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暮らしと学問 33 解剖台上のミシンと傘の偶然の出会いは美しいのか?

(はじめに)セントラル・パークではやぶさを見かけることは、まずはありえませんが、あったりもします。そして師走に咲くはずがないひまわりが咲いてしまうこともあったりもしました。ひょっとすると世界は、考えすぎたり、あるいは考え不足で見落とされている「解剖台上のミシンと傘の偶然の出会い」の美しさに満ちあふれているのかも知れません。

村上春樹さんの異色のエッセイ集

 僕は作家の村上春樹さんのファンのひとりですが、村上春樹さんの数あるエッセイ集のなかでも異色なのが『村上ラヂオ』なんじゃないのかなと勝手に想像しています。

 本書は女性誌……という表現をしてしまうこと自体が「おっさん」なのかもしれませんが……『anan』に連載されたものです。

だいたい20歳前後の若い女の人じゃないかと思うんだけど、そういう人々がいったいどんな読み物を求めているかーーあるいはそもそも読み物なんていうものを求めているのかどうかーーなんて、僕にはほとんど検討もつかないし(残念ながら僕のまわりにはそういう年齢層に属する人は存在しない)、じゃああれこれ考えないで、なんでもいいから自分に興味のあることだけを好きなように書こうと思って、書きました」というもので、やっぱり、ちょっとだけ珍しいですよね。
(出典)村上春樹『村上ラヂオ』新潮文庫、平成十五年、212頁。

 村上春樹さんのエッセイ種の定番といえば、安西水丸さんとのコラボレーションが定番ですが(『村上朝日堂』シリーズ)、本書は版画家・大橋歩さんが伴奏者として登場しています。

ファンゆえの大緊張の仕事が始まったのでした」。

 素朴で暖かみのあるの大橋歩さんの銅版画が可愛いらしくも美しくあり、村上春樹さんのエッセイを立体的に燻蒸させているといっても、大げさではないのかも知れません。

自分に興味のあることをほんとうにあれこれ考えているのだろうか?

 しかし、物書きの端くれとして常々思うことがひとつあります。

 それは、「じゃああれこれ考えないで、なんでもいいから自分に興味のあることだけを好きなように書こうと思って、書きました」という難しさということです。

 要するに「自分に興味のあること」を「あれこれ考えないで」書くことの困難さといえば正確でしょうか……。「自分の興味あること」に関しては、人は「あれこれ考えない」ことは不可能で、どちらかと言えば、「あれこれ考えてしまう」のが常だからと考えているからです。要するに興味のあることに関しては饒舌になりがちということがその消息を裏付けているのではないでしょうか。

 その意味では、「自分に興味のあること」を普段とはちょっと異なる形で「あれこれ考えないで」そのまま捉えてしまうということが、考え方を鍛え直したり、あるいは、見落としていたものの見方を発見できるようになるのではないかと、考えさせられてしまいました。あるいは、「自分に興味のあること」については知っているつもりで実は全然しらないこともあるのではないかとも考えさせられています

 僕はお酒が大好きなのですが、お菓子系のおつまみとして常用しているのが「柿ピー」です。たしかに「自分に興味のあること」のひとつですが、具体的に注目してみれば、まったくその詳しいことがらを知ってはいません

 だとすれば、「自分に興味のあること」は「あれこれ考えている」わけではないのかも知れません

 世の中に永久運動は存在しない、というのは物理学の一般常識だけれど、半永久運動というか、「永久運動みたいなもの」は、けっこうある。たとえば、柿ピーを食べること。
 柿ピーのことは知ってますよね? ぴりっと辛い柿の種と、ふっくらと甘い香りのあるピーナッツが混じっていて、それをうまく配分し、組み合わせながら食べていく。誰が考えたのか知らないけれど、よく思いついたよね。ちょっと普通では考えつかないとりあわせだ。考えついた人にノーベル平和賞をあげたいとまでは言わないけど(たとえ言っても相手にしてくれないだろうけど)、卓越したアイデアだと思う。

(出典)村上春樹「柿ピー問題の根は深い」、村上春樹『村上ラヂオ』新潮文庫、平成十五年、42頁。

セントラルパークのはやぶさ、あるいは、師走のひまわり

 このあいだ、朝の早い時間にセントラル・パークをジョギングしていたら、貯水池の金網の上に一羽のはやぶさを見かけた。はやぶさなんて動物園の檻の中でしか見たことがなかったので、とてもびっくりした。それも山のなかじゃなくて、ニューヨークのど真ん中だから、思わず目をごしごとしとこすってしまった。でもそれはどう見てもはやぶさだった。間違いない。僕はしばらく立ち止まって、そのつやつやとした精悍な羽と、クールでワイルドな瞳にじっと見とれていた。なんて美しいんだろうと思った。
(出典)村上春樹「セントラル・パークのはやぶさ」、村上春樹『村上ラヂオ』新潮文庫、平成十五年、166頁。


 そこで先日、あれこれ考えていないことをあれこれと考えてみたり、あれこれ考えていることをあらためて考えないようにしたりするなかで、ちょっとした驚き、あるいは発見というものがありました

 村上春樹さんはこのエッセイ集のなかでそのミスマッチのような出来事を紹介しておりました。セントラル・パークとはやぶさが結びつくなどとは普段ありえないわけですが、そういう驚きや発見というものは実にあるものなんですね。

 「解剖台上のミシンと傘の偶然の出会いは美しいのか」と問われれば、「美しい」と答えるほかありません。

 たしかに、セントラル・パークではやぶさを見かけることほど、わたしたちが普段そのように把握している、あるいは、まあ、だいたいそういうものだと理解している日常生活理解とかけ離れたものはありません。

 しかし、実はそうした、つまり「解剖台上のミシンと傘の偶然の出会いは美しいのか」というような美しさというものは、わたしたちが見落としているだけで、実際にはたくさん存在するのかも知れません。

 先日、夜勤が終わってからの師走の早朝のことです。

 まだ薄靄が濃厚にただよう讃岐の平原で、この季節にまずは見かけることのないものを見かけてしまいました。

 そう、それはひまわりです。

 たしかに同じ位置に、7月の頃、群生しておりましたが、8月のはじめには刈り取られてしまい、野菜の作付けにその場所は利用されていたのでしたが、同じ場所を見かけると、ひまわりがふたたび咲いているではありませんか。

 村上春樹さんにとってのセントラル・パークのはやぶさは、僕にとっての師走のひまわりというところでしょうか。

 まあ、あまりありえないことでしょうが、私たちの日常生活には、私たちが考えすぎたばかりに見落としてしまったことや、考えなさすぎたせいで気づかなかったことが実にたくさん存在するのかも知れません。


氏家法雄/独立研究者(組織神学/宗教学)。最近、地域再生の仕事にデビューしました。