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すれ違った親子の歩く速さを考える

歩く速さは人それぞれだと思う。

ただ、国によって違いが出るのだとしたら何かの理由があるに違いない。

そのようにぼんやりと考えて近くのコンビニに言っている途中。すれ違った親子を見て思ったことがあったので、ちょこっと考えてみようと思う。

1.ふと目に入った

ちょいとそこの だんなさん そんなに急いで どこいくの

どこかできたことのあるセリフは意外と起源があったりするものだ。
おんな祭唄というものの3番である。

自分の歩く速度とはよくわからないものだ。

基本せかせか歩く。

基本的に約束の時間に遅れがちなので、せかせか歩くときは自分の意志ではなく時間に歩かされているといえる。

ただ、気持ちによってはとんでもなくだらだら歩く。
使い分けている。

だらだら歩くとき。これは散歩の時だ。

哲学者のカントは毎日同じ時間に散歩していたという。
https://diamond.jp/articles/-/60293

実存主義(僕はこの部分は聞きかじっただけで、自分でもっとちゃんと理解をしたいと思っている。)の中で、僕は散歩をするときには絶対にせかせかしない。

何も考えずに歩いていると、時折妙に示唆に富んだ小難しい言葉を頭の中でこねくり回してしまうのだから不思議。

たぶんだらだら歩く僕とすれ違う時に皆さんはぞっとすると思う。
血色のいいゾンビがいるなと思うだろう。

さて。今日は起きるご飯を入手するためにコンビニへ向かった。

歌を聞いているからか歩く速度は早くなっていた。おなかが減っていたのもあったが。

その時左目の端っこに子どもが移りこんだのだ。

別に珍しいことではない。子どもがいることが珍しいと思うようになったら日本は終わりだ。

ただ、その小さな子供。おそらく3歳くらいかと思う。
その子と手をつなぐ母親である。

僕は一人で腹をすかせた猿の仲間の生き物として、ご飯を得るために歩く。
同じ種の生き物である彼女らは自分の遺伝子を半分含んでいるであろう子に合わせ、ゆっくりと歩く。

歩く行為にも明確な違いは存在する。

手をつなぐ行為は多くの人間が行う行為。

恋人同士の甘いもの。冷戦終結のための冷たいもの。
子どもの喧嘩を強制的に終わらせるためのものに、契約を締結したサラリーマンの達成感を伴うもの。

しかし、それらどの手つなぎよりも美しいものだと思った。

しかも、この手つなぎはこの地球にあふれているのだ!

誰しもが手に入れられると、僕は軽々しく言うことはできない。
同性での愛や病を抱える人たちには子どもという存在は望むことができないものであるから。今のところ。

しかし、そう言った者たちをはじめこの世のすべての人間はその美しい関係の中にいた経験を持つのがほとんどだ。
(それが望めなかったものもいるのはもちろんだ。この世のすべてに例外がある。)

僕もいたのだろう。そしてこれからまた入るのだろう。
いや、入りたいと思う。

あの美しい手つなぎの関係に。

2.さみしさと切なさと心細さと

僕はふと自分の右手の感覚を改めて感じてみた。正午になっていたが風が吹きすさび、冷え性の僕には厳しい。

ただ、手は冷え冷えであったが寒さ以上に何か妙に心さみしくなった。

なぜだろう。コロナという嵐の中に僕は今人生の時間をおいているのだけどそれが原因なのかな。

どことなく感じているのだ。何か理由のない不安感。
このまま自分が消えたとしても、地球は何にも変わらないでそのまま太陽の周りをまわっているに違いない。
(まあ誰がいなくなったところで地球は何とも思わないだろうけど。)

だからこそすごく尊く見えたのだろう。せかせかと歩いていたら確実に見落としていて、考える機会すら持たずに通り過ぎてしまっていただろう。

まずこのことを考えさせてくれてありがとう。

3.祭囃子を聞きながら

僕は東京生まれ東京育ちの、九州男児と江戸っ子のハーフなものでそのどちらものいいとこどりをして生きている。
なので、今日からの日本シリーズは非常にわくわく心待ちであるし、江戸っ子のべらんめえ口調を聞くと何か心休まる気がする。

さらに言えば、日本の中でも祭が好きな地域の親を持つので祭囃子が大好きだ。

特に神田祭の祭囃子はいい。Youtubeにある。聞いてみてね。

僕は繊細さんなのでお祭りに行くとかなり短時間で疲れ切る。
ウルトラマンと同じくらいの活動時間。

だが、遠くからお祭りの音を聞きながらほんとに信頼する人と二人で話すときは幸せだ。時間が止まってほしいと本気で思う。
(時間が止まったら話すこともできないとは思う。しかしここでは考えないようにする。それこそ野暮ってもんじゃねえかい。)

つまり、好きという感覚も愛というものはなかなかひねくれているということだ。

今日の親子の手をつなぐ姿は、広辞苑2冊分の言葉を用いて説明するよりも簡単に「無償の愛」を説明できる。

今日のあの光景を見るまでは僕は「無償の愛」なんてあるわけないと思っていた。

今日はもしかしたら、その考えは少し違うのかな?と思った。

そもそも「愛」には「対価」が必ず存在すると思っている。

よい点数を取ったのでほめる。美しいので愛する。
ほかに何かあるかな。
かわいいので愛でる。親なので尊敬する。
貧乏なので慈しむ。貧しい国なので支援する。

これらはすべて美しい。間違いない。

しかしのでが付属するのは無償の愛とは言わない…と僕は思う。

のでの愛で苦しむものもいるのだから。僕だ。
さらに言うと、のでの愛は確実に意図がわかるのも特徴ではないかと思う。

猫はかわいいからこそ広い危険な世界から狭い安全な世界に閉じ込められる。それは完全に人間の都合で、(僕も愛している)猫が「俺を養いな」と命令したわけではない。

貧乏な人、国を慈しむ。
同情か哀れみか。突き動かされる使命感か。
そのあたりは人それぞれが考えることで、正直僕はどうでもいい。いい意味で。僕が人のことに何かを言うことは大変迷惑なことだし、その人もどこぞの馬の骨に口を挟まれるのも不愉快だろう。

しかし、そこには理由がある。意図がある。実に人間的な愛である。

逆にのにの愛はまた別であると思う。

酷い男なのに愛する。バカなのにほめる。
貧乏なのに寄付をする。へたくそなのに野球を続ける。

のにの愛の理由は言語化できない。それに、もし説明されたとしても僕は納得できない。

例えば最後ののにの愛は僕のことだ。野球が大好きで続けていた。いくら練習してもできるようにならない。
効率から考えればやめて勉強でもしていたら僕はもっといい大学に入れただろう。

ただ、効率のようなものでこの感覚は説明したくないし、説明できたもんじゃない。それに人間そこまで割り切れるようなものではない。

のにの愛は実に動物的な愛だと思う。

脊髄で愛するという言い方もする。僕は。

そして、今日の親子の手つなぎは理由を語る必要のない愛の象徴であった。

4.時間の無駄

びっくりするくらい話題が変わっていたが、今日たまたま見かけた景色はそんなことを一人の男に考えさせるほどの光景であったことは間違いないといえる。

愛はそんなに簡単じゃないものなのだろう。のでの愛とのにの愛が混ざりあいながら愛の美しい景色をなしているのだろうし、僕にはなかなか縁遠いなあという景色に見えてしまう。

貴重だし、きれいだし、いろいろ考えた。

まあ言ってしまえばこんな考えを巡らせていること自体、時間の無駄だと言ってしまえばそうなのだろう。

しかし、時間の無駄のない人生とは実に詰まらないように思えてしまう。

僕の人生が何の無駄もない過ごし方をしてしまったとしたら僕はちょっと嫌なのだ。

とにかく今日は考えられてよかった。きっとAIにもまだ書けないであろう文章を書けて良かった。

名前も知らないお母さんとお子さん。ありがとう。

いろいろ考えられました。哲学の本買おう。



まわりまわって、世の中が幸せになる使い方をします。