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イメージ上の「自分」と、本当の「自分」

私は根っからのインドア派で、何よりも家にいる時間が好きな引きこもりである。
と長年思い込んでいたが、実際は少し違うかもしれない、ということに今更ながら気がついた。

私はたぶん、少し思い込みの強い性格だ。
小学生のとき、「文系・理系」という概念をなんとなく知り、「自分は間違いなく文系だ」と思って以降ずっと、理系科目が苦手である。その概念を知った瞬間から、「自分は文系だ」というアイデンティティを自分で作り上げていたからだ。

同時に、「自分は文系なのだから、本を読むことは好きだけど運動は苦手だ」とも思った。文系であることと運動が苦手なことはイコールにはならないはずだが、当時10歳にも満たなかった自分のイメージはそうだった。それ以来、運動が苦手な自分は外へ出るのも好きではない、と思っていたのである。
(当時は「読書より面白いものはない」と思って生きていたような子どもだったから、それ以外への興味が少なかったことも要因だろうが……。しかしこれもまた、激しい「思い込み」の1つであっただろう。)

実際、運動は決して得意ではない。好きなスポーツは?という質問には、「ない」と答えることがほとんどだ。
しかしよく考えてみれば、卓球の授業はなんだか楽しかったような記憶があるし、友達や家族とバトミントンで遊んだりすることは好きだった。
平泳ぎすらできず水泳の時間は本当に嫌いだったが、持久走では運動部の友人より良い記録を出したこともある。(大層悔しがる友人を見て、かなり嬉しかった記憶が今でもある。)

得意不得意はかなり差があるが、別に体を動かすこと自体が嫌いな訳ではなかったのかもしれない、と思う。

最近は、外出することは面倒だと思いつつも、それ以上になんとなく外へ出たいという気持ちが強く、ふらりと近所を歩き回ってみることもある。以前の自分なら考えられなかったことだ。

これまでは「運動が嫌いな自分が自ら進んで散歩に行く」ことが、「解釈違い」だったのである。これまで自分で作り上げてきてしまった、自分自身に対する勝手なイメージがあり、それに反することが自分で受け入れられなかったのかもしれない。
自分自身に対する思い込みが強く、自分で自分の本質をよくみようとしていなかった。自分の可能性を自分で潰すような思考の中で生きていた気がする。

それに気がつけたとき、以前よりも少しだけ「自分」がみえてきた。
私が思っていた「自分」と、実際の「自分」にはズレがある。ここ数年で特に、いろんな場面で感じることが増えてきた。
そして、これまで自分の作った枠の中で、自分でつけた枷に制限されていた「自分」が、少し自由になれた気がする。
今はまだ、ほんの少しだけだけれど。

確かに私はインドア派だが、外へ行くことはきっと嫌いじゃない。
友達と遊びに行くことは好きだし、一人で買い物に行くことも好きだ。行きたいイベントなんかがあれば、すぐに行動することも多い。
ただ体力がなくてすぐ疲れてしまいはするし、出掛けた先も屋内であることは多いが。しかし別に、ずっと家に居続けることが好きな訳でもないと気づいた。

もちろん家が一番落ち着きはするが、1ヶ月ほど一歩も外へ出なかった時は心身ともに不調続きだった。単に不健康な生活を送っていたというのもあるが、それでいいと思い込んでいた「自分」だったと思う。
しかし、よく考えてみれば自分は健康になりたかったのである。それを自覚して以来、多少は外へ出ようという意識を持つようになった。
そして、自分は外が嫌いではないことを知れた。

散歩を習慣化したい、と思うようになったのも最近だ。健康になりたいから、という理由もあるし、単にぶらりと外を歩くことが意外と楽しいと知れたから、という理由もある。

しかし私は怠惰な性質もかなり強く、「少し外を歩くためだけに出掛ける準備をする」ということが面倒で仕方ないとも思ってしまう。加えて、外が寒そうだったり、自分がちょっと疲れていたりすれば尚更おっくうになる。だから結局、まあいいかとだらけてばかりで、習慣化はできていない。

ただ時には、無性に外へ出たくなることもある。そのとき、面倒くささに負けず行動できるのは、「自分は散歩が好きかもしれない」という意識を持つようになったからだろう。外へ出たい気持ちが、面倒くささを上回っているな、と判断したら散歩に行けるのだ。

これも1つの、「自分に対する思い込み」かもしれない。
しかし、以前よりは自分にとって良い「思い込み」であると感じる。

実際のところ、「本当の自分」なんてよくわからない。それでも、少しずつでも自分に対する偏見に近い思い込みを減らしたり、イメージと違う自分でも受け入れられるようになれば、「自由な自分」には近づいていける。そんな気がしている。