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土地陽子さん - グローバルキャリアを紡ぐ人


国際的なキャリアとは?

私は、もともとはインベストメント・バンカーです。新卒で東京銀行に就職し、英国とのご縁はそこからの派遣でオックスフォード大学に留学したことが始まりです。帰国後に英国人の外交官と出会って結婚し、世界銀行(米国ワシントンDC)に移籍しました。その後、1999年に英国に引っ越して以降、日本勤務の期間を除き家族と仕事のベースをロンドンに置いています。

この20年あまり、日本のグローバル企業のIR (投資家向け広報)の仕事をしてきました。しかし、今年の4月にちょうど転機を迎え、今後はより幅広い上場企業の社外取締役として、また日英関係やダイバーシティ促進や次世代育成をめざす財団等の理事として、これまでの経験をボードルームで生かしたいと考えています。

必ずしも、全ての人にとって留学やグローバルキャリアが最適な選択肢になるわけではありません。ただ、ここではあくまで私の経験してきたことに基づき、次世代のグローバルリーダーを目指す若い方にとって、参考になるようなお話をできればと思います。

まず、はじめに、ひとつ考えてみてください。

Q. あなたが「国際的な仕事」という時、それはどんなイメージですか?

…海外に住んで働くこと?外国の会社や組織で働くこと?外国語を使って働くこと?非日本人のメンバーと共に働くこと?国際公務員として働くこと?それとも、日本を代表するような立場で外国と折衝することでしょうか?

答えは1つではなく2〜3の組み合わせかもしれません。正解もありませんが、私自身がこだわってきたのは「国境を超えてステークホルダーをつなぐという意味での、インターナショナルな仕事をすること」でした。

東銀から世銀へ、ワシントンからロンドンへ

学生の頃からインターナショナルな仕事がしたいという希望をもっていました。都銀でありながら国際業務が8割という東京銀行に就職したのは1987年。男女雇用機会均等法第一世代で、総合職の同期100人のなかで女性は5人だけでした。でも、組織は当時としてはリベラルで、キャリアを後押しをしてくれる上司にも恵まれました。

留学する時、グループ長は「海外に出ると、日本では見えなかったことがきっとたくさん見えて来るでしょう。帰りたくないと思ったらそれでもいいんですよ。女性第一期生というので色々言う人がいるかもしれませんが、何かあったら力になりますから」と言って送り出してくれました。

留学から戻ると、バブルが弾けて銀行の中の雰囲気が様変わりしていました。私以外の女性総合職同期は皆退職してしまっていました。業界全体が萎縮していくように感じられる中で、結婚・出産のイベントも経て、その先のキャリアについても色々と考えました。

1996年、途上国向けの開発金融を志し、公募に臨んだ世界銀行のヤング・プロフェッショナル・プログラムに合格し、アメリカ(ワシントンDC)に赴任しました。半年遅れで夫と1才の長女が合流しました。

女性がキャリアを考える時、子供のケアのオプションが多いことはとても大事です。自分が海外でキャリアを築こうと思った理由の一つは、家族と仕事との両立を考えるにあたって、当時の日本ではその選択肢があまりにも限られていたということがありました。

日本の銀行から世銀に移ると、いいことばかりではありませんでしたが、日本の組織とのさまざまな違いに衝撃を受けました。ワークライフバランスへの配慮ははるかに進んでいました。人種のるつぼでもあり、全ての職級で約半数は女性でした。配属先のトレジャリー・ファイナンス(資金調達)部門の局長も女性でした。

30ヶ所以上回ってようやく探しあてた乳幼児むけデイケアセンターの近くのフラットを借り、朝の7時から長女を預けながら働きました。1999年に夫の英国への帰任辞令が出た時は、上司に願いでて、欧州の民間金融機関との協調融資を推進する新しい部署の立ち上げを条件に、ロンドンへの異動が許可されました。

ロンドンでは、デイケアセンターがない代わりに、伝統的なナニーの制度がしっかりしていました。生まれたばかりの次女の世話を任せられる良いナニーを探し、産後3ヶ月で仕事に復帰しました。

世銀では、海外出張を「ミッション・トリップ」と呼びます。主に行き先は途上国で、最低2週間〜数ヶ月と長期にわたるものです。産後しばらくは控えていたのですが、次女が1歳を迎える頃に、そろそろ良いかと思って、タイのデフォルト案件の再建交渉のためにミッション・トリップに出ました。

しかし、私がロンドンに戻ってきたその夜、次女が引き付けを起こしました。ウイルスによる急性脳炎。呼吸がとまった娘に人工呼吸をしながら救急車で病院へ行き、翌日ワシントンの上司に電話をして休暇を申請しました。意識が戻ったものの、24時間の投薬治療が必要となった次女につきそい、仕事を休む時間が1ヶ月になり、3ヶ月になりました。夫も3歳の長女のために仕事を控えました。

予想もしなかった転機の訪れ

1年経って、娘が後遺症なく健康に生きられることが分かって安堵すると、私はまた仕事に戻りたくなりました。夫も戻るべきと言ってくれましたが、頻繁な長期出張は避けたいと思いましたし、将来、医療制度の整わない途上国に子供を連れて赴任するのも怖いと思いました。夫と話し合い、ロンドンをベースに、夫婦で出張のタイミングを調整して絶対にどちらかは子供達と一緒にいられる働き方をしていこうと決めました。

折しも、米・英で海外上場したトヨタ自動車が、資本のグローバル化を本格的に進めるために海外IRの専任者を探しているタイミングでした。考えたこともない仕事でしたが、投資家サイドを知る私の経験がそこにピッタリはまったのです。それが、20年以上にわたるIRのプロとしてのキャリアの始まりでした。

最近自覚するようになったことですが、私にとって、働く組織を決める時、その目的やビジョン、経営者のリーダーシップや価値観に共感できるかということが、たんに収益状況がどうであるかということ以上に大切です。若い頃は経営トップと話すチャンスはまずありませんから、公表されているメッセージなどで判断していました。世銀に行ったのも「世界中の貧困を撲滅する」というミッションに惹かれたからです。

トヨタのマネジメントには強い共感を感じ、素晴らしい仲間たちに支えられ、仕事に全力投球することができました。巨大なグローバル企業を俯瞰する立ち位置で、業績として現れる数字の裏にある経営理念や事業戦略、資本政策、そして成長の源である技術開発や製造の現場における並々ならぬ情熱を世界に伝えるIRの仕事はやりがいがありました。

トヨタは海外で急成長の後、リーマンショックを機に史上最高益から最大の赤字に転落します。それに続く品質問題(2010年)東日本大震災によるサプライチェーン寸断(2011年)と危機に見舞われながら収益構造改革を進めていきます。5期かかって正常化を達成後は、「100年に一度、生きるか死ぬか」と豊田社長が表現されたモビリティカンパニーへの変革が始まります。会社を取り囲む状況が常に変わり続けるなかで、飽くことなく、2001年から17年半に渡り、投資家との対話の第一線に立ち続けました。

続いてソフトバンクグループに縁を得て、今年の4月まで、5年近く務めました。創業者である孫社長率いる、産業も組織もカルチャーも意思決定のスピードも何もかもトヨタとは全く違うグローバルテック投資会社において、その国内通信会社からのビジネスモデルの大変革期に、世界の投資家との信頼関係を再構築し、ESG*を強化していく挑戦は、波瀾万丈で面白く、グロースとは何か、企業家精神とは何か、など学びも気づきも多い仕事でした。

*ESG=環境(E: Environment)、社会(S: Social)、ガバナンス(G: Governance)の英語の頭文字。持続可能な社会の中で長期的に成長を続けるために、経営に求められる取り組み

大切なのはプロフェッショナリズム

最近、東大の海外研修プログラムの受け入れも含めて次世代育成のためのプロジェクトに関わるなかで、国際的な仕事を志向する日本の学生から質問を受ける機会があるのですが、印象に残った質問の中には「国際組織で日本人・女性というマイノリティのハンデをどのように乗り越えてきたのか?」、また女子学生からは「結婚も出産もしたいが、仕事優先で就職先を選んで良いものか?」というものがあります。

それらを聞いた時は、なぜやってみる前からそんな不安を感じるのだろうかと内心驚きました。また、「国際的な仕事をしたい」と言っているのに、留学に対しては消極的な学部生が多いことにも驚きました。よくよく聞くと、彼ら彼女らは留学の先の就職に不安を感じているようでした。

学生が「海外留学をすると就職が不利になるのでは」というような不安を持つというのは、もしかしたら、過度な受験戦争や青田刈りをする企業、さらには、学生を守れない大学にも改善すべき点があるかもしれないと思います。

しかし、国際的な仕事にかかわらず言えることですが、自分自身で納得のいくキャリアを歩んでいく上で最も大事な要素は「プロフェッショナリズム」だと考えています。プロであることに拘って自分を磨いていくと、性別や国籍などの属性はどんんどん関係なくなり、むしろそれは自分のユニークネスとして活かせるものになっていきます。

国際舞台で「マイノリティ」という言葉が使われる時は、特定の人種・信条・宗教に所属することで著しく人権が侵害されるような虐げられている人々のことを指します。その点、日本人は幸いにもそんな不利益は受けず、安全で裕福な社会のなかで守られていると言えます。

私は自分がマイノリティであるとか、ハンディを負っていると感じたことはありません。プロフェッショナルとしてのキャリアにおいて、男だったら別の判断をしたというようなことは、一切ありませんでした。

ただ、日本の女性登用の進みが遅いことは否定できない事実です。私がこれからの自分の仕事としてテーマに考えていることのひとつは「日本企業で生き生きと活躍するプロフェッショナルな女性を増やすことに貢献したい」です。若い世代が、36年も前に社会に出た私と同じような課題につきあたらないですむようにしたいと心から思います。

これまでは執行役として、また女性管理職のひとりとして、いい仕事をして実績を作り、周囲に認められ、発言力を少しづつ高めていくという努力を会社の中でやってきましたが、それだけでは足りません。

企業にとってのダイバーシティとは、たとえばクルマづくりの会社なら、世界中のお客様の半分は女性ですから、ビジネスに直結するイシューです。また、予測不可能な将来に向かって経営判断をしなければならない取締役会にとっては、多様な視点が不可欠であるという意味でガバナンス・イシューなのです。でも、専業主婦に支えられてきた世代の男性エグゼクティブたちは、理屈はわかっていても、何をどうしたらいいのか策に窮しているように見受けられることもあります。その思考のボトルネックを取り除くため、取締役会を通じて、経営陣に働きかけ、よりスピード感を持って、多様性に富んだリーダーを育成していけるよう後押しをできればと思っています。

若い時にはとことん勉強して、自己投資をして

今の若い方たちは、見通しのきかない時代の中で何をすればと不安に駆られるのだと思いますが、先が見えないのは今に始まった事ではありません。私も最初から今のような未来を描いていたわけではなく、バブル崩壊や金融サバイバルの時代の中で悩んだ時期もあります。理想と現実の乖離に気づいて途方にくれたこともあります。でも、海外での子育てで実家を頼ることもできない状況でも、なんだかんだで道は開けて、いろいろなことは後からついてきました。

学生時代は本来、「学ぶとは何か」を学び、それをとことん楽しむ特別な時間ではないかと思います。世界に通用するプロフェッショナルとして生きていくためには、自ら学び、考え、他者の多様な意見に耳を傾け、理解をした上で自分の意見を持ち、しっかりと伝える力を培っていかねばなりません。ただ勉強ができるということではない思考の深さや教養が試されます。

国際的に活躍する意思がある若い方には、留学することをお勧めします。私自身もオックスフォードに留学した時、ホリスティック(全人的)な教育を受けてきた、器も大きく多芸に秀でた学生たちと出会い、これは太刀打ちできないとショックを受けました。毎週英語で大量の課題文献を読み、エッセイを書くのに四苦八苦し、チュートリアルではまともな議論もできず、落ちこぼれ寸前の中で、学ぶことへの自分の意識が変わりました。そしていかに世界は広いか、を知りました。

それを若いうちに体験するのは大切です。奨学金制度を利用したり、ダブル・ディグリーを認める交換留学制度を使う手もあるでしょう。使えるものは使って、グローバルレベルの学びをぜひ体感してみてください。

キャリアは自分の大事な時間を使う真剣勝負です。人生では予期せぬ出来事が次々と起きるものです。やりもしないうちから不安に思う必要はありません。興味がある組織や企業があるならば積極的に門を叩き、そこでご縁があれば思いっきり仕事に取り組んでください。そうしているうちに必ず道はひらけます。その夢が国際的であろうとなかろうと、特に大学時代や20〜30代は、とことん勉強し自己投資をして良い時期なのです。

迷わず夢に向かって進んでくださいね!

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