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踵骨骨折奮闘記②

「信頼する」(約3900字)

 「血圧図りますね」「お熱も測りますね」「痛いところは他にはありませんか?」と何人もの看護師さんに次から次へと声掛けと処置をされた。まさか、こんな体験することになるろうとは…と思いつつ、ストレッチャーの上で身じろぎせずに返事をしてそっと息をひそめた。
「折れていると思うから、レントゲン、撮りますね」と、横たわる私の左側に現れた医師からはレントゲン撮影をすることを告げられた。『そりゃ、そうだろう』とちょっとした反発心を覚えながらも、私は愛想よく返事した。

 物分かりの良い患者でいなければ、という思考に囚われていた。

 ストレッチャーに横たわったままレントゲン撮影へ向かう。天井を見ながらの移動は、やはり、どこをどう通っているのか方向感覚がくるってしまう。自分の意志とは全く関係なくことが進んでいくことに、少なからず恐怖心を抱いた。
 レントゲン室から先の処置室に戻り、医師からレントゲン写真を見せられ、「やっぱり、ここ、踵(かかと)のここ、折れてますね」と診断された。医師はレントゲン写真を指差しながら、「ここがこう、Ⅿの線のように、グシャってつぶれて、横に広がってますね」と続ける。

 踵の骨って見たことないし元の形を知らない。折れてるって言われても分かりにくいなぁと思いながらただただレントゲン写真を見つめていた。医師の圧倒的な知識の前に患者である私はひれ伏すしかないのかという思いを察したのかどうかわからないが、私の目の前にいる医師は電子カルテから目線を外し、私のほうに体と顔を向け、私の目を見ながら今後の治療計画(手術と入院)について説明を続けた。

 正直言って、手術の術式を説明されても患者である私には十分に理解できるはずがなかった。ただ、精神科とはいえ医療機関に勤めていたこともあり、また、様々な医療関係の情報は入手してきたつもりだったので、自分に少し期待していたがもろくも崩れ去った。さすがに、踵の骨折という今の自分の状態に適した治療法を持ち合わせているはずもなく、ただただ説明を聞きうなずくしかなかった。

 だが、これだけは言えた。「この先生は信頼できる」

 私は、これまで、障害そのものをみるのではなくその障害を持っている目の前の人の生活をみて援助するのだ、と心に刻みながら現場に立ち続けてきた。そして、この時、なぜだかその思いを目の前にいる先生に重ね合わせた。きっと「病をみるのではなく人をみる」と考えている人なのではないか。

 その期待は私の質問に対する先生の態度によって確信へと変わっていく。

 私の関心は、この手術(術式)と入院が自分の生活にどれだけの影響(支障)を与えるかにあった。だから、「いつ頃退院できそうか」とか「車は運転できる?」とか「自転車に乗れる?」とか、今ではなく未来に向いた質問ばかりしていた。少しお試し行動も入っていたのかもしれない。
 でも大事なことである。今契約している仕事にも影響はあるしキャンセルしなきゃならない。家族にも迷惑をかけるし、いっぱい「あきらめないといけないこと」がある。その一大事に立ち向かうために、明確に答えが欲しいのだ。いや、明確とは言わずも、考えて自分で判断できる材料が欲しかったのだと思う。

 おそらく一般的な答えはこうだ。
 「今は手術のことだけ考えて、将来のことはその後考えましょう」

 だが、私の先生は違った。
 容易に断言できる類のことではないにもかかわらず、一つひとつの質問に対して一般的な経過と予後と私の場合のそれを予測とともに説明してくれたのだ。患者である私の質問に寄り添い続け、そして、「今もそうですけどこれから先も、こうして気になることは納得いくまで聞いてくれたらいいんですよ」と締めくくった。
 私の胸の内に合った猜疑心や緊張や物分かりの良い患者でいなければ!という思考が解けていくのが分かった。

 「説明と同意」ではなく「質問と納得」

 これは私が駆け出しの精神科ソーシャルワーカーの頃に、大先輩が発した言葉だ。医療関係者だけが治療を行うのではなく患者にも治療に加わってもらう。そのために、治療計画を説明し患者に同意を得る、というのがそのころ主流となりつつあった医療の姿だった。
 だが、その大先輩は違った。「説明と同意では、対等な関係とは言えない。対等な関係で治療を進めるには、患者が質問し患者が納得して治療を受ける必要がある」と言い切った。にわかには信じられない考えだった。医療の知識のない患者さんが質問なんてできるんだろうか?と心の中で疑っていた。そして、30数年経ち、自分が患者になってみてやっとその意味が理解できた。

 患者である私が、私の気になることを素直に質問すればいいのだ。医学的知識とか手術の術式とか治療方法とか、そんなことはどうでもいい。私の関心事に寄り添ってほしい、寄り添ってくれますか?と目の前の先生に伝えればいいだけなのだ。

 事実、私の目の前にいる先生は、私のメッセージを受け取り、私の話す関心事を遮るでもなくあいまいにするでもなく、ただ私の目を見てしっかり聞いて、そして先生なりの答えを私に説明してくれる人だった。

 ここで、後日、妻に聞いた話を少し挟む。
 「良かったぁ、この先生で、って思ったよ」と病院に駆けつけ最初に先生に会った時の感想を妻が語った。「ちょっと病院のうわさも気になって…。どんな先生が出てくるんかなって思いながら病院向かってて。あかんって思ったら転院かなと思ってたんやけど」と続けた。そして、「それ(転院先を探す労力)を考えなくて良くて、ストレスを回避できたことは良かったなぁ」と回顧した。
 説明なんて10分にも満たないはず。一瞬とも言える出会いで、目の前の妻に安心感を与えられる先生は、いったいどんな修行を積んでオーラをまとったんだろう?と、同じ対人援助職としての関心が湧いた。

 もう少し話がそれる。
 昨今、ググるとかAIとか、素人でも検索すれば大抵の医療知識は得られる。病院の口コミを見て様々な憶測を巡らせることも簡単だ。インターネットの世界にある一般的な知識は医師のそれよりもはるかに正確で膨大な量になるかもしれない。AIが治療するなんて未来もすぐそこまで来ているかもしれない。
 でも、AIではできないことがある。それは、一般的なことではなく、私の場合は?ということが知りたい患者に対応できないということだ。患者の心情や背景も汲んだ上で「上田さんの場合は…」とAIに説明できるだろうか。
そして、私なら医師である前に人として接してもらいたいと願う。医師も私と同じく生活者であり、その経験があるから目の前の人の痛みを解わかり、そして私も信頼できるのだと思う。

 さらにそれる(笑)。
 これも私が駆け出しの精神科ソーシャルワーカーの頃の話だが、精神科病院に強制的に入院させられた患者さんに「私は(私だけは)あなたの味方ですよ」と伝え、理解してもらい信頼してもらうことに躍起になっていたことがある。支援するには相手の信頼を得る必要があるからだ。精神科病院という特殊な環境の中にあっても、私だけは福祉職であり常に患者さんの側に立つ存在なのだという自負もあった。
 だが、すぐに患者さんの信頼を得られるはずもなく、長らく話をしてもらうことすら叶わなかったことが多かった。「じゃあ、退院させて」と言われても、私は「それは先生と相談して…」としか言えない。そんな無力な目の前の男をどう信頼せよというのだ、という目で彼らは睨みつけてくる。私は目を逸らすしかなかった。

 今なら、そんなの当然のことだとわかる。患者さんにとっては、私も自分を強制的に入院させた奴らの一味でしかない。たとえ保護室入室のその瞬間に居合わせていなかったとしても、あとから顔を出して名乗ったとしても、患者さんの側から見ればみんな同じ、「敵」なのだ。
 何と無謀なことをしていたのかと思うが、それでも向き合うしかなく、その場から逃げ出さなかったことがせめてもの救いだった。あきらめることなく、何度拒否されても、その場に向かい、どうしたら信頼できる人だと思ってもらえるのかを考えて、実践して、反省して、考え直して、実践するの繰り返しだった。
 そうしてなんとなく身につけたことがコレ。

 名前で呼ぶ。
 目を見て話す(聞く)。
 彼(彼女)の話を聴く。
 話を遮らない。
 目の前の人の思いに寄り添う。

 「上田さんの場合は、…ですね」「うん、うん。そうですね。そこは確かに気になりますよね」「いつとははっきり言えないですけど、上田さんの場合は、…になるかな」「今は突然のことで緊張したり分からないこともあると思います。だから、気になることはこうして話してください」
 この踵骨骨折というけがを負い救急病院で偶然出会った先生に、「どうしたら信頼できる人だと思ってもらえるのか」という問いに対する私のなんとなくの答えを、「それでいいんだ」と肯定してもらえた気がした。

 この先生に任せよう。いや、この先生と一緒にこの困難を乗り越えよう。

 こうして私は、手術を受けること、入院することを決意した。

 

 さて、覚悟していたつもりの入院生活は、想像以上の不自由さが待っていた。人としての尊厳に関わることもたくさんあったし、当たり前の生活についてもたくさん考えさせられることになった。退院するには、ものすごくエネルギーがいることもわかった。
 そんな入院生活編は、また別の機会に。(つづく)

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