「進歩無き時代」の理想に関する試論
時代とは、そこに生まれた人間の人生の方向を規定しうる大きな水の流れである。真逆の方向に進むことはできないが、押し流され漂流すれば自我を見失う。激しい流れの中にあっても、特定の指向性を持ち、意図的にその方向に向かい続けることが、確たる自我を持ち、己が今ここに生きているということに対する実感をもたらすのである。
本稿は、現代という時代を、「進歩無き時代」と呼ぶべき、類例無き新たな潮流と捉えつつ、現代を生きる個々人が、この流れに漂流することなく、一定の指向性を持つことで、生きているという実感、言うなれば生に対する手触りの感覚を獲得するための条件、これについての試案を示すものである。
本稿の要約
時代という大きな流れを捉え、これを踏まえなければ、個々人が抱くあらゆる理想は絵空事である。【第1】
現代の日本は、劇的な経済成長、言うなれば「進歩」が期待できなくなった、近代史上類を見ない時代にある。【第2】
したがって、今の日本においては、個々人の理想のあり方も、近代史上前例の無い形に変化せざるを得ない。なお、人間の精神性は「進歩」を所与としていないから、進歩を前提としない理想を見出すことは可能である。【第3】
個々人が新たな理想のあり方を見出すためには、まずは「進歩無き時代」に真正面から向き合い、これを自分なりに理解すること(=時代認識を獲得すること)が必要である。現代の日本においては、一方では「閉塞感」と呼ぶべき、進歩に対する諦めのような感覚が広く共有されているのにも関わらず、あたかも、依然として「進歩」に広く期待することができるかのような言説が形成されている。この「閉塞感と進歩の不協和」と呼ぶべき状況は、現代が「進歩無き時代」であるという事実を曖昧にし、個々人がこの事実を直視し、「時代認識」を獲得すること、延いては「進歩」を前提としない新たな理想を見出すことを妨げている。【第4】
共同体が置かれた状況について考え、その運営に参画することが、「進歩無き時代」に真正面から向き合い、これを直視することの契機になる。そのために広く開かれた機会として、民主制は選挙という仕組みを用意している。【第5】
第1.時代認識無き理想は絵空事である
時代のあり方とは、その時代を生きる個々人にとっては、当人の人生を規定する大きな文脈であると言える。大きな文脈とは、これと真逆に進もうとしても後ろに流されてしまうだけの、強い水の流れのようなものだ。
言い換えれば、生まれた時代は、その世代を生きる全ての個人が受け止めなければならない宿命である。それは生まれたときから決まっているという意味において所与のものであるが、それにより、当人が己の人生において取りうる方向性が一義に定まると考えることは、一部においては正しく、一部においては誤りである。
言うまでもなく、例えば平成の日本に生まれた人間が、19世紀ロシアのナロードニキのような生き方をすることは難しいので、その意味において人生の方向性は時代という宿命により確実に狭まる。だが、自らの人生を規定する所与の条件である時代というものを解釈することなしに、己が進むべき道を導出することが不可能であることもまた事実である。
要するに、時代というものは、平成の日本に生まれた人間は18世紀ロシアのナロードニキに「なれない」が、それ以外には「なれるかもしれない」ということを明確に教えてくれる。言い換えれば、時代認識とは、当人にとっていかなる理想が絵空事であり、また絵空事でないかを示すものであると言える。
個人が何らかの理想を見出し、これに向かって現実的かつ具体的な過程を踏もうとするのであれば、自身がいかなる時代に生まれ、その時代が付与してくる宿命にいかにして応ずるべきかという問を解く必要があるのである。
もちろん、人間の人生を規定する文脈は、時代に限らない。同じ時代であっても生まれた場所や家庭環境、出会った人や文化など、様々な文脈が個人の人生に作用するのであり、当人が自らの人生に特定の方向性をもたらすためには、それら全ての文脈を一体的に捉え、これに応ずる必要があることは当然である。だが、時代という謂わば「大きな文脈」が、その世代を生きる人間の人生を根底において規定することも上記の通りまた事実である。
第2.日本は近代化後の人類史における画期としての「進歩無き時代」にある
前回の論考では、現代という時代がいかなる時代であるかを、具体的な事象を並べてモザイク画の如く描き出すことを試みた。もう少し巨視的な目線に立って、現代という時代をそれ以前の時代との比較で相対化してみると、現代とは「進歩無き時代」であると言えるのではないだろうか。
近代化以降、科学技術の著しい発達による産業構造の変化と、それがもたらす国民経済の急速な拡大により、人々の生活は目まぐるしい変化に晒されたが、それと同時に、工業化の進展をドライバーとする経済成長の果実は、その必然的な結果として社会の構成員の大部分にまで行き渡っていった。経済成長という「進歩」が、個々人の生活を変え、その向上をももたらすという社会のあり方が何世代にも亘って続いた結果、人間の人生や、そのあるべき姿のようなものも、社会が進歩し成長していくという前提のもとに観念されるようになった。要するに、個々人の人生は、社会全体の進歩、すなわち経済成長や技術革新とともに進歩し、成長していくものであって、またそうあるべきと考えられるようになったのである。そして、そうではない時代に人間がいかなる価値観のもとで生きていたのか、もはや誰も知らない。
進歩に身を委ね、成長による問題の打開に期待する姿勢の危うさは、近代主義批判の文脈で散々に議論されてきた。だが、そのような警鐘はどこ吹く風と現実の国民経済は成長を続け、それとともに個々人の生活も向上するというサイクルが絶え間なく続けてきたのが近代以降の社会であり、二度に亘る大戦を経て21世紀を迎えても、多くの先進国において、その前提が崩れることはなかった。
ところが、現代の日本だけは状況が違う。理由はともかく、30年に亘って経済成長、すなわち「進歩」が停滞しており、それどころかこれが打破される兆しも見えないという状況にある。言うなれば現代の日本は、近代化以降、国民経済と日常生活の隅々にまで浸透していた「進歩」の観念が、現実に綻びを見せるのみならず、それが一つの世代を画するほどの長い期間にわたって続いていることに加えて、既に議論した通り、こうした状況に対して、様々な施策が打たれ、取り組みがなされたのにも関わらず状況を好転することができていないという、近代国家の歴史上類を見ない状況にあるのである。
こうした状況を指して、「進歩無き時代」と捉えるのが本稿の立場である。この30年間の政策の何が間違っていたのか、これからいかなる政策をすべきなのかといった、政策的妥当性に関わる議論は本稿の射程に含まれない。言うなれば本稿が議論の出発点とする「進歩無き時代」とは、この30年間にわたって、政官財、そして学界において様々な議論がなされ、実際に様々な試みがなされたのにも関わらず、経済指標が好転せず、現実に国民生活が悪化しつつあるという、厳然たる事実のことである。
第3.「進歩無き時代」になった今、「進歩」を前提としてきたこれまでの個々人の理想のあり方は現実性を失っている
「理想」とは、一定の時間軸を伴い、人生に「指向性」をもたらす目標のことである
時代という水の流れが大きく変わりつつある以上、その時代を生きる個々人の「理想」のあり方も変わらざるを得ないというのが本稿の立場である。
個々人の「理想」とは、冒頭の議論で言うところの、自らの人生に何らかの「指向性」をもたらすものである。大上段に「理想」などと言うと、例えば歌手になって成功するとか、事業を起こしてセレブになるとか、政治家になって国を変えるとか、何か他者から抜きん出た先にある、浮世離れした世界を目指すことをイメージするかもしれない。もちろん、そうした目標も「理想」のあり方の一つであると言えるが、より身近なもので言えば、例えば結婚して子供を産んで育てるとか、郊外に家を買うとか、自分の親世代よりもいい暮らしをするとか、年に2回は家族で海外旅行に行くとかいった目標も、当人の人生に何らかの指向性をもたらすものであるという意味において、本稿の言う「理想」である。
要するに、本稿における「理想」とは、「今すぐに実現できるわけではないが、ある程度の時間をかけて人生のどこかで実現したいと考えている目標であって、人生に何らかの指向性をもたらすもの」のことである。「理想」という言葉が大上段に過ぎるのだとすれば、「問題意識」や、もう少しライトに「テーマ」、「夢」などと言い換えてもよいだろう。
もちろん、そうした長期的な目線を持たなくとも、日々の生活において感じられる喜びが無くなってしまうわけではない。趣味に興じる時間や、気心の知れた人間と語り合う時間、美味しいものを食べたり、運動したりすることで身体的な充足を覚える瞬間、自然と触れ合う瞬間などは、おそらく人類に普遍的な幸福として、いかなる時代においても享受できるものだろう。
だが一方で、何らかの指向性を伴って、今よりも状況を改善したり、何かを成し遂げたいと考えて具体的な行動を重ねることもまた、長い人生を豊かにするために、人間が根源的に求めるものの一つであるはずである。
「進歩無き時代」の中で、「進歩」を前提としてきたこれまでの個々人の理想が現実感を失い、その結果として「閉塞感」が生じている
「進歩」が前提となっている社会であれば、長期的な目線で自分の人生を捉えて「目標」を立てること、すなわち「理想」を持つことは比較的容易である。わかりやすいのは賃金の上昇や、技術革新により生み出される財やサービスの享受といった形で実感されるものであるが、社会全体が「進歩」している時代であれば、その「進歩」の果実を構成員で山分けする形になり、結果として、人並みの努力さえしていれば、その果実を収受することができ、これを自己の「進歩」として実感し、その積み上げの先に「理想」を観念できたからである。
だが、社会が進歩していくという前提がもはや過去のものとなると、人並みに努力しても賃金は上がらないし、革新的な財やサービスといったものは恒常的には生み出されなくなり、また、仮に生み出されても手が届きづらくなる。このような状況の中で、「進歩」を前提とする何らかの理想を観念し、具体的な行動を積み重ねていくことは容易ではないだろう。
理想に向かってなされる行動とは、いわば投資のようなものである。行動をした瞬間に得られるものは少ないものの、その行動を積み重ねた結果として未来において何か得られるものがあるという期待があれば行うことができる。逆に、仮に理想に向かって行動をしても、理想を実現できず徒労に終わる可能性が高い状況であれば、そのような行動を取ることは簡単ではない。
現代の日本において「進歩」を実感しづらい、あるいは「理想」を抱いて行動することが難しいことの理由は、賃金が上昇しないという一点の事実に留まらない。一歩引いてみれば、日本の経済力が相対的に弱まっていく結果、グローバルに取引される新しい財やサービスを享受することが難しくなるばかりでなく、これまで買うことのできていた財やサービスすら買い負けていく可能性すらある。
日本という国全体の経済状況がこのまま悪化していく状況が目に見え、現にそれが進んでいる中で、敢えて理想を抱き、自らの状況を改善するために努力したり、何かを成し遂げようとして具体的に行動を始めることは容易ではない。それどころか、いま何とか生活ができているという状況の中で、下手に状況を変えようとして今までと違うことをすれば、一歩間違えば貧困に陥るかもしれないという不安や、真新しい選択肢やチャンスは容易には見つかりそうもないことに対する無力感が先行し、具体的な行動に出ることを控えたり、その意欲が削がれたりしている可能性もある。
グローバルな労働市場における競争に参加し、世界経済の発展の恩恵に与りながら今よりも高い報酬を獲得できる可能性のあるごく一握りの成功者は、自らの人生において「進歩」を実感できるチャンスがあるかもしれない。だが、大多数の日本人にとってそんなものは自分の人生とは無関係なのである。
このように、「進歩無き時代」における、社会の「進歩」を前提とした個々人の理想のあり方は、今や現実感を失っている。だが、「進歩」が日常生活の隅々にまで行き渡っていたところから、突然「進歩無き時代」となったと言われても、「進歩」に代わって「指向性」の根拠になるものを見つけ出すことは容易ではない(それゆえに本稿においても、「進歩」を前提とすることがもはやできなくなった現代という時代を「進歩無き時代」、すなわち、何かが「ある」時代という積極的な状態ではなく、進歩が「無い」時代という消極的な状態に着目して定義することしかできないのである)。
そして、これまでの時代において「指向性」の足がかりになっていた「進歩」を失い、新たな指向性の足がかりになるものを見出せない状況が長い期間にわたって続いた結果として、「理想」を抱くことそれ自体に対する諦めのような感覚が広く共有されているように思われる。こうした感覚を本稿では「閉塞感」と呼びたい。
現実性の伴わない理想に向かって具体的な行動を取ることは既に述べたように難しい反面、「進歩」を前提としない現実性のある理想も見出すことも容易ではない状況において、「理想」、延いては何らかの指向性を持って行動するという営為それ自体が日常生活から失われて行くことはある意味当然である。
人間の精神性は「進歩」を所与としていないから、「進歩」を前提としない理想を追求することは可能である
だが立ち止まって考えてみれば、そもそも、「進歩」がこれほどまでに社会と人間生活の隅々にまで行き渡り、世界を目まぐるしく変化させてきた時代は、人類の歴史を振り返っても極めて例外的な期間に限られる。人類はそれでも長い歴史の中で営みを続け、様々な文化を生み出し、その豊かな精神性を発露してきた。そうだとすれば、人間の精神性は決して、恒常的な進歩を所与とはしていないはずである。
もちろん、近世以前の時代が今よりも「良い」時代だったのかはわからないし、そもそも「進歩」のある近代社会と、近世以前の「進歩無き世界」の両方を生きたことのある人は今や誰一人としていないと思われる。だが、人間の精神性には「進歩」以外の寄る辺が必ずあるはずであるということには目を向ける価値がある。そして、進歩への期待がもはやできない以上、それに代わり得る価値観を探求することは必要なはずだし、人間の精神性が進歩を所与としていない以上、それはおそらく可能である。
第4.「進歩を前提としない理想」を追求するために、「閉塞感」と「進歩に関する言説」の不協和がもたらす曖昧さを克服することがその第一歩である
では、新たな理想のあり方を発見するためにはどうすればよいのか。理想とは当然、人それぞれのものであるが、これを探求する前に考えなければいけないことは、いかにして「進歩無き時代」を直視するかである。時代認識無き理想は絵空事であるとすれば、まずは個々人が時代を認識するところから始める必要があるからである。
本節(第4)及び次節(第5)は、前節までに示してきた問題意識を踏まえ、これに回答し、結論を示す部分である。議論を簡単にまとめると以下の通りである。
現代の日本においては、一方では「閉塞感」と呼ばれる感覚が広く共有されているのにも関わらず、後述するように、一方では、あたかも、依然として「進歩」に期待ができるかのような言説が形成されている。こうした矛盾(「不協和」)が、個々人が「進歩無き時代」を直視し、各々の時代認識を抱くこと、延いては「進歩」を前提としない新たな理想を見出すことを妨げている。
個々人が「進歩無き時代」と真正面から向き合うための契機となるものが、民主制の過程を通じた共同体としての意思決定への参画である。「閉塞感」と「進歩に関する言説」の「不協和」を克服する唯一の方法は、民主制の過程への参画を通じて、時代の在り方について自ら考え、行動することにより、自らが生まれた時代が置かれた状況を理解し、腹落ちすることである。
こうした営為は、時代認識を獲得し、自らを時代との関係において相対化することにより、自らに「指向性」をもたらすものを探る手がかりになると同時に、民主制の過程に参画し共同体としての自己決定に関与することそれ自体が、当人が「指向性を持ち、意図的にその方向に向かうこと」であるとも言える。
以下、順を追って説明する。
「閉塞感と進歩の不協和」:私が抱いた違和感
「閉塞感」があるのに「進歩」できるとする言説が形成されているという矛盾に満ちた状況(「閉塞感と進歩の不協和」)について、具体的なイメージを示すために、個人的な経験から少しだけ詳述したい。
10代の頃の私は、テレビをつければ不良債権だの就職難だの後ろ向きなニュースばかりなのに、チャンネルを回せば「経済大国」だ、「構造改革」だなどといった景気のいい言葉が飛び交う、相矛盾する状況が、いったいなぜなのか不思議で仕方なかった。
日本はバブル崩壊以降、長年に亘る停滞の中にあると言われ、何となく後ろ向きな空気が蔓延しているように感じるし、物心ついた頃から不景気なニュースばかりなので、「進歩」に対する期待を持っても仕方がないことや、時代の趨勢という自分を取り巻く大きな流れが確かにあり、それに真っ向から抗っても仕方がないということは何となく理解していたのだが、片や誇らしげに日本が「経済大国」であり、今(当時)でも世界2位のGDPを稼ぎ出していると喧伝している人がいて、いっときなどは、熱に浮かされたように高揚する世論を背景に「構造改革」を派手に押し進めたり、既存の政治権力を批判して半世紀ぶりの本格的な「政権交代」を成し遂げる勢力が現れたりして、お祭り騒ぎをしている。
威勢のいいことを言って大見得を切る彼らは確かに、「自分たちに政治を任せれば(あるいは自分が主張する政策を実行すれば)日本は良くなる」と声を大にして主張していた。にも関わらず、反面においてどこか醒めた目でそれを見ていてる世論もあり、実際に彼らが政権の座についたり、声高に主張されていた政策が実際に実行されてしばらく経った後、熱りが冷めた頃に振り返ってみると、何が変わったのか全然よくわからないのである。
ようやく冷静になって我が身を振り返れば、確かに世の中が良くなっているという感じは全然しないし、自分の身の回りにいるような、一地方都市で何の贅沢も派手さも逸脱もなく暮らしているだけの人間も、口々に景気が悪いと言っている。
自分がニュースやテレビから私が受け取る「閉塞感」や、身近な問題である「不景気」。そして翻ってあの熱量や狂騒・・・この対比は一体、何なのだろうか。果たして、何が本当なのだろうか。要するに、この国の現状、言うなれば現代という時代を、自分は、これからこの国で生きていくであろう人間として、どう理解すればいいのだろうか。こうしたこと全てが、全くわからず、不可解だった。
私が抱いた「閉塞感と進歩の不協和」は、こういったものである。この不協和がもたらす曖昧さを解き明かさなければ、時代認識の獲得に至ることは無い。
政治は進歩を前提としない理想を示すことも、進歩できないということを認めることもできないから、「不協和」を生み出すしかない
なぜこのような「不協和」が生じるのだろうか。一歩引いてみると、そもそも、専門家も、評論家も、与党も野党も、官僚も、そして庶民も、とにかく日本経済と国民生活が悪い状況にあるという点においては、今もあの頃も概ね一致しているようだ。
だが、どうすればいいのかは、今もあの頃も、誰にもわからないのである。私は、「閉塞感」があるのに「進歩できる」という言説が生まれるという、矛盾に満ちた状況が生じ続ける契機はここにあると考えている。民主制は政治家の人気競争という性格を持つ以上、選挙の度に、国民の「期待」に訴えてアピールする必要がある。だから、明確な解が無いことを彼ら自身も承知の上で、毎年、あるいは政権が代わる度に、あるいは選挙の度に、あたかも、これまで誰も気づかなかった真新しい解決策をようやく自分が発見したかのような派手な触れ込みで、その実は過去の焼き増しでしかない政策パッケージを打ち上げ、「進歩できる」という確信に満ちた言説を撒き散らしながら、その実は根拠の薄弱な政策に莫大な財源とリソースを投じるしかない。
仮に「進歩できない」ということを真正面から認めるのだとすれば、国民の「期待」に訴えるためには、それに代わる、国家としての何らかの「理想」を示す必要がある。だが、既に述べたように、これは近代史上前例の無い難しい問であり、これに対する回答を端的に示すことは難しいし、それが既存の支持層に受け入れられて集票に繋がるかもわからない。
要するに、政治には、「進歩できる」と喧伝することしか集票のすべが無いのである。国民からすれば耳当たりはいいが、何をやっているのかは結局よくわからない。構造改革もGXも社会保障改革も次世代半導体も安全保障もおそらく重要なのだろうが、それによって国民生活が改善している実感はない。
そして評論家や野党は、よくわからない言葉で何でもかんでも批判している。官僚は多分どこかで霞食って沈思黙考している。結果として、主権者であるはずの国民の大多数は、この狂騒を遠目から眺めているだけで、要するに置き去りである。
要するに、自分に関係ない世界で、エリートたちが勝手に何かやってる。世の中のことはよくわからないが、良い方向に向かってはいない気がする。実感としても、生活は良くならないし、むしろ悪い方向に向かっている感じがする。もしかするとそれはもはや仕方がないことなのかもしれないが、なぜなのかよくわからないので腑に落ちない。
誰一人として解を示すことのできない「進歩無き時代」の中での人気競争たる民主制というプロジェクトの結果として、置き去りにされざるを得ない国民は、こうした曖昧さの中に取り残され、果たして「進歩」に期待できるのか、そうではないのかという肝心な部分についてはお茶を濁され、これを明確にする糸口も無い状況にある。現代の民主制が抱えるこうした構造が、国民が「進歩無き時代」を直視することを結果として妨げているのではないだろうか。
「不協和」がもたらす曖昧さを克服することが新たな理想を追求するために必要である
こうした「不協和」は、進歩の時代の終焉とともに、現代の日本人、とりわけグローバル経済のダイナミズムの恩恵に与ることのできない、ローカルな領域に生活の基盤を置いている大多数の国民において一定程度共有されているものなのではないだろうか。
そうであれば、「不協和」がもたらす、「進歩に期待できるのかどうかよくわからない」という曖昧さを克服することが、「進歩無き時代」と真正面から向き合い、これを自分なりに理解し腹落ちする(=時代認識を持つ)ために、延いては、進歩を前提としない新たな理想のあり方を探求するためにまずやるべきことのはずである。
第5.問題の所在を理解し、当事者として関わることが、「不協和がもたらす曖昧さ」を克服するために重要である
曖昧さの克服とは、答えを見つけることではなく、問題の所在を自分なりに理解する(=解釈する)こと
繰り返しになるが、今の日本において、現実に世の中を「進歩」させる(要するに、劇的な経済成長や技術革新を実現する)方法や、「進歩」を前提としない理想を提示することは、まずもって容易ではない。前者に関しては、日本は少子高齢化や新興国の台頭などといった様々な経済条件の中で構造的に成長が難しい状況になっているという前提があるし、後者に関しては、少なくとも近代史上類の前例の無い問である。
したがって当面の間は、そのいずれも見出すことのできない、どっちつかずの状態が続くことを覚悟する必要がある。もしもいずれかの問に対する答えを自分が見つけたと主張する人間がいるなら、疑ったほうがよい(補論(2)参照)。
だが、そうした状況を曖昧なまま放置しておくのか、それとも、どっちつかずの状態になっていることの理由や背景、問題の所在を自分なりに理解し、それに腹落ちしているのかは、個々人が進歩無き時代と向き合う上で極めて重大な違いである。問題の所在を自分なりに理解した上で、何らかの方法で仮にそうした問題が解決できる可能性があると思うのであれば、自分なりに行動してみればよいし、到底無理だと思うのであれば、その問題は所与のものとして自分の生活に専心すればよい。いずれを選んだとしても、それは当人なりの時代に対する理解、時代認識を踏まえたものであり、何らかの「指向性」の前提となるはずである。
現代という時代をいかなるものとして理解するかは問題ではなく、重要なのは、社会の「進歩」に期待できるのかどうかわからない曖昧な状態を抜け出し、問題の所在に腹落ちするということ、すなわち、時代認識を獲得するということである。
時代認識を持って初めて、それを踏まえた、絵空事ではない現実的な理想を抱くことができる。これこそが冒頭述べた、「指向性を持ち、意図的にその方向に向かう」ということ、すなわち、「生きていることの実感を得ること」である。
人間は現実性の無い理想に向かって行動することはできない。そして、自らの理想に現実性があるのか無いのかを判断するために、換言すれば、自らの理想が絵空事では無いという確信を得るために、曖昧さを克服し、時代認識を獲得することが必要なのである。
民主制は、個々人が時代認識を得るための道具である
曖昧な状態を抜け出し、時代認識を持つために、問題の所在を自分なりに理解することが重要であると述べた。そして、自身の理解に基づいて具体的に行動することで、その理解はより実感を伴ったものになるだろう。
もちろん、専門家や実務家でない限り、四六時中世の中のことを考え、学び、主体的にこれに取り組むというわけにはいかない。だが民主制の社会においては、広く国民が政策について考え、これに参画するための、選挙という契機が用意されている。
民主制の最大の強みはここにある。すなわち、民主制は、共同体の構成員が、「自分」ではなく「自分たち」を主語にして物事を考え、「投票」という具体的な行動に踏み出すきっかけを与えることで、構成員が自らの社会のあり方、現代という時代について考え、参画する(あるいは、参画しているという感覚を得る)ための機会を提供するという機能を備えているのである。
そして共同体としての問題に自分なりの回答を出そうとすれば、必ず、時代認識を問われる。共同体としての意思決定は、極めて大規模かつ長期的な影響を持つものであり、その時代に暮らす人間の価値観や、世代を画するような長期的な時間軸に対する想像力を働かせる必要があるからである。時代認識とは、こうした想像力の働きの積み重ねによって結晶していくものであり、また、そうすることでしか抱かれることの無いものである。
「不協和がもたらす曖昧さ」を克服するために、この契機を利用しない手は無い。民主制への参画という営為は、自らの時代認識を構築するために極めて有用な契機なのである。
それだけではない。民主制への参画それ自体が、自らがこれを構成し、また自らに対して常に避け難い影響を及ぼしてくる、共同体、すなわち「自分たち」としての意思決定そのものであり、この営為それ自体が、抽象化された意味での「指向性」の発露そのものであると言える。
民主制とは、個々人が時代認識を獲得し、時代という流れに漂流しないための「指向性」を得るために有用であるとともに、民主制に参画することそれ自体が、自らもその一部を構成する共同体としての「指向性」の発露そのものであるという点において、二重の意味において、「進歩無き時代」の理想に近づくための恰好の道具なのである。
生きているという実感を得るために
本稿の主張の要点は、①「進歩無き時代」において、「指向性」を得るためには、「閉塞感と進歩の不協和」がもたらす曖昧さを克服する必要があること、②曖昧さを克服するためには、「不協和」が生まれざるを得ないことの背景に対して自分なりの理解(=解釈)を持つこと、すなわち時代認識を獲得することが必要であること、そして、③民主制の過程への参画は、時代認識の獲得の契機となりうること、この3点である。
本稿は所謂「脱成長論」ではないし、私自身も、日本がもはや進歩、成長できないと考えているわけではない。何より、自分自身や社会の進歩を実感するときに得られる高揚感は何ものにも代え難いものであって、進歩そのものを否定したときに社会がどれほど退屈なものになるのかは想像がつかない。だが、日々の生活において実感できる社会の「進歩」の度合いは、近代化以降類を見ない水準にまで低下しており、これが劇的に上向く見通しも立たない中、社会や自分自身の「進歩」を前提とし、これに頼って生きることは危険である。
既に述べたように、「進歩」が社会と人間生活の隅々にまで行き渡り、一つの世代を画するに過ぎない極めて短い時間の間に大きく世界を変化させてしまうという状況は、人類の長い歴史から見れば極めて例外的な期間に生じた出来事に過ぎない。それでも人類は豊かな文化を生み出し、その営み続けてきたのだから、人間の精神性は「進歩」を所与とはしていないはずである。
進歩を前提とする理想が今や現実性を失っているのだとすれば、進歩を前提としない、かといって絵空事ではない、新たな理想のあり方を探求することが必要である。「不協和」が生まれる構造に対する自分なりの理解、すなわち「時代認識」が、その探求における重要な手がかりとなるだろう。
【補論】「道具としての民主制」が惹起する論点
(1)民主制が持つ道具としての機能は、政策的妥当性の要請に優越する
選挙を「時代認識を得るための、あるいは指向性を発露するための道具」であるとする議論に対する批判として、「道具」としての機能が果たされていれば、選挙により民主的正統性を付与される政策の妥当性が問われなくてもよいのか、というものがあり得る。例えば、ある選挙の過程において、有権者において十分な熟慮や議論がなされ、いかなる候補に投票したかに関わらず、有権者の選挙結果に対する納得感も調達できているものの、その選挙によって実施することが実質的に決定された政策が、実際に実施されたときに生ずる帰結が、構成員が選挙のときに意図しているものとは明らかに乖離するであろうという事実が、その政策を実施する前から明らかであるような場合はどうだろうか。
わかりやすい例えを挙げれば、福祉に係る財源を調達するために一定規模以上の会社の資産を強制的に没収するという政策を決定した場合(企業の経済活動に甚大なダメージが生じ、長期的には税収が激減することが明らか)や、若者向けの社会保障を拡充して子育てしやすい社会を作るという政策目的のために、高齢者向けの福祉に係る費用を一律半減させるという政策を決定した場合(困窮した高齢者による犯罪が増加して治安が悪化する可能性が高い)などである。
まず前提として日本は立憲主義を採用しており、共同体の存立の根幹に関わるようなドラスティックな政策判断が安易になされないよう、最高法規としての憲法が民主的意思決定に一定の制約を課している(例えば上記のような政策は、そのような法律を作っても憲法違反として無効になる可能性が高い)。ただ、主権が国民にあり、憲法の改正も民主的な手続によって可能である以上、そうした制約もあくまで相対的なものに過ぎないことは事実である。
その上で、上記のような事例において、政策的妥当性と「道具としての民主制」の契機が衝突した場合には、究極的には国民が望むあらゆる政策が許容されるべきであり、政策的妥当性が二の次になることは止むを得ない。共同体としての「指向性」に関わる問題に対する回答を、「自分たち」で判断したという納得感を通じて、国民国家の構成員たる国民の離散や分断を回避し一体性を担保することの要請は、政策的妥当性の要請に優越するし、政策の失敗により生じる不利益を、「自分たち」で判断した結果として受け止めること以外に、共同体の意思決定に参画することの意味を理解し、これに腹落ちする方法は無いからである。
その上で、その政策により生じた便益も損失も、その責任は全て国民に帰属することは当然である。そもそも、国家としての選択が積み重なった結果が今ある国家や国民の方向性、すなわち未来を規定していくということは、ある意味で当たり前のことであり、歴史とは本来的にそのようにして作られてきたものである(その意味において、本論で述べた「時代認識」とは、想像し得る未来にも向けられるべきものでもある)。
例えば今の社会保障制度のあり方に問題があるのだとすれば、それは、その社会保障制度を構築した過去の世代が決めたことの責任を、「自分たち」、すなわち「国民」という共同性の範囲内に含まれる今の世代が、時間を超えて引き継いでいるというだけのことである。
このように、個人の目線から見れば自分で決めたことではない事柄であっても、人間が集団性をその生存の条件としており、かつ、集団的な自己決定を可能とするための方法として採用されている民主制という仕組みが、現状、「自分たち」の範囲として「国民」という枠組みを採用している以上、その選択がもたらす責任が時間と空間を拡張して共有されることはやむを得ないことである(もしもそれが妥当でないのだとすると、民主的な意思決定の過程における「自分たち」の範囲を、例えば「西暦◯年から◯年までに日本に生まれた人」とかにしてしまうことも論理的には不可能ではないのかもしれないが、現実的には困難だろう)。
付言すれば、言うまでもなく「自分たち」の範囲の線引きは、この納得感の根拠そのものである。すなわち、ある民主的な共同体の構成員の大部分が、その線引きが正しく行われていないと考えれば、共同体としての一体性は著しく損なわれることになる。
ある人間が、自分以外の他者を「自分たち」の範疇にあると認識するためには、当該他者と自分自身が一定の利害や文化を共有しているという事実などを通じて、「仲間意識」を持つことができるということが不可欠の要素となるだろう。そして現在は多くの場合、その範囲は「国籍を共有する人間」ということになっている。
仲間意識を持つと言うことは、当然、「仲間ではない存在」をその裏側に認識するということである。民主制というものが機能するための条件として、そのような冷徹な区別が必須であるということは、民主制の本来的な性質として理解すべきである。
(2)ポピュリズムは時代認識の獲得に無益かつ有害であり、時代認識を獲得することはポピュリズムに対する免疫になる
本稿の議論との関係で注意深く取り扱う必要のある問題が、ポピュリズムである。ポピュリストは、既存の政治勢力が「不協和」に対して明確な解を示すことができないという本論に示した状況を理解した上で、往々にして大胆な主張を行い、あたかも「進歩無き時代」の新たな理想を示しているかのように見せかけつつ、これを歯切れのいい言葉で売り込み、有権者を熱狂させることで、熟慮の隙を与えず、支持を得ようとするものである(だが、その主張の内容をよく見てみれば、実際にはほとんど中身が無かったり、過去に繰り返されてきた政策とあまり違わなかったりする)。
そもそも、本稿が民主制への参画を重視するのは、それが時代というものと真正面から向き合い、これに関与することを通じて時代認識を獲得するために有用であるからである。この点、有権者を熱狂させて支持を取り付けるポピュリズムは、時代認識の獲得に繋がらないどころか、その獲得の契機を損なうものとすら言える。
ポピュリズムがもたらす熱狂は、「不協和」を一時的に吹き飛ばし、曖昧さから個々人を解放するが、人間は四六時中熱狂の中で生きられるわけではない。現実の生活に戻ればまた「不協和」の只中に放り出され、葛藤が始まるのである。重要なことは、「不協和」の背景にある問題の所在を自分なりに理解することであって、熱狂の中にそのチャンスは無いだろう。
このように、ポピュリズムの伸長は本論における議論の方向性にポジティブに作用しないことは明らかであるが、補論(1)との関係で言えばポピュリズムの伸長は有害である。
ポピュリズムには熟慮が伴わない以上、自らと異なる立場の主張に対する理解も当然にして欠如することになる。結果として、相対する勢力とのコミュニケーションが相互に成り立たなくなるために、選挙を通じて何かを決めたとしても、その意見が通らなかった側から見れば、その結果について、「自分たち」で決めたという感覚は得づらい。
裏を返せば、ポピュリズムが伸長することにより、民主制の根幹である「自分たち」の線引きが動揺する可能性がある。国民の離散や分断を回避し、国民国家としての一体性を担保するために、民主制とは徹頭徹尾「道具」であるべきだと述べたが、このように、ポピュリズムは「道具としての民主制」とは相反するものである。
最後に、「時代認識」の獲得は、ポピュリズムや、これを含む昨今の言論空間に氾濫する論拠不明な流言に対する免疫になり得るものであることを指摘したい。「不協和」の背景にある時代の状況について自分なりの理解さえあれば、少なくとも明らかな論理的飛躍や根拠の無い主張に惑わされることは無くなるからである。
逆に言えば、そのような流言が蔓延しているという状況は、個々人が例え大まかであっても自分なりの「時代認識」さえ持ち合わせていれば、妥当な政策判断に近づくことが容易にできる状況であると言えるのかもしれない。
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