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子どもを成長させるには、褒めないことが大切だと思う

モテようとしていないイケオジがいちばんモテるように、褒めようとしないやつがいちばん人を「褒められる」のかもしれない。

ただ「すごい!」と思ったから「すごい!」と言う。「つまらない」と思ったから「つまらない」と言う。「ウケる」と思ったから「ウケる」と言い笑う。

ただ誰かが何かをしてきた・していることに対して、自らの内に沸き起こった感情に正しく気づきそれをムリせず自分を繕わずに、ありのまま表現する。これが一番大切なんじゃないか?

それは「子どもは褒めたら伸びるらしいからいっぱい褒めよう」として褒めることとは違う。褒めようなんて全く思ってないのに、ただ相手とのやり取りの中で生まれた自分のありのままの感情を表現しただけなのに、結果的に褒めてしまっていた。ということだ。それが最強の「褒め」なんじゃないか?

子どもを育てることにおいて「褒めること」が大事だと世間一般に言われている。「子どもを褒めることは大事だよねー」てな感じで。ほんとうにそうだろうか?

ほとんどそうじゃない。全ては否定しない。大部分は否定する。なぜなら子どもは「褒めようして褒める演技をしている大人の演技に気づく」から。褒める行為も最初のうちは効果があるけど、やりすぎると効果は逓減してくるんよな。収入の増加による幸福度の増加率の話に似てる。ある一定の年収を超えると幸福度はそれ以上上がらない。

「〜してがんばってるねえ」「〜してえらいねえ、すごいねえ」ふと、こうした声がけを機械的かつ無意識にしてしまっていることに気がつく。そんなこといちいち気にしてたら生活なんてできないけど、たまに「この声がけって本当に効果あるんだっけ?」と振り返ることは、中長期的にたいせつなことなんじゃないだろうか?


ぼくは勉強ができた。そのことで親に特段褒められたという記憶はないが(覚えている限りでは)、学校で「すげー」「頭いいー」「さすがだなー」とか先生や友だちにチヤホヤされた記憶は強い。だから「あ、おれって頭良いんだ」とか思ってしまっていた。ただ知識量を測るだけのゲームでハイスコアを出しただけのことで。

その後なにが起きるか?「勉強をして、テストで良い点を取ると、周りが褒めてくるから、勉強する」つまり「褒めてくれる周りの人間がいなかったら勉強しなくなる」んだ。(一緒に勉強する隣の人がいるから勉強するってのもあんだけど)

褒めてくれる人いないのかー、じゃあもうやらなくていいやーとなるのは大変もったいない。勉強が役に立つとかどうとかじゃない。そんなものは結果論だ(個人的な意見では)。だって「なにかを知ること、好奇心が満たされる喜び」を味わえないんだから。

褒めてくれる人がいなくても、好奇心を満たす喜びを知っていれば勉強し続けるだろうし、そういう奴が友だちにいたら影響を受けて勉強するかもしれない。

「褒める」ことの目的が「褒める相手のある行為(勉強や運動や趣味)が続くようにすること」だとするなら、別に手段は「褒める」に限らなくていい。逆に言えば「褒める」以外の手段を持っていないと「褒める」に依存してしまう。

そうなっては「誰かを褒め続けて得られる結果や状態」と「叱り続けて得られるそれ」は同じになるかもしれない。本末転倒。


自分が何かを続けてきたのだとしたら「なんで続いてきたのか」「なにが続けさせてきたのか」を振り返ってみるといい。他の誰かについても聞き出せたらグッドだ。

じゃあねー

()「点数が良くて褒めてくれるから、おれは頭が良いんだ」と「テストの点数」という指標が「頭の良さ」の全てだと勘違いしてしまう。

マジあざす!!!!!!! からあげ食べて良い記事書く!!!!!!