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樹氷

 青春とは縁のない人間だった。雪が全てを覆い尽くした冬の森に独りで入り、物言わぬ樹に背を預けて一日の大半を過ごす。人と関わることで発生する、小石を飲み込むような我慢が鬱陶しく感じ始めたのは中学生になった頃だ。そんな事は男子中学生ならよくあることだと知っていたし、深刻に感じていなかった。隣の席になった子が話しかけてくれても良い返しができなくて、会話が切れてしまうことを繰り返している内に、脳が耐えられなくなった。帰り道にいくら反省して、次はこう返そうと考えていても、同じ人と同じ会話は二度とやってこないから全部無駄になってしまう。その内に席替えになって、目を合わすことすらなくなった。
 逃げ込んだ森には席替えがなかった。樹の性質や偶然によって、それぞれの樹の居場所は決まっていて、彼らはずっとそこにいる。季節が巡って、青い草が繁茂したり、落ち葉が積み重なったり、それらの上をどれほどの動物たちが闊歩しても、樹はそこに居続ける。静謐な森にキツツキが樹を叩く音が空高く響く。見上げると鮮やかなアカゲラが若い樹の幹を丹念につついて虫を探している。まだ小さかった頃、母に連れられてよく森に散歩した森。小鳥や虫を見つけては母に種類を訊いていた。母は動物にとても詳しかったので、何でも答えてくれた。
 空気を含んだ雪は音だけでなく、電波さえも吸収して、僕を僕の生きる世界から切り離してくれた。ここでは鳥と虫と僕とが何の違いもなく、一つの樹に寄り添って生きている。こんなアナログな方法でしか自分を保っていられない。冬の終わりに移った新しい教室の匂いや新しいクラスメイトに囲まれて、春に咲く花の色を思い出そうとしている内に、僕はうずくまって、ついに体も動けなくなってしまった。
 夏休みが始まって、僕はようやく森に向かった。しばらく来ていない間にすっかり動物たちの季節になっている。樹上から幾つもの種類の蝉の声がして、薮の中では何かが動く音が絶えない。冬、アカゲラがつついていた若い樹を見つけると、手の届くところから樹液が出ていた。食事中の大きなクワガタを見つけて「あっ」と声が出る。クワガタは夢中で蜜を舐めていて、僕はずっとそれを見ていた。森で過ごしたその日々こそが青春なのだと気づいたのは、すっかり大人になってからだった。

(zine「doodles」掲載作品 掌編『森林』)

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