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コーポレートガバナンスのことを考えるとなぜ旧約聖書を読むことになってしまうのか(まだメモ)

ざっくりした考えていることを人に話す前に書き下したもの。
まだ、まとまっている話ではない。
宗教から考えるのはウェーバーのアプローチで、主体の解釈から行くのはフーコーのアプローチなので、両方は違うアプローチだけど、なんか頭の中で一つにしたいという試み。

要約

コーポレートガバナンスの背景にある一つの大きな前提として、会社の責任は経営者に問うことができる、という考え方がある。
責任を問うのは株主だったり、従業員だったりするが、この構造を可能にする元型はどこにあるのだろうか。
おそらく、その元型を遡ると、「神の責任」を追求する旧約聖書の『ヨブ記』に行き当たることになる。
『ヨブ記』で提起された問いは、万能であるはずの神が不完全な世界をつくるのはなぜか?という問いであり、これは解くことが難しい問いとして現在にも残されている。
キリスト教は、これに対して、一定の答えを出した。それは「神の責任」を段階的に「人間の責任」へと読み替えていく作業だった。これをフーコーは説明していたのではないか。その成果の上に資本主義が成立しているだろう。そして、資本主義は株式会社を生み出し、その統治の現在の形がコーポレートガバナンスになる。
コーポレートガバナンスが陥っている難しさは「人間の責任」の集合である「法人の責任」が、かつてキリストの贖罪によって逃れたはずの「神の責任」という主題を再び呼び起こしてしまうからではないか。
これを解くためには、この2500年から3000年の短い期間の思考の流れを踏まえつつも、場合によってはさらなる過去まで遡り別の可能性を探索する必要があるだろう。

会社の責任者は経営者だろうか

コーポレートガバナンスは、日本語で言うと企業統治のこと。企業を統治して欲しいのは会社の所有者である株主で、その付託を受けた経営者が正しい行動を取るかが企業統治の基本だと考えられている。この当たり前のような前提は本当に正しいだろうか。
私は、「何者かの責任を遡及して考えていく」有り様を最初に生み出したのは、神の責任を追求した旧約聖書のヨブが最初だったのではないか、と思っているが、これを語る前に、そもそも責任を負う主体について集中して検討しているフーコーの考え方を確認してから旧約聖書の検討に入りたい。

そもそも主体とは何か

フーコーは主体という言葉にこだわっている人だった。主体というのは簡単に言えば「私」のこと。私が私であると感じ、私が認識している私の欲望に基づいて自分自身を「○○が好きな自分」としていく。一見すると良いことのように見えるこの行動には、ある意味では自分を自分で支配していくような特殊な権力関係があると考えられる。
この関係に気づかないと、どこまで行っても「自由になりたい」→「私の欲望を確認する」→「欲望を教え導く社会関係の中に深く入り込んでいく」→「どこか自由でないと感じる」→(最初に戻る)、みたいな良くないループが完成するのではという懸念を持っていた。(だいぶ意訳しています。)

主体の歴史 フーコーの『性の歴史』

複雑な性格を持つ主体の発生史を検討したのがフーコーの『性の歴史』という四巻本。いつどこで主体は現れたのか?主体は最初から欲望をコントロールするものだったのか?いつ誰によって、現代の性格に近い主体が開発されたのか?を調べていく本。
四巻目『性の歴史 IV 肉の告白』では、聖アウグスティヌスが、主体をつくる最後の仕上げをした人物として取り上げられる。聖アウグスティヌスによって、意志と無意志の問題としてリビドー(性的な欲望)を分析する・解釈する在り方が導入された。これによって夫婦間の性行為を法的観点から考えることが可能になる。この時に、夫婦は、それぞれの関係性に向き合うのではなくて、自分と自分の欲望と向き合って、自分の欲望を無限に解釈する存在になった、という。
一方、古代世界では、性行為は発作的なものと考えられていて、その量が多いか少ないかと言う論点だけがあった。その意味を解釈する在り方はなかったのだから、これは大きな転換点だった。
主体は歴史的に作り上げられていく。聖アウグスティヌスに至るまでの経緯を3段階でフーコーは説明している。①古代ギリシャ(『快楽の活用』)から②ローマ帝政期の紀元後の最初の二世紀(『自己への配慮』)そして、③キリスト教の最初の数世紀(『肉の告白』)という三つの流れで時代を追っていく。
主体という概念は、①当初は快楽をいかに活用し、抑制するべきか、というところから②自己を気遣う人として生きる考え方へ成長し、③最後は自己の欲望の解釈を細部にまで調べ上げるような在り方になっていった、という説明だ。

古代ギリシャ以前の主体は?

では、これ以前、古代ギリシャ以前はどうだったのだろうか。
ここから先は、フーコーは語っていない。
なので、個人的に想像でしかないが、おそらく旧約聖書の時代に遡る展開がきっとフーコーが生きていたらあったのだろう、とぼくは思っている。
そもそもギリシャの哲学者は、なぜ「哲学」を始めなくてはいけなかったのだろうか。「知恵」や「正しさ」あるいはソクラテスのように「無知の自覚」が大切になった背景があるはず。
そこには、数百年にわたる人類が直面した未曾有の「宗教危機」があったのではないだろうか。ソクラテスがなぜ「宗教裁判」にかけられているのか、とこの話は繋がっていると思っている。
当時の宗教的価値観の基本は、アフロディーテが愛を外から人の心の中に掻き立てる、といった「原因を人に求めない」在り方だったのではないかと思える。『イリアス』の物語も天上のドラマが地上のドラマの原因として描かれている。この感覚は共通した文化だったはずだ。
余談になるけど、ソクラテスは明確にその文化に対して、裁判を通して挑戦している。しかも、それをダイモーンからの直接の語りかけの名の下に行っている。(厄介なことにダイモーンのメッセージをある意味では疑うような行動を通して、真実に気づくという構造がある。)ソクラテスが提起しているのは、当時の社会の統治構造への挑戦。つまりはガバナンスへの異議申し立てに当たる。この観点から当時の統治者の価値観で考えるとソクラテスは当然刑死に値するとも思える。(別にソクラテスを論難したい訳ではないのだけど。あと、この話は全然別のことなのでここでは深追いしない。)

ガバナンスの瞬間 『ヨブ記』が出現した

長く続く宗教危機を生み出したのは旧約聖書に『ヨブ記』を掲載した一群の人たちだろう。
度重なるユダヤの民の危機に際して、ユダヤの宗教者たちはヤハウェの力を絶大で完全なものとして理解することで乗り越えようとした。その結果として、深刻な問題に直面していた。

すなわち、全能の神に造られた人間がなぜ神に背く罪を犯せるのか、との問題と、人間が罪を犯すという事実には神は責任はないのか、もしそこに神の責任があるのであれば神はどのように責任を取るのか、という問題である。

ヘブライ思想における神義論的問いの発展―旧約聖書から中間時代にかけて

この問題をヨブ記の作者たちは深く掘り下げた。
行いが誰よりも正しかったヨブは、なぜか神によって家族も財産も奪われ、病に冒され、不幸にあえぐことになる。
ヨブは、神に対して、神の正義を問いただす。
このような仕打ちをする神、あなたが間違っているのではないか?
神は全能のはずなのに、なぜ世界をこのようにつくっているのか。
ユング『ヨブへの答え』では、このヨブの問いかけが、深刻な問いとして同時代に受け止められたのではないか、と書いている。この宗教危機は、神の悪の側面を明らかにしてしまった。そのゆえに、知恵としての母なる神を善性として分離するなどの様々な対応策がとられることになる。この余波が、当時の様々な周辺の宗教や哲学的思考の萌芽になったのではないだろうか。(ユングの話にも魅力的な余談があって、ヨブが神を問いつつも神の力の誇示に従ったときに、実はこの瞬間に人は神を超えてしまったのではないかという。のちに神はそのことに気づいて自分も人間になりたい、と願うようになる。その受肉の結果がキリストである、という面白い話が展開される。それは1950年の聖母マリアの被昇天の教義の公式化に繋がり、再び神は人間になろうとしているのだというユングの不気味な予言につながるのだけど、これも余談なのでここではあんまり書けない。)
ここで、ヨブの問いによって生み出されたのは「神の責任」という奇妙な概念なのではないだろうか。
そして、これがガバナンスの出現の瞬間でもある。神がこの世界を限りない力で作り出したのだとすると、責任は当然、神にある。
ここに答えることが、これ以降の思想的な命題になって、いまだこの革命の余波を乗り越えられていないのではないか、と思う。
神に責任があることを認めると、人は神へ責任をとってもらいたいと必然的に思ってしまうが、これは叶わないことが明確だからだ。
この矛盾に対して、人はどうしたのか。

矛盾を解消するために人は神を取り込んだ

フーコーが問題にしていた主体化した人間・欲望を解釈する人間とはなんだったのか。ユングの解釈と読み合わせて考えると、「神の責任」をキリストを通じて「人の責任」として飲み込んだことで主体化された人間が生み出されたのではないだろうか。
責任をとってもらうことのできない神に耐えることができない人は、その神を自分の身体に取り込んで神を一部とすることで、自分のせいにすることで耐え難さを、自分の痛み、コントロール可能な痛みに変えてしまったのではないか。「これが私の身体、私の血」。
ところが、この解決策は資本主義や国家を準備したけれど、資本主義が生み出した株式会社や政府といった制度によって部分的に無効になり始めている。

ガバナンスが旧約の神を甦らせる

法人は、人ではないが人権を持ち、人のように法的な主体として行動ができる。法人は代表としての経営者を持つことができるが、経営者の責任と法人の責任は完全に同じものではない。
法人そのものや、国家そのものの責任を問うことは法律上は可能だけれど、それは「神の責任」にも似ていて、受肉したものではない。
法人と対峙している私たち、または法人の中にいる私たちは、ヨブのような存在に気づけばなっている。
責任者を探して、責任を取らせることで、この問題が解決するとは思えない。
ヨブが気づいたことと、ソクラテスが気づいたことは同じもので、私たちは、「人ならざるもの」によって支配されている。それが天上のものであろうと、地上のものであろうと、それは厳然としてある。
そして、私たちは、その何者かに対して、「あなたの罪は何か」と問いただすことができる。これはガバナンスの瞬間だ。

そうすると、私たちはヨブの問いかけを受け取ることになる。
あなたたちが問いかけている何者かは、あなたたちを超える力のある者なのだろうか?と。民衆の代表者や、法人の代表者は、本当に羊たちの群れを率いる力ある者なのだろうか?

こうして話は元に戻っていってしまう。
ここを解くためには、この2500年から3000年の短い期間の思考の流れを踏まえつつも、場合によってはさらなる過去まで遡り別の可能性を探索する必要があるだろう。


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