見出し画像

子供のお世話は学級委員のお兄ちゃんに頼むと良い

幼稚園の時の記憶は少ない。

仲良くしていた幼馴染の男の子がいて、その子の家でドラえもんの映画を見た。プラバンにワギャンの絵を書いて、焼いて硬くしてからキーホルダーを作った。幼稚園に持っていったお弁当はストーブの上で温めた。運動会で大玉を転がした。ヤドカリを飼った。どれもこれも断片的に浮かんではすぐに消える記憶だ。


少ない記憶の中でも、兄が川崎病という奇病で入院した時の記憶は少し色濃く覚えている。

確か40度以上の高熱が出たので母親が病院に泊まることになったのだ。とはいえ、当代随一を誇るママっ子を発揮していた僕が一人でお留守番を出来る訳がない。その時のピンチヒッターとして、はるばる山形からお世話にきてくれたのが母の妹にあたる叔母さんだった。

その時の叔母さんの状況は詳しく聞いていないが、いくら家族のためだとは言え、数日間のヘルプを実現させるスケジュール調整はすごく難しかっただろう。大人になった今だからこそ分かる。

僕はそのヒーローのような立場で参上し、家族の誰もが頭が上がらないであろう存在の叔母さんにひたすらワガママを言った。

やれ幼稚園に行きたくないだの、やれ靴下が違うだの、やれ"たらこスパゲティ"は食べたくないだの。叔母さんから与えられるモノ、言葉、すべてに反抗していた。たらこスパゲティは確かその時初めて食べたと記憶している。味がどうだったとかは覚えていない。今はたらこスパゲティは好物の一つだ。

もしかすると、当時から本心は美味しかったのかもしれない。しかし、母さんの作った料理ではないたらこスパゲティに対し、何としても反抗しようと粗を探していたのかもしれない。「食べ物のくせにツブツブしてるなんて生意気だな」と。「噛んだら良いのか飲み込めば良いのかどっちなんだ?お前はどう生きたいんだ?」と。「母さんはなぜいないんだ?それともツブツブは母さんなのか?いや違うな!」と。

とにかく、目の前に母さんがいないことが腹立たしかったのだ。

僕のワガママっぷりは母さんも叔母さんも予想していないことだった。

僕は母から褒められることを生きがいにしていたので、母の評価では「素直で良い子」だったはずだ。叔母さんとしてはその「素直で良い子」という評価を聞いていたのに、蓋を開けてみたらやることなすことすべて手当たり次第に反抗するクソ生意気なガキだった訳で、話が違うじゃないかと怒り心頭だっただろう。しかし、叔母さんの方も姉の子供だからって遠慮するような性格ではなく、家の中は声を荒げるおばさんとギャン泣きする僕が共鳴してカオス状態だったことを覚えている。

その後、叔母さんが東京にくることはなかったが、こちらから母の帰省を兼ねて山形の方へ遊びに行くことは何度かあった。

僕が小学校の高学年の頃だったか、蔵王の御釜観光に出かけたことがある。叔母さんの家族と僕の家族の合同旅行だった。その頃には叔母さんの方も幼稚園に通う子供が二人いて、どちらもあちこち走り回る元気なワンパク小僧という種族で、パンチの加減が分からないやんちゃ属性持ちだった。

僕はその旅行の間、ほぼすべての時間をやんちゃ従兄弟たちの世話(サンドバック)に費やした。

別に幼稚園の時に迷惑をかけたから、その罪滅ぼしに世話をした訳ではない。当時の僕は学級委員も務める優等生だったので、

「小さい子の世話をすること」は「善い行い」であり、それを率先して行えば 「たくさん褒められる」 という、図式がすぐに浮かび上がった。

あいも変わらず褒められることがモチベーションだった僕は、自らやんちゃ従兄弟の相手をした、という訳だ。

気をつけていたことと言えば、数分おきに繰り出される全力パンチを、いかに金玉に直撃させないか、という事だけだった。運動が好きな小学校高学年ならば、あの激痛を体験している子も多いだろう。僕もその一人だった。

幼稚園児とは言え、全力パンチが金玉に直撃したら蔵王の御釜観光を止めて蔵王温泉で癒してもらわなくては割りが合わない。

お昼はどこかの食事処の大きい和室で食べて、長休憩タイムになったことを覚えている。大人たちはリラックスモードに入っていた。しかし、やんちゃな子供にリラックスモードなんて機能は搭載していない。子供にあるのはオンかオフのスイッチだけだ。二人の従兄弟のターゲットは相変わらず僕だった。さすがに疲れは出てきているので、少しだけ世話を交代して欲しいという欲望が生まれた。

そのツテはある。なぜなら僕には三つ年上の兄がいるからだ。何事にも形から入り、作り笑顔がオートで常時発動し、弟のことを「〇〇さん」と名前にさん付けするクセ兄だ。ちなみに僕は兄が嫌いじゃない。当時はまぁまぁのお兄ちゃん子で、よく仕草を真似したり、兄の所持品に興味津々で部屋に侵入したことも何度もあった。

その兄に助けを求めようと大人集団を覗き見ると、大人に混じってオート笑顔全開で談笑していた。仮にも中学生ならば、大人の中に一人だけ混じった時に違和感を出すべきだ。僕は大人空間に溶け込んでいるエセ中学生のクセ兄に助けを求めることを諦めて、従兄弟の相手を再開した。

遊び場は別の和室で貸し切り状態だった。

僕のやることなすことツボにハマってくれたみたいで、ケタケタと声をあげながらはじける笑顔に僕も嬉しくなった。

なんやかんやで僕も子供が好きで楽しんでいたのだ。

腰が砕けるほど馬になったし、青あざができるほど悪役にもなったし、靴下に穴が開くほど畳の上を追いかけ回した。

ちなみに僕の名前には「直」という文字が入っている。

従兄弟たちは僕を見上げ

「直くん直くん、次は何するの?」

と、キラキラした目で僕に問う。
これがまた可愛いのだ。

そうして思いついたのが、和室に置いてあった座椅子を後ろから猛スピードで押してあげる座椅子トロッコ遊びだった。

これが1番従兄弟たちにハマった。椅子にも畳にもよくないので決して真似してほしくはないのだが、アンコールの数がダントツだった。

「直くん直くん、今のもう1回やって!」

と、僕を何度もそそのかす。

言ってみれば、この座椅子トロッコはクソ重たい雑巾掛けをノンストップで繰り返しているのと同じ構造の運動だ。すでにお馬さんで砕けた僕の腰骨は、まるで挽きたての蕎麦粉のようにサラッサラに粉砕されていたことだろう。

そんなこんなで旅行は終わった。

僕は目的の品である「ありがとう」や「よくやったね」をしこたま頂いて満足だったのだが、叔母さんからポチ袋をそっと手渡された。その中にはなんと驚くべきことに5千円も入っていた。

この時はあまりの大金に訳がわからず母と叔母さんの顔を何度も見返した。当時5000円と言えばハイパーヨーヨーの最高クラスであるステルスレイダーが買える値段だ。僕の周りにも誰も持っている奴はいなくて、その辺の小学生が絶対に手が届かないほどの金額。それが5000円だ。
自分はそんな大金をもらうようなことをしていない。疲れたけど自分もしっかり楽しんでいたから。

理由もわからず困惑したいたのだが母に
「もらっておきなさい」
と言われ、僕はぎこちなくお礼を言って受け取った。ちらっと目の端に映ったオート作り笑顔の兄の口元が引き吊っていた気がするが、それは気のせいだったことにする。

そして山形から帰る日、僕は自分が思っていたよりすごいことをしたのだと気付く。

最初はあんなに暴力パンチばっかで、正直なところワガママな悪ガキというイメージだった従兄弟がわんわんと泣きじゃくっている。

「直くん直くん」と僕の名前をずっと連呼して、ハッキリと誰がみても分かるように、僕との別れを嫌がっている。出会った時もワガママで別れの時も相変わらずワガママを叫んでいる。同じワガママな印象なのに、なぜか胸が熱くなった。

そんなに楽しんでくれたのか。

どうやら僕は別れを嫌がるほど楽しませたらしい。これはただのベビーシッター代ではなかったのだ。「私たち親を楽させてくれてありがとうね」だけではなく、「あの子達に楽しい思い出を作ってくれてありがとうね」が入っていたのだ。
確かにそれなら5000円という値段も納得だ。親になった今ならめちゃくちゃ理解できる。

ありがとう従兄弟たち。もう、あれから山形行ってないから君たちは覚えてないと思うけどね。

僕はその次の年から山形に帰っていない。母だけは帰省して従兄弟たちは会うたびに「直くんは来てないの?」と問い詰められたらしい。
そして、ついには母のあだ名が直くんママになった。

そして、もう10年以上の時が経つ。
従兄弟たちが直くんを求めることはすぐになくなった。
しかし、彼らはまだ母のことを直くんママと呼んでいる。なんだかむず痒い気持ちになる。
もう直くんの顔も声も覚えていないだろうに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?