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みえる音楽たち

ごくまれに、領海を超えてくる音楽に出会う。
「聴く」からはみでて、みえたり、触感をもってしまう音楽があるのだ。

ちなみに、VJ的な視覚体験とか、すぐれた歌詞の話ではなく、あくまでその音楽、素材の話だけをしている。

音楽が、映像や言葉を尽くすよりはるかに立体的にイメージを伝えることがある。

あるとき、友人宅で流れる音楽を、聴くともなしに聴いていた。具体的なシチュエーションは覚えていないが、その音楽は、歌詞や明確なメロディーのないエレクトロミュージックだった。
気づくと脳裏に、なんとも言えない色の空が立ち現れていた。それがだんだん広がり、濃さを増し、ピントが合い、やがて脳内いっぱいに満ちた。
赤でも青でもなく、ピンクだった。
およそ日本では見られないスケールで燃える、ピンク色の空。そしてその空を、わたしはなぜかすでに知っていて、今ではなく過去のものとして眺めている。
ピンク色の空が、燃えて燃えて、いた。

変な感覚だった。
自分のなかで立ち上がるイメージでありながら、外部から受信していた。でも部屋には、酔って寝ている友人しかいない。
ふと、友人のパソコンのプレイリストを覗く。

その曲のタイトルは「The Sky Was Pink(空はピンク色だった)」だった。

◾️ Nathan Fake -「The Sky Was Pink」


完璧な伝達だった。
一切の文字や被写体を介さず、音という素材だけで描写された何か。すでに十分な奇跡を、まして他者に共有したのだ。
わたしはまだ、この経験の名前を知らない。

でも、もしやこの辺りのジャンルの音楽では、同じ奇跡が日常的に起きているのでは。
そう思って以降、この現象をひたすら探した。
レコード屋の試聴コーナーで足は攣り続け、近所のTSUTAYAはテクノコーナーだけが不自然に充実した店へと成り変わった。

それから約20年。
あのような経験は、いまだほとんどない。
でも、まれにある。
みえる音楽、さわる音楽は、たしかにいた。

◾️ The Field -「Everyday」

これもタイトル答え合わせ系だが、はじめて聴いたときに「ああ、毎日だ」と心底思った。
途中の曲がり角の先にあるのは、日没か、明日か、さらにその先のいつかか。そのわからなさも含めて気が遠くなる。やがて音は残像を残して止まり、意識が宙に放りだされる。いつか本当に毎日が終わるときも、こんな感じだろうか。
あと北欧テクノは、時間の流れ方が根本的にちがう。概念のスケールがデカ過ぎる。気づくと、巨大な立体物が3Dのように浮かび上がっているから驚く。

◾️ Aphex Twin -「Girl/Boy Song」

名曲にして高解像度の音楽絵画。
GirlとBoyは無邪気で残酷で、その存在自体が走馬灯のようだ。寄って触って爆発して、若さという火花を散らして駆けていく。
個人的に音楽の衝撃は「4」の方が強いが、この曲には物語性とロープレ感、つまり当事者「じゃない方」の視点がある。眩しさを放つ本人たちに、この曲は作れない。
疾走するGirlとBoy、第三者の視線、あらゆる摩擦熱がドラムンベースを粘らせている。



◾️ フジ子・ヘミング -  シューベルト「4つの即興曲集 D899より 第3番」

2021年。フジ子・ヘミングのことを何も知らずに、もらったチケットで行ったコンサート。その一曲目の、最初の一音だった。
手のように生温かい何かが胸の奥にたしかに触れて、その瞬間、考えることを取りあげられた。「あ、アカン」と思ったのが最後で、気づけば決壊したダムの如く泣いていた。完全に制された。
しかし泣きながらも脳内では、引き続き音を通してフジ子が自己紹介しているのが分かった。幼少期、異国での寂しさ、相次ぐ苦難の先に見出したこころの平穏。それらのイメージが伝わってくるとともに、ひとりの少女がいた。
念のため目を開けると、ジブリにいそうな、無表情なモップの精のようなフジ子がいた。
どちらも、本当にチャーミングだった。

書いて思ったが、わたしの言いたい「みえる」とか「ふれる」は、もしかすると、そのまま霊体験とかスピとか、あるいはもっと単純な妄想と捉えられるのかもしれない。
でも、それでいい。

アーティストの力、ことば以外のなにか、自分にとっての真実の感触を、かぎりなく忠実に書き記せた。

また、新しい奇跡に出会えるだろうか。
ことばを奪われる瞬間を求めて、わたしはこころを開きつづける。

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