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アメリカ田舎の企業で気ままな研究者生活

水原 司
アメリカ企業研究者

はじめに

 とうもろこしやじゃがいも畑に囲まれた田舎の、アメリカの企業に研究者として勤めている。
 アメリカにポスドクとして来たのは8年半前、その後、3度の大規模な引っ越しをしながら東海岸の町を転々とし、今の場所に行き着いた。アメリカの田舎も悪くない。家も広いし庭も広い。銃声も聞こえないし、空気もうまい(たまに肥料臭いけど)。新鮮な野菜も手に入るし自家栽培だってできる。気がつくと、野菜の育て方や芝の手入れの仕方、家のリノベーションのYouTubeを見ている。アメリカ人のおじさん達と対して変わらない、おおらかでゆっくりとしたストレスの少ない生活をしている。なかなかなスローライフである。
 そんな私もアメリカに来た当初は、日本に帰って教授(PI)になるつもりだった。その選択肢以外考えた事もなかった

経歴
2004−2008 神戸学院大学薬学部
2008−2013 京都大学大学院薬学研究科
2013−2015 University of Massachusetts−Amherst: ポスドク
2015−2016 PartiKula LLC (Biotech startup) 研究職
2016−2020 PPG industries 研究職
2020−現在 Adhesives Research inc 研究職

アメリカへ

 薬学部の学生時代にドラッグデリバリーシステム(DDS)に強い関心を持った。副作用の多い薬を必要な場所にだけ作用されられると言う技術はかなり魅力的にうつった。そんな時に、当時の教授に「有機化学をマスターすればどんな物質でも作れる、その技術があれば全く新しいDDSの開発もできる(のかもしれない)」という、素敵な言葉の誘惑に流され、あえて有機化学を大学院で学ぶことにした(教授はただ同じフィールドに残ってほしかっただけ?)。大学院では有機化学をメインに研究しながら、医薬品化学とケミカルバイオロジーを必死に学んだ。有機化学に自身をつけ、ついに待ちに待った世界、DDSの本場であるアメリカへポスドクとして行った。 

 ボストンから西へ2時間程度車で行ったとこにある田舎町アマースト。学校があるだけの小さな街。殆ど日本人がいないから寂しくもあったが、英語しか話さないため一気に英語力が向上し、自信もついた。学校と自宅の往復ばかりなのは日本にいた頃と変わらないが、家に帰る時間は大幅に早くなった。5時帰宅の外国人たちに流されるものだ。成果さえ出せば早く帰っても良い空気がいい

 ポスドクの2年目くらいからアメリカ企業で働きたいと考えるようになった(企業に行くことにしたきっかけは後に記載)。確かに当時はアカデミアに未練はあったが、企業の必要とするものを理解することで、昨今削減されつつある国の研究費ではなく、企業の研究費に頼る研究をするいい機会になる。またその後アカデミア戻って来たければ戻ればいいし、その場合も企業経験はプラスになると。また、アメリカ企業の初期の待遇はアカデミアのものと比べて良いため、若いうちの経済的な基盤などを固めるのに非常に有効だとも思った。

 アメリカに残った理由は、日本企業との待遇の違いと、あとは移民弁護士によると、日本人PhDは永住権がかなり取りやすいと聞き、取れなかったら弁護士費用も返金すると言うし、だめなら日本に帰ればいいやという気持ちで申請して、無事に取れたから。また、アメリカ生活のほうが仕事以外の時間が取りやすく、楽しく充実していたとも感じた。ビールも安くてうまいし、ヨーロッパのサッカーが週末の朝から昼過ぎに見られる。夜中に眠い目を擦って見ないで済む。

就職、転職活動(0−1年の企業経験)

 就職活動はかなり困難だった、田舎の大学に1、2年前に海外から来たポスドクに、これといったネットワークもなく、ほとんどアプライしても跳ね返されるだけ。英語が喋れることはなんのアドバンテージにもならないし、アメリカには自分と似た経歴をー持った人間がごまんといる。アメリカだけでなく世界からくるPhDの学生、もしくはポスドクとの競争になる。半年くらいアプライし続けても数回電話面接があっただけだった。違いを作ったのは、結局はネットワーク。アプライしたスタートアップのCo-founderの教授がポスドク先の大学に講演に来たため、話をさせてもらい印象をつけておいたから(だと思う)。その後、会社の面接を受け、そこに就職することになった。場所はマイアミ(郊外、北に一時間程度)、しかもスタートアップ、DDS開発、当時の私にはとても魅力的な言葉が並ぶキャリアに心を踊らされた。ただ、他に選択があったわけではないのだが、今思えば、会社の将来性の見極めが甘かったと言わざるを得ない。コアな技術に短期的、長期的な現実性もあるのか。この会社は1年後には閉鎖された。ただ、振り返るととてもいい経験だった。マイアミになんてそうそう住めるもんじゃないし、この頃からアメ車キャデラックに乗り始めた。

 その後、転職活動をするもたった一年の就業経験は大した差にならない。このあたりから、段々とうまく行かない焦りを感じ始める。一年前と同じように沢山アプライしても何も起きない。数ヶ月後、ポスドク時代の友人のサポートもあり(ここでもネットワークが効いた)、ピッツバーグ郊外の塗料製造開発のPPGに就職した。ただ、正直言って迷いはあった。有機化学の勉強をしたのは、もともとはDDSの研究をしたかったからであって、塗料は全く興味がなかった。ただ、他に当てもないし、せっかくもらったチャンスなのでやってみることにした。会社では、車や船舶、家などに使われる塗料の開発を行ったが、有機化学以上に高分子化学や材料科学の知識を必要とした。正直言われるまでは、こんなに世の中は塗料にまみれているなんて考えもしなかった。周りを見渡すと生活の殆どは塗料でコーティングされることで、生活を豊かにしている。1つの分野に縛られ、大きな視点で全体を見れなかった昔に比べ、様々な企業がどう社会に貢献し生活の質を変えているのかを学ぶいいきっかけになった。過去に、薬以外の研究をしている人に、「マイナスをゼロにする貢献(例えば薬で病気を治す)より、ゼロをプラスにする(生活を楽に豊かにする)研究のほうが楽しい」といわれたことを思い出した。これまでに学んで考えてこなかったことを重点的に学ぶことで、結果論ではあるが知識の幅を大幅にアップグレードすることができた。また、アメリカの大企業の雰囲気を経験できたのはよかった。

コロナ禍の転職(就業経験5年後)

 4年が経ったコロナ禍真っ只中、見知らぬ人からメッセージが届く。「このポジションに興味ないか」、現職の接着剤や粘着テープの製造会社だった。この会社はディスプレイやソーラーパネルなどの電子機器や糖尿病患者向けのグルコースモニタリングデバイスやウイルス検査に使われるテストストリップなどの医療機器に利用されるテープの開発や、薬の貼付剤(DDS)プラットフォーム開発も行っている。この募集は、電子機器のポジションだった。更に幅の広い興味範囲外の分野の知識を得られる上に、将来的には医療機器やDDSの開発にも携われる。大学院やポスドクだけでなく前職で学んだこともすべて活かせると思った。何より現職では、大手の企業では使えないほどの高額な材料を使えるのがいい。顧客は大手のテープを使ってもうまく行かない場合にこの会社に来る。もしその問題点を解決すれば、高くても買ってくれる。そんな、最先端なものを開発できる。

 アプライした結果、難なくオファーをもらえた。ここではとうとう経験年数が生きたと思う。今後はこの片田舎(ボルチモアの北1時間程度)の会社で更に知識を増やしつつ、徐々に医療の世界に戻っていくつもりだ。

 また、余談ではあるが、コロナ禍での転職はなかなかいいものだった。どこにも旅行にいけない中で引っ越しすることは、まるで長期の旅行に行っている気分にもなった。

アメリカ企業に進路変更したきっかけ

 若い頃に何度か、「どうして教授になりたいのか」と聞かれたことがある。答えは決まって、「最先端の研究がしたいし、教育もしたい」。この具体性のない返答は大半の人には納得してもらえた。ただ、当時の自分が具体的にどうして教授になりたいのか、本当に理由があったのか今はわからない。アメリカに来た後に、とある人に同じ質問をされ、いつも通り答えたところ、「企業でだって最先端な仕事はできるし、研究も教育もしたいなんてのはだめだ、研究と教育は本来別々のプロによってなされるべきだ」と言われた。考えたこともない視点だったし、ツッコミを入れられ面食らった。正直、企業の経験を振り返っても、最先端なものを開発しないと売れやしない事は明らかであるし、企業もアカデミアと競争をして新しいものを生み出そうとしている。ものを売ってお金を生み出し更に研究をすすめるか、アイデアを出してお金(研究費)を手に入れるかの違いであるし、スタートアップはもう、ほぼ大学の形態に近い。お金の出どころが違うようなものだ。

 また、振り返ると教育にはそんなに興味がなかったと思う。要は、教授になりたいという答えの言い訳であった。教育もしたいといえば誰も突っ込んでこなかったから言っていただけで、具体的に考えていなかった。例えば、大学院生ポスドク時代はいつも初年度の学生がいて、事細かくやり方や考え方、時にはかなり初級のことも教えないといけない。個人的にはこの毎年繰り返す作業は煩わしいとさえ感じてた。また、毎年自分より経験の多い先輩はいなくなっていく。結局所属の教授にしか頼れなくなり、一人の考え方に左右されやすくなる。一方で企業ではそういった基本的な事は教えなくても良い。多くが経験を持ってから来ているし、高いお金を払って雇ってきているので優秀で、研究がスムーズに進む。しかも周りには20年、30年の経験を持ったレジェンド達がたくさんいて、助け合って研究をしている。彼らの中には(あくまで個人的意見だが)PIになろうと思えば全然なれるくらい頭が切れ、研究に情熱的で、アイデアが豊富な人がいる。そして何人も。そんな彼らと共同で研究するのである、楽しくないわけがない。

アメリカ田舎暮らしはオススメ

 サンフランシスコやボストンなどに憧れがないかと言えば、嘘になる。都会は非常にアクティブで多くの会社が立ち並び、転職の機会も見つけやすい。一方で田舎の転職先は都会ほど多くなく、時には引っ越しも必要となるためハードルが高い。ただ、そんな都会に、2から4倍と言われる家賃や住宅ローンの価値があるのか。ポスドク時代は都会との家賃の差額で車が買えた。都会では必要ないと言われればごもっともだが、お金を他に使う選択肢が増えるという点ではより自由度が高い。

 また、田舎は渋滞もない。仕事が終われば10分以内に家に着くからオンオフの切り替えがしやすく、家族との時間がより多く取れるなど、時間の自由度も高い。アメリカの企業では残業もなく、土日はフリーなのでなおさらである。とある友人が、「仕事をし過ぎて家族との時間を取らなかった事を後悔する人はたくさんいるが、その逆はほとんどいない」と言っていた。その教訓を実践するなら田舎のほうがしやすい。

最後に

 なんとなくアメリカに来たわけでも、なんとなくアメリカに残ったわけでもない。日本に帰りたくないわけでもない。ただ、考えすぎず興味の赴くように選択をし、時には与えられた場所で踏ん張ってきた。未来を予想して初志貫徹するもいいけど、次どこで何をしてるのかわからないのもなかなか楽しい。もちろん、そんな自由をくれる家族には感謝しないといけない。

 また、ポスドク時代の留学では日本学術振興会に支援頂いた。ワシントンDCでの懇親会で振興会の責任者の方に「ぜひアメリカに残ってください」と言われたのも背中を押された一つのきっかけとなっています。



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