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朱墨の香り【滲み】1600字


金木犀の香りを
洗剤臭いという其の人は、
シンニョウが上手。

トン、ス、スルリ、スイー、
緋色が延びる。


にごった黄色い道、ぴょんぴょんととびながら
薄い長袖の肘窩のあたりをぐいーっとひっぱる。

先生ってビジンだよな。
まだ半袖短パンの園村が小声で言うから、
ぴょんがぴょんが止まって、
臭い銀杏を靴底に練り込んでしまった。
汗水が脇腹をすーっと通った。



今日も掘立て小屋みたいな教室の屋根の上の
にごった黄色を眺めてから入室。


お母さんは先生の事を
あんまり良く思っていない。
目をそらす、
首を傾げる、
お皿洗いを続ける。


ぼーっとずーっとなんかいも
先生のシンニョウを見たいから、
秋晴を書きましょうの時も、
秋道と書いて朱入れしてもらう。


先生は姿勢が悪い。
習字の先生ってみんな姿勢がピシッと直線で、
なんだか見てて痒い人たちばかり
なのかなと勝手に思っていた。


墨がついたカーキ色の長袖Tシャツに、
黒いシャカシャカしたジャージのズボン。


靴下は親指と親指以外に別れた白い靴下。
正座じゃなく脚を崩して
朱入れする先生の白の裏がよく見える。
白の裏は、踵と親指あたりが
少し黒ずんでいる。
ほわん、と若干の毛羽立ちも見える。


その足の親指が少しピクンと動いたので、
先生を見上げる。

「見てる?」

「え?」

「しんにょうは、ためてためて、
 ためてから払うイメージ。
 でも解放感に溢れて払うんじゃなくて、
 さいごはジッと大人のトメ。」

トン、ス、スルリ、スイー、
先生の緋色が延びる。
紅いくちびるがにこやかに噤まれる。


お母さんが作ってくれる
おいしい茶碗蒸しに
入っているおいしい豆が、
あの臭い銀杏だって初めて知った。

「知らなかったの?茶碗蒸し嫌いになった?」

「んーん。ぼくは茶碗蒸しが好き。」


園村が墨汁をこぼした。
ぼくの左前の席だからよく見える。

机だけでなく正座する園村の
毎日同じ柿色の短パンと、
ムッチリした腿、膝にまで墨が滴る。
膝下のご自慢の白いハイソックスは
無傷のようでホッとした。


「あらあら」

先生はすぐさま、もはや灰色の雑巾で
園村の足や短パンの墨汁を拭った。
園村はわめかず、正座のまま拭われていた。


墨くさい。

園村のまわりをせっせと動く先生。

墨の滲んだ黒い霧の中に
鮮やかな色の香りが
チラッと見えた気がした。
なぜか脳内には金木犀のイメージが浮かんだ。



拭われている時に
少しついてしまったのか、
白いハイソックスの脛あたりが
少し黒ずんでいる。

しかし帰り道の園村はご機嫌で、
家に着くまでヘッドロック
される事はなかった。



「進むっていう漢字を練習したい」

「いいわよ」

夜の早い夕暮れと薄暗い教室に、
薄鼠のパーカーを羽織る先生。
園村も他の子も、もう帰った。


「座って」

教室の真ん中にある先生の席に
座って揮毫するのは初めて。

筆を持つと、
髪を掻き上げる先生が
隣で僕の半紙を覗き込む。

緋なのか朱なのか紅なのかが視界の端で揺る。



シンニョウならなんでもよかった。

明らかに今、
自分で、認知した、
ぼくはいま下手に書いた。

隣を見る、
筆を置かずに。

頬杖をつく先生。

「大人になってから来なさい」


筆を置き、文鎮をどけ、
墨滴る半紙を鞄に入れ。
立ち上がった。
ぼくは座ったままの先生の
膝あたりの目線で、
「すみませんでした」
礼儀正しく、玄関に向かい、
外に出て、きちんと玄関を閉めて。

家へ。
歩いた、
できるだけ姿勢良く、
暗く、
暗いせいで黄色には見えない
にごった道を歩いてたら、
だんだんと早足になる。
自分の呼吸だけが聞こえてた。
冷静に、
早く。




自分の部屋のベッドに突っ伏していると、
「なにこれ!ちょっと鞄の中が
 墨だらけじゃない!ちょっと進之介!」
お母さんの声が下から聞こえた。


滲み_朱墨の香り



29歳になった園村と久しぶりに会った年末に、
イチョウ並木を歩いたが、
掘立て小屋は無く大きな公園になっていた。


色っぽさの無い裸の並木道を歩いて、
焼鳥とか転職の話をしているふたりとも、
まだ大人じゃないようだ。

微笑んだままほんの沈黙から抜け出せない。
また今度だな。

緋色の似合う其の人を、
ぼくらはまだ想い出していない。




金木犀の香りを探すには遅い帰省だった。




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