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つらつらと

街中では男性が働き/女性が家事をする、そんな広告がそびえ、テレビでは男女が恋をするドラマがうんざりするほど流れ、家族や友人からは異性に関する話題ばかり訊かれる。周りを見渡して、自分と同じクィアの人間がいるかは、わからない。ましてや、恋愛をしようにも相手に人権意識がなければこちらに身の危険が及ぶかもしれない。この時点でかなりの気力を消耗する。これは明らかにフェアとは程遠い。
スタート地点に立つ以前に、挑戦権すら与えられないような社会だったが、ここ7〜8年にしてようやくスタート地点に立てるようになって来たように感じる。しかし、これで終わりではない。ゼロの状態から1歩2歩と前に進んでいくためにはさらなる周知や理解が求められる。(何故こんなに頑張らなければならないのかとため息が出るが。)

可視化され、数が増えれば自ずと洗練されていく。例えば芸術やエンタメでも、黎明期は第一人者とされるアーティストがどうしても代名詞になるが、メジャーになり競合が増えるとこんな人もいる、あんな人もいると代表する名前が分散されていくため世間のイメージも変わる。
女性が働き、男性が家事をする。性的マイノリティが恋愛する/しないドラマがうんざりするほど流れる。家族や友人に自らのセクシュアリティを気兼ねなく話せる。周りを見渡して、同性婚をしたカップルがいてもなんら不思議じゃない。子どもだって持っているかもしれない。それを見た若いクィア達が自らの未来を想像しやすくなる。そんな社会がほしい。
自らの行く未来が想像できる事がどれほど特権的なのか、多数派である異性愛者の人たちはもっと考えるべきだ。

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