2024.03.25

昨日、帰宅後充電が切れたスマホを復活させるとラインの通知が52件。アプリのアイコンの通知を示す赤いバッジはすぐ抹消するように心がけている私にとっては異様な状況だった。

特に何の心のざわつきもなく「一体全体なんやろか」おもてラインを開いてみると、騒がしいのはお母さんの妹とのグループラインだった。朝5時半にお父さんが入院している病院から電話があって、容態が悪くなったのでICUに行きましたとのこと。肺に水が溜まっていて苦しいのと心臓も弱っているらしい。お母さんが病院に駆けつけてお父さんと面会したが、辛いから会話もしないし「もうあかん」って言って目をつぶってしまったらしい。

看護師の妹(大きい医療センターに勤めたが夜勤が辛くて1年もせず辞めて今は皮膚科に勤めている)が「挿管とかはしてない?」「敗血症じゃないだけましやな」「酸素いってるだけでICUは考えにくいけど」「主治医は何科?」「心不全とかなっててベースが悪いのはわかってるけどそれにしても不安な先生やなあ」「アンプタしたら火葬して骨を保管しなあかんのや」などと一般人にはわからない医療用語を多用して見解を示す。母と私は何を言っているかスムーズに理解できないのでイライラする。私ができることは、
池上彰が「いい質問ですねぇ」と言わんばかりのいい質問を時たま投げかけてあげて場を盛り上げることだけだ。

お母さんも弱っていて、今まで好き勝手不摂生をしていたお父さんが全て悪いのに「放置してたお母さんにも責任があるのはわかってるんや」などと呟く。お父さんは私が物心ついたときからだから20年以上糖尿病を患っていて、ここ数年は週に3回も透析をしているのにコカコーラを愛飲することは決してやめない人間だった。「コーラ飲むと胸がすーっとするんや」と言って喉から胸にかけて撫で下ろし、にやっと微笑する。私達家族3人はそれをいつも白い目で見ていた。


お父さんのことは昔から大嫌いだった。
大好きで長年続けていたエレクトーンを「いつになったら辞めるんや?」と真剣なまなざしで言ってきた。
日曜日の朝ごはんを終えた後、お父さんと私と妹がだらだらとテレビを観ていたとき。お父さんが財布の中身を数えてため息をつき「はぁ、お前らが産まれてからなんも金なくなってもうたんや。」と言った。でも私がそんな言葉を親に言われ悲しみと驚きでショックを受けたほんの僅かな瞬間に、妹は「そんなんこっちに言われても困るんやけど。親が計画立ててから産めや。うざいんやけど。」と言い放った。お父さんはしゅんとして落ち込んでいた。性格で言うとお母さんと私、お父さんと妹が似ているのでお父さんは私には何かと説教したりするのに自分に似ている妹にはめっぽう弱いのだ。


お父さんは整体師をしていたから、私達は勉強で肩が凝るとお父さんに肩もみをしてもらっていた。私はいつも「お願いがあるんやけど…肩揉んでくれん?」とお願いしていた。お父さんはいつでも「おう」と答えてすごい力で容赦なくツボを刺激する。
「ここ痛いやろ、これはな、潰さなあかんわ」
頭のてっぺんのつむじを押されて「痛い痛い痛い痛い!」と叫べば、
「そんな痛いん脳みそ腐ってもうてるわ!」
髪の生え際の真ん中のツボを押されて「痛い痛い痛い痛い!」と叫べば、
「そんな痛いん顔が崩れてもうてるわ!」
娘によくそんなこと言えるなと思うが、確かに私はどのツボを押しても猛烈に痛がるほど身体がおかしかった。



つづきはゆっくり書くよ


大嫌いな父親だと思っていたけど、死にそうになったらいい思い出ばかりがまるで走馬灯のように思い起こされる。

3才くらいの頃、お父さんにお風呂に入れてもらっていた。比較的まだ外は明るい夕方。日光が差し込むお風呂場の湯船でお父さんの上に座らされていた。肩から腕に掛けてしましまの緑の入れ墨と金のトランプのハートのキングのネックレスがかっこいいと思っていた。おしりにお父さんの陰毛が当たってちくちくして、同時に金玉が当たってぷよぷよした感触がうわっと蘇った。脳内の奥の方の片隅に眠っていた記憶の箱がゆっくり開いた。突如呼び起こされた記憶に驚いた。


2024.04.02
今は壊死した脚を切り落として膝下がない。だけど脚があってもどうせ歩く体力もないらしい。歩くどころか力が入らなくて声を出すのもままならないから会話もできない。お母さんが耳元でハキハキと「今は熱あるんか?」と聞くと「わからんのや」と振り絞ったガサガサの声で答えたあと、目を開けたままいびきをかいてそのまま眠ってしまう。それはもう心臓が弱っていて基本的な身体の体力がないから眠ることで体力を維持しているらしい。つまり生きるために眠っている。つまりもう時間の問題なのだ。脚を切断して痛みはなくなって、ほとんど常に眠ってしまう。私は、寝息を立てて眠っていたと思っていたら息をしていなかった、という安らかな死に方ができるのではないかと期待している。

お父さんはなんて幸せな人生だったんだろうと思う。ただ戦後間もないときに在日韓国人2世として生まれ育ち、家族の仲が悪く何十年も会っていない、死ぬ間際になっても誰にも連絡するなというほどの環境で幼少期を過ごした父は、きっと私には想像できないほどの苦労があっただろうと思う。腕から背面、太ももにかけて入っている入れ墨は、鎧のように父を守ってくれたのではないだろうか。
お母さんは、自分の母である私の祖母にお父さんの身体にでっかい入れ墨が入っていることを話してないらしい。私は先日、職場の人達に写真を見せちゃったというのに。私はお父さんがいわゆる在日で、結婚は2回目子供もいて、入れ墨だらけだけど恥だと思ったことが一度もない。誇りに思ってないけど嫌いだったけど何だか不思議な存在なのだ。

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