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始動。持論・壱


20世紀初めの天才、アルベルト・アインシュタインは、自身の思考実験から特殊相対性理論を大成した。
物理学における天才、アインシュタインであるが、その研究の起源は自身の脳内における思考実験であったという。


記念すべき第一回の投稿であるが、自己紹介は少し、主には私自身が考える「思考」の意義について述べていこうと思う。


はじめに

友人(先輩)がこのサービスを利用していると聞いてアプリをインストールしてから早3年は経つだろう。ついに自分にも投稿する時が来た。
なんてカッコつけて固い文章を書いているが本人はただの24歳フリーターである。
何かを発信したいと考えていたが思い付かず、後回しに後回しを重ね長い時間が過ぎてしまった。
しかし、フリーターといってもただなあなあと人生を送っているわけではない。
葛藤の日々の中で自分の哲学が固まってきた感触があるため、ここに記すためにMacを開いている。
自己紹介は最後に軽く記載する。まずは拙い長々しい文章を読んでほしい。
この記事に関しては一切画像を使わず、活字のみを使用するため、読みずらいのは重々承知である。一種の自己満足で作成している。
物好きだけが読めばいい。
本文では便宜上言い切りの形をとるが、あくまで私の意見であることを理解した上で読んでほしい。

思考とは

冒頭に述べたアインシュタインの話だが、これで毛嫌いしてしまう人もいるだろう。理系の話は嫌、拒否反応が出るという人も存在することは心得ている。
しかしここまで読んでいるあなたは、それでも読んでみようという素敵な好奇心の持ち主だ。
毛頭この記事で物理の話をするつもりはない。一つのインスタンスとして、アインシュタインの話を持ち出したまでだ。
天才アインシュタインも、研究の起源は思考であるように、人間の思考は行動や感情を制御する上で大切な役割を担っている。今回はその「思考」について個人的な見解を徒然なるままに書き下していく。

さて、あなたは考えるということについて考えたことはあるだろうか
これだけでも頭が混乱してしまうが、私は考えるということについて客観的にも主観的にも考えてきた。
あえて「思考とは」という見出しにしているが、いくら考えても結論は出ない。これが結論なのである。よく「思考は無限大だ」というが、その通りである。考えることに対して正解も不正解もない。自分の心の赴くままに思考していいのだ。
ひとつ、私が仮定しているものは、思考とは、人間の感情を形成する原始段階の活動であるということだ。

そして、あなたの行動も含むすべての知的財産は、思考から形成されている。あなたがこの記事を読んでいるのも、逆に言えば私がこの記事をあなたに読ませているのも、冒頭に述べたアイシュタインの歴史的発見も、すべて思考がなす行動なのである。

環境と思考

私は今年で24歳になるわけだが、なぜこんな記事を書こうという思考になったかというと、当然だが24年間思考を続けて成長しているからである。では、この思考はどのようにして成立していったのかを再起的に考えてみた。この章では結果どんな発見があったのかを記していく。

生まれた瞬間は思考もクソもない。クソはある

その通りである。生まれたての人間の感情は不快か快適の2つしかないという。だから赤ん坊は泣くか笑うかしかしないのだ。これは本能からくる感情であって思考からくる感情ではない。思考の観点からも新生児は純粋無垢である。

教育によって思考は形成される

では、どのようにして人間が思考を形成していくか。であるが、小題に述べた通り、「環境」によって形成されるものである。幼少期の環境と聞くと学校や親などを思い浮かべると思うが、その他にも友人など周囲のすべての人間からの影響もある。
純粋無垢な赤ん坊はまず親から言葉をかけられることにより思考を開始し、感情や言語を習得していく。さらに学校に入学することで様々な思考を獲得する。

なにも知らないまま世に生を授かってしまった人間は、親からの声掛けにより思考のたねを得る。当たり前だろうがあなたたち日本人は物事を考えるとき、日本語を脳内で用いて思考するだろう。では赤ん坊はなにを用いて思考しているのか、それは音と行動である。親を見て、この音がするときにこの行動や表情をする。これをこの音で表すんだ。と。おそらく人間の初めての思考がこれであろう。それから音を言語として認識していき、言語を獲得する。それ以前は本能である。
思考の起源について見解を述べたが、おそらくこれは本題ではないので中途半端にこの程度にしておく。これがnoteの良さだと思いたい。

2次思考

言語をある程度習得した人間は、自分の感情を思考する。これをしたときに自分がどのように感じるのか、この感情はどういうものなのかを鑑みる。それを素直に行動に表すのが児童の特徴であると言える。言語という大変便利なツールを得てしまった以上、それを使いこなしたいのが人間の性(さが)であろう。あなたたちは幼少期、無意識にこの感情はなんと日本語にするのかを考えてきたに違いない。そうして言語習得をしていった。本文は言語習得についての話題ではないため、言語習得に関しての話題はまた気が向いたときに持論を述べようと思う。
私はこの感情を言語化する作業のことを2次思考と名づけた。
この先は言語を用いた上でさらにどんな思考がなされていくかの高次思考について述べていく。

高次思考

さて、言語を習得し様々な環境で暮らしていく人間だが、次第にどんな思考をするようになるだろう。他者との集団行動を過ごしていく中で、避けては通れないものが、相手の思考とのバランスだろう。相手がなにを考えているのかを考え、自分がどう行動するべきかを決定していく。自分の行動には少なからず他人の思考の予測はつきものである。逆に、自分がこの行動をしたら、相手はどのように感じるかを思考する。これを、2次思考をさらに超えた「高次思考」と名づけた。この記事を読んでいるあなたは、ほとんどこの高次思考の上で日々を送っているはずだ。
この高次思考には、人間性の形成において重要な役割をなしている。たとえば、自分がテストでいい点を取ったら、親が笑顔で褒めてくれる。すると自分は勉強を頑張ろうという気持ちになる。このような思考を繰り返していく中で、人間の性格や特性、人間性は決定されていくのである。これはその人間の心を形成していく上で非常に重要なものである。

思考と行動

ここまで思考の成り立ちについて持論を述べてきたわけだが、ここから徐々に自分がこの記事で1番書きたかったことに近づいていく。(まだ本題じゃなかったのかよというツッコミは飲み込むんだ。!)
人間の行動は思考の元に行われている。例外は脊髄反射のみである。
たくさんの高次思考を繰り返しながら時間を過ごしていく人間がどのように変化し、行動していくかを深そうに浅く細分化する。

無意識的思考

まず、思考は多くのエネルギーと脳内リソースを割く人間的活動である。2次思考から高次思考に移行しそれを繰り返していくと人間は疲れてしまう。脳の疲弊を回避するため、人間は複数回同じ思考をする場合を無意識レベルに移行する。思考の条件反射とも言えるだろう。お箸の持ち方を覚えるのも、毎日の練習があってこその賜物だ。これと同様に、似たような思考をして似たような行動をとるとき、これを無意識レベルに行うようになる。テストの例でさらに例えると、テストでいい点を取ると褒められるため、次第に無意識に勉強しなくてはという感情が生まれ、なんの意識的思考もなしに勉強机に向かうようになる。(真面目すぎるなコイツ。)無意識で取っている行動でも、脊髄反射を除いては必ず思考が根本に存在しているものであるが、反復するたびに自然と無意識レベルまで移行しているため、思考の実感が沸かないだけである。

無意識的思考の両面性

無意識的思考について軽く述べたが、これには良さも悪さもある両面性がうかがえる。どういうことかというと、喜びなどのポジティブな感情はもちろんのこと、怒りや不満などのネガティブな感情も、無意識的思考によって生まれる可能性があるということだ。
ポジティブな面に関しては想像に難くないと思われるので、ネガティブな面に関して少し触れておく。
突然少し重たい話にはなるが、「ネグレクト」という言葉をご存知だろうか。

ネグレクト(neglect)
無視すること。ないがしろにすること。「住民要望がネグレクトされる」

子供に対する適切な養育を親が放棄すること。例えば、食事を与えない、不潔なままにしておく、病気けが治療を受けさせない、乳児が泣いていても無視するなどの行為のこと。子供の精神的な発達が阻害され、人格形成に悪影響を与えるといわれる。養育放棄。→児童虐待

デジタル大辞泉

日本では主に2の意味で使われることが多いだろうが、簡単にいうと児童虐待だ。このような扱いを受けた人間は、環境の機嫌を取るために、または環境に反抗するために、攻撃的な行動を取ったり、逆に自傷的な行動をとりやすくなる。これは環境の悪影響からなる人間の思考が繰り返されることによって、無意識的思考に移行してしまったためである。

このような思考を無意識的思考に移行してしまうと、それを是正するためには強い意識的思考を繰り返し意識的に無意識的思考にする必要があるため、大変困難である。

意識的思考

無意識的思考について述べたが、意識的思考とは文字通りである。普段人間が使う「考える」とはすべてこの意識的思考であり、高次思考の基本とも言える。相手を慮る思考、自身の成長に繋がる思考、など成人が行う思考の初めはこの意識的思考からである。これを繰り返していく中で似たような思考を無意識的思考に移行していく。
さて、人間はこの意識的思考を幾多も行う中で精神的成長をしていくわけだが、大人になるにつれ、個体それぞれについてどのような変化が現れるかを次の章で見ていく。ここからが本題である。

思考と大人

この文章をどれだけの人間に読まれるかは計り知れないが、おそらく20代の社会人もしくは大学生が多いことだろう。そんなあなたたちは、日々思考にいとまがないに違いない。では、その漠然とした思考をもっとクリアに言語化して差し上げよう。
先に言っておくが、この文章はあなたの思考に正解も不正解も解決も与えない。ただ客観的、ときに主観的に分析するのみである。
第一に、あなたたちがしている思考は、不安、葛藤、恋愛などに対してが多いだろうが、これはすべて意識的思考である。なぜなら、これらに対する思考は無意識的思考になりようがないからだ。
少し混乱させることを言うが、その感情は感情が先だろうか、思考が先だろうか。
ここまで読んでいただいたあなたはもうお気づきかもしれないが、必ず思考が先である。最初に述べた通り、思考は感情や行動を司る原始的活動だからである。
ではなぜ、漠然とした不安などの感情が先行しているように感じるのか、それはあなたのこれまでの人生で無意識的思考が増えているからである。これは当然のことで、長い人生を送っていれば無意識的思考に移行する事象が増えても不自然ではない。生まれる悩みというのは、今いる環境における、自身の無意識的思考が不適合である場合が多い。しかしこの文章では解決する策を提示しない。これは人間のこれまで培ってきた無意識的思考が個体によって全く違い、一般化はほとんど不可能であるためである。あなた自身の無意識的思考に意識的に思考を向け、自身の意識的思考で無意識的思考をアップデートするまでである。無意識的思考を変えることは容易ではない。1回の意識的思考よりも遥かに繰り返された無意識的思考の方が強そうなのは感覚でもわかるはずだ。しかし悩みの根源はこの無意識的思考であって、それを大きなエネルギーを用いて変えていくしか方法はないのだ、だから悩みの解決にはパワーがいるし、面倒だ。しかし、それを意識的思考で乗り越えてこそさらに成長した大人になるのだと私は確信している。ここまで読んだあなたもきっと共感してくれるだろう。

おわりに

かなり長ったらしい文章で拙くはあるが、第一回はこの辺りでおわりにする。眠いもん。
このようなことを私が書こうと思ったのも、少し考えるきっかけがあったからである。毎日いろいろなことを思考しているが、ふと、考えることについて考えてみようと思い、高速道路の約3時間で考えたことをベースに脚色を加えてこの記事を作成した。
これからもふと思った議題があれば言語化してここにまとめていこうと思う。
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自己紹介

あ、自己紹介忘れてた。
2000年3月22日生まれ
静岡県御殿場市出身
愛知県名古屋市守山区在住
高校卒業後愛知県立大学に入学し、先日退学。
今はフリーランスでカメラマンとアルバイト中。
考えていることを言語化しようと思いついに重たい腰を上げた。

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