、それを生み出している要因の一つとして、両者間における彫り摺りの技術の丁寧さの違いは、一般的に挙げられるものと思われる。又そして、今回の制作目標は「いかに原画当時のものと同質の作品を再現するか」にあって、「技術的向上のもとに改良的な作品を作る」ということではない。
現在も彫師と摺師による浮世絵制作は継承はされていても、その中での技術・道具・素材、或いは制作認識といったものは時代ごとの変遷がある。それは特に明治から大正時代にかけて大きく変化し、現代において江戸時代と異なっていることは少なくないと思われる。又、彫師・摺師・版元の云うところの「腕」や「技術」(或いは「復刻」)とは、江戸時代当時の浮世絵といかに同質のものを再現するかということを、目標・焦点としているものではない。
江戸時代における浮世絵の彫り摺りの技術ついても、特に作品の比較観察の上に、今後さらなる分明化が図れたらと思う。

Ⅶ作品の完成

復刻版の復元性や再現性というのは、例えば彫線や紙のように、原画と比較されない限り鑑賞者に伝わり難いことが少なくない。
復刻版とは江戸時代の浮世絵版画の当時の姿を再現したものであるというような世間一般的にみられる誤解は、版元の商業上の便宜的情報や、復刻版というものに対する調査研究の未発達の他に、復刻版が原画と比較される機会が無いということも大きな要因ではないかと思われる。
復刻版の鑑賞と理解において原画と比較されることは重要なことであり、その鑑賞方法についても今後検討が必要と思われる。
本稿では簡易的ではあるが比較写真を載せておく。図a~lの各写真においては右側が原画、左側が復刻版になる。

図a
図b
図c
図d
図e
図f
図g
図h
図i
図j
図k
図l


原画
復刻
原画
復刻

Ⅷおわりに

現段階では筆者の調査の点でも、また彫りや摺りなどの技量の点でも、至らない点は多いが、江戸時代の浮世絵版画について未分明な点は多く、実際に作ってみることで、疑問点や解決への道筋は明確化するものと思われる。引き続き研究を継続して行けたらと思う。

(謝辞)
本研究に協力頂いた次の方々に対し、記して感謝の意を表します。(五十音順・敬称略)
有吉正明(高知県立紙産業技術センター)、株式会社堀場テクノサービス、田村亮二(和紙職人)。

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