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書き続ける意味




「ものごとを書き続けるということは苦しみ続けるということ。」

大学3年生でとった文章の授業の先生はそんなことを仰っていた。

あのときは、期末課題を進めていた時期だった。小説、俳句、エッセイなど、形式は自由。一番馴染みがある小説にした。

課題自体はオンラインでアップロードするので、最後から1、2回目の授業は、zoomで先生に相談したり、グループを組んで学生同士での話し合いだった。
進捗の報告もあり、なんだかんだ最後まで先生とzoom越しに話していた。

後期は毎回短編の小説を一作品読み、話し合い、グループ発表をして、宿題に感想を書くという内容だった。自慢ではないが、毎回死ぬほど真剣に書いた。
読んだ作品がすべて心に何らかの形で響くもので、感想を書くよりも、文字を打つ手が勝手に動いたと表現した方が正しいのかもしれない。書いていて楽しかった。
それもあるが、あれらの作品を取り上げてくれた先生に、「この作品好きです」「この作品からこんなことを学びました」と伝えられたらいいなという気持ちもあった。

そういうこともあって、私の作品に対する熱意がありがたいことに伝わっていたようで、先生は何かと私を気にかけてくれた。

しかし、作品を受け、そこから書くのではなく、自分から「創作」するとなると、物凄く手こずってしまった。

課題なので、それなりに計画を立て、大筋のストーリーも頭の中で構築していた。昔みた夢のアレンジ。バス停、可憐な少女、優しい嘘。
書こうと決めた時間は画面の前で字を打っては消し、明るいうちから書きはじめ、真っ暗闇になるまで苦しみ続けた。
たった2000字ほどの小説なのだが、書いてるときは気が遠くなるほど長く感じた。
小説を書いている作家さんたちのことを思った。
創作をしながら、創作には向いていないなと感じた。

そんなことをやんわりと先生に伝えたら、先生は色んな方面から提案をしてくれた。もう2年前のことだから、正確には憶えていないが、こんな言葉をかけてくれた。

「例えば、小説の中であなたが殺人を起こしたとして、誰もあなたを責める人はいない。囚われずに書いて欲しい。」

確かに、その通りだった。
私は、はみ出さない場所にすっかり囚われていた。

どれだけ装っていても、自分が多少「はみ出ている」ことには気付いていた。そして、それを隠していた。
その不自由さが作品に少なからず現れていたのだろう。きっとどこか囚われた作品だった。

そして、小説の内容とは関係のないものが生まれた。軌道を走るために押し出された副産物。小説を書くために引き摺り出された心の嘆き。殴り書きでメモってあった。

(途切れた文字の後ろで青い棒線が点滅し、カフェ3階から夕日に照らされたビルを眺めながら、頭の中が割れそうになるくらい雑音で満ち溢れた。つけたイヤホンは無音だった。)

ーーー
太陽は登って、橙色でビルを塗った。
空を一匹の黒い鳥が飛び去った。
枯葉が一枚舞い降りた。
金魚は水槽の中で身を翻した。
どこかで一本の傘が忘れ去られた。

気が狂いそうだった。
自分が今、どこに立っているのかも分からなかった。

這い上がれと言われたが、僕は一歩も動けなかった。
周りを取り巻く全ての色鮮やかさが恐ろしかった。

ーーー




小説はなんとか無事に終わらせることができた。
オンラインで恐る恐るアップロードした日が、ちょうど先生の誕生日だったことを知ったのは、その後のことだった。

あなたの作品は何だか誕生日プレゼントのようだと、投稿欄の下にコメントをくださった。
そんなコメントを読んでいて思わず泣いてしまいそうになった。

明るい、楽しいとは全く無関係の作品だったと思う。むしろ、誕生日なら、もっと人生の幸福を願うような作品を送りたかった。
それでも、私が書いたのだと、プレゼントのようだと言ってくれた。
自分で選んで書いたものだから、救われるも何もないのだが、もっと別の大きな意味で救われた気がした。

「ものごとを書き続けるということは苦しみ続けるということ。」

苦しいはずなのに、どうして書き続けるのか。

書き続けることで、私は、置き去りにしてきたことを知ることができる。
苦しみ続けることで、私は私を忘れないでいてあげられる。

いつか、あの2000字の小説も載せられたらな。


2023.10.23 星期一

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