見出し画像

「世界の食事文化」 石毛直道 編

#7days #7bookcovers #7BookCoverChallenge  #7日間ブックカバーチャレンジ

画像1


【7日間ブックカバーチャレンジ】これは読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、好きな本を1日1冊、7日間投稿。
本についての説明は必要なく、表紙画像だけをアップ。
更にその都度1人の友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いするというルールです。

ということで、ロンドンに駐在されている日経の@joshua_ogawaさんからご指名を頂きチャレンジを開始ししたいと思います。

ロンドンから私が住む北イタリアの惨状を聞いて激励のメッセージを真っ先に下さったJoshuaさん。異国で全国封鎖中のsocial distancing生活に、思いやり溢れるメッセージを受け取ると、今まで以上に人の優しさを感じます。

もう1ヶ月半もイタリアのピエモンテの自宅にこもって、kindle unlimitedで目ぼしい本も読み尽くしたので、棚に積み上げている過去に読んだはずの本(記憶喪失気味なので、読んだ本の内容を忘れること度々)を掘り返し、パラパラと思考を巡らしながら過ごしてみます。

 このブックカバーチャレンジもせっかくなので、世界の #やさしさの伝染 にちょっとでも寄り添うものにしたいと思い、本来はブックカバーをシェアするだけで良いチャレンジですが、中身にもふれて一緒に備忘録として、コロナ禍の今の思いと共に記録しておこうと思います。

石毛直道 編集 「世界の食事文化」 昭和48年出版

チャレンジ初日の今日は、やっぱり食について。日本を代表する日本の文化人類学者・民族学者である石毛先生、御年82歳。もはや食文化界のレジェンド。

年季の入ったこの本は、確か長野の古本屋で発掘した一冊。私が生まれる前に書かれたと思えない、グローバルで多様性に満ちた内容。特に様々な食の目線で見るカラフルな世界地図が付録してあり広げるだけで楽しい。

例えばこれは、調味料と薬味の世界地図。

ハーブ

唐辛子

私たちは紫色の「醤圏」に属する。広域にはココナッツソース圏が太平洋に広がっていて、中東から北アフリカには「強烈スパイス圏」なるものが覆っている。とはいえ全体で見ると、このように塩以外の調味料やスパイスが発達している地域は限られたものだと知る。ましてや調味料を手間暇かけて発酵させたりするような文化は本当にわずか。五味に溢れた醤圏に生まれた幸運を感じる。

他に食べている家畜の違いや、主食にしている穀物の地図(ちなみに日本と東アジア全域がツブガユ圏)なんかもあり、食を軸にすると全く新しい目線で世界の国境を超えたつながりが可視化できる。

他にも、食事を同じ器から直接取って食べる「じか箸文化圏」 なのか「とりわけ文化圏」か、など興味深い分析が続く。先生は、同じ入れ物から食物を取る行為は、食を通してお互いが電流のように通じ合うということであり、皮膚接触に関する日本人の美意識がこの文化の違いを生み出している根底にあるのではないか、などしびれるような素晴らしい分析をなさっている。

まさに食文化といっても切り口は様々。更に石毛先生は文化を超越した「食文明」という視点にも触れておられる。

「文化とは極めて個別的なものとして捉え、文明は普遍的なものと考えておこう。文明とは文化のちがいをのりこえて、より一般的な性質を備え様々な文化の上層をおおってゆくもの。
インドネシア料理とアラビア料理ではその体型はまったくことなったものである。それは文化のレベルにおける違いである。しかしながら文明のレベルでいえば、ともにイスラム圏に所属しており、ブタを食べないとか、断食月をもつ、といった共通の指標をそなえるものである。」

文化はそれぞれの違いを浮き上がらせるけれど、文明においては普遍の性質があり共通の指標を示してくれる。

いまコロナの世界で次々と国境が閉じ、世界の連帯をどう今後生み出していくのかが大きな課題になっている。そんな最中に50年近く前に書かれたこの本を読むと、離れた国や地域に同じ食が根付いていて、同じルーツを持つ食べ物を、似たような調理法で毎日食べている人たちが離れた地域にさえ沢山いることの何か大きな意味を感じる。グローバル市場において、食べ物はルーツと切り離されて消費されているのは環境的な負荷になるとしても、異文化に思いを馳せる教材としてはきっと価値がある。そして#stayhomeの今、zoomやInstagramで毎日のように「本格的な郷土料理」のレシピがシェアされ、食の国境線はゆらぎ、食文化のシャッフルはますます加速しているのだ。

単純な私は、越境を禁じられた今、国境を超えた食の繋がりにほっとする。なんだ、みんな食べ物の前では同じ人間じゃないかと。

そして学者であること以上に美食家であった石毛先生はこう述べている。

われら美食家はうまいもの食いながら滅んでいくかもしれん。
個人的な人生観で言えば、滅んでかまわない。
別に私は人類のために生きているのじゃない。
滅んでもかまわんと思うやつが美食家なんや。

うまいものを喰らう、ということへの並々ならぬ情熱。美食家たるものウンチクを語る「通」とは異なるらしい。ましてや決して欲望のままに暴食するのではない。更には先生にとって、うまいもの=贅沢で希少な食べ物のことではない、ということも合わせて補足しなければ、エシカルな食を唱える人には眉をひそめられてしまうかもしれない。でも「うまさ」、という複合的な、極めて人間くさくて社会的な幸福をどこまでも人生の中心に据えている潔さがかっこいいじゃないか。

私はいくら食を愛していても滅びたくもないし、美食家と名乗るのは恐れ多くて程遠い。でも共感するのは、我慢したり、何かを犠牲にして、食べることをおろそかにしてはならないということだ。食べるという価値は、小難しく面倒な行為ではなく人間らしい「喜び」だから。

「食べる」の語源は「賜(たま)へ」つまり「(身分の高い者から飲食物などを)いただく」 から来ているそうだ。つまり、食は神から賜りし贈り物だと、日本人に生まれたからには心に刻んでおきたいと思う。

食よ、閉じた世界に生きる人々を繋ぐ救世主としてポストコロナの時代を切り拓いておくれ。これは私の個人的な祈りだ。

食のような生命資本が経済よりも政治よりも宗教よりも、世界中の人々を結びつける地球文明の軸足となっていくことを願いながら本を閉じた。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?