書評=ガート・ビースタ(上野正道、藤井佳世、中村(新井)清二訳)『民主主義を学習する 教育・生涯学習・シティズンシップ』勁草書房、2014年。
キャリア教育や学び直しが昨今喧伝されていますし、学び直しや、生涯学習は人間が人間らしくなっていくためには、必要な契機と考えていますから、その内実を精査することが僕は必要だと考えています。
そうした新しい教育の在り方を根本的に考え直していきたいときに、まず紐解きたいのがガート・ビースタ(上野正道、藤井佳世、中村(新井)清二訳)『民主主義を学習する 教育・生涯学習・シティズンシップ』(勁草書房、2014年)ではないでしょうか。
「民主主義の学習とは、政治における主体化である。学校や社会でいかに民主主義を学んでいくのか、理論的・歴史的・政策的に考察する」本書は、欧州の公民教育を素材に「民主主義を取り戻す」方途さぐる一魅力的な試みです。
公教育としての「シティズンシップ教育」の現状は「社会化」を中心とする限定的な意義に留まっている点を著者は批判します。
要は、社会の要求する人間に個人を収斂していくからです。ひな形に人間を合わせることがシティズンシップと同義ではないことは言うまでもありません。
社会化とは「既存の社会的・政治的な秩序の再生産に関わる学校の教育の役割」であり。「既存の秩序に対する個人の適応を強調する」ことです。今日なされているシティズンシップ教育・政策は、学習を個人の能力へ還元する歪な個人主義化に他ならいとの指摘です。
こうしたいびつな現状に対して、本来の主体化とは「民主的なシティズンシップを個人が獲得する既存のアイデンティティとしてだけでなく、未来に向けて根本的に開かれた目下進行中のプロセスとして考えること」といい、ここから、民主主義の教育を日常生活の実践プロセスからの再構築を試みていきます。
現状のシティズンシップ教育を批判的に検討するなかで、「民主主義を学習する」シティズンシップ教育を、複数性と差異のなかで一人の人間が政治的な主体であることを獲得とするものとして措定し、その過程に終わり/完成はないと著者は結びます。
私たちが本当に考えなければならないのは、「なにのために学ぶのか」という点ではないでしょうか。
哲学者のプラトンの言葉に耳を傾ければ、「無理に強いられた学習というものは、何ひとつ魂のなかに残りはしない」(藤沢令夫訳『国家(上)』岩波文庫、1979年)といったところでしょうか。
今日から本格的な夏休みです。
自分を鍛えていくための「学びの夏」になってほしいと思います。
いうまでもありませんが、僕も学び直し・鍛え直しの夏にしてまいります。