見出し画像

介護現場で考えるハイデッガーの「死への先駆性」という言葉の意義

金曜日から今日まで、仕事がたてつづき、SNSの投稿もままならない状況でしたが、今朝、一般質問を議会事務局へ送付しました。

6月議会では、行政のまちづくり・ひとづくりについて質問いたしますので、宜しくお願いします。

さて、介護の仕事をしていると…そしてまあ、まあ、向いていないナーと想うこともしばしばありながらも、すべてやりきっていくしかないという自覚ですが…やはり「老い」とか「死」について考えざるを得ません。

ドイツの哲学者ハイデッガーは、人間の現存在現存在とは簡単に言えば、自分自身を人間として理解している人間のありよう)を分析するなかで、人間存在の特徴を「死への先駆性」という言葉で浮かび上がらせています。

人間が自分自身の可能性を省察するのであれば、己の死について考えざるを得ないという話で、確かに他の動物との違いは、死について自ら考えることができるのが人間の人間らしさなのかもしれません。

いずれ確実に死ぬのが必然である以上、その運命を自覚的に受け入れることで初めて、自分自身の人生を捉えなすことができるという指摘です。

ただし、そのことを自覚せずに生きている「だけ」の人間をダス・マン(Das Man)と呼び、大切なことを後回しにして、時間を潰しているだけの、みずからの人間放棄のあり方として批判しています。

ここに公共性だの社会だのが関わってくると、まあ、ややこしい話になるので、「もう、お腹いっぱいです」なんて言われてしまいそうですが、そういうことを誰かが精緻に考察していかない限り、人間の人間らしさとは「なにか」とか他者と協同して生きていくことが崩壊してしまう「可能性」が見え隠れしてしまうので、まあ、それはそれで考察すべきことなんですが、

それでも、生活者として何もしなくていいやという話へと修練するのでもないとすれば、やはり、「生活は同じことを繰り返す」のではなく、同じことを繰り返しているように自分がそう思い込んでいるとエポケーしながら、生活を鍛え直すことができれば、今日の朝食も人生において1回切りの「出来事」へと転換し、明日の朝食も、昨日の朝食と同じメニューであったとしても、それとは異なる1回きりの唯一の「出来事」へと切り替わるんじゃないのかなあと考えたりしています。

そんなことを介護の現場で考えさせられたりするのですが、まあ、いかがでしょうか。


この記事が参加している募集

氏家法雄/独立研究者(組織神学/宗教学)。最近、地域再生の仕事にデビューしました。