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マタニティマークを着けているのに存在感を消す妊婦

お陰様で妊娠7ヶ月に突入し、お腹もふっくらとしてきて、傍からみて「腹が小太りの人」もしくは「妊婦さんかな?」くらいには成長しました。どうも、未だに妊婦らしくないと言われる行動しかしない私です。


マタニティマークつけてる?

妊娠初期から何かあったときのためにマタニティマークは着けていましたが、今時の人たちはスマホの画面に釘付けで人様の鞄なんて見ちゃいない。私はつわりもほとんどなく、体調もすこぶる快適な妊婦だったので、特に恨めしいとは思わなかった。けれど、本当にツラい妊婦さんにとっては公共移動手段はとても苦行でしかないのではないだろうか?とこんな快適妊婦の私でさえ何度か思うことがあった。

昔よりは妊婦に優しい世の中にはなっていると思う。だけど、やはり、堂々とマタニティマークを見せびらかすのには少なからず抵抗感はある。

「妊婦様」と呼ばれるのは嫌だ。
「似非妊婦」って思われるの嫌だ。
みんな疲れている、座りたい、その気持ちがわかる。妊婦は外に出てくんな、って思われているんじゃないか。
そんな自虐めいた思いが沸いてくるのだ。思う必要なんて何一つないはずなのに。

なので電車に乗って席が空いてなかったらドア付近を確保する。席を譲れって言ってるような気がして、座席の前に立つことは出来ない。譲ってもらっていいはずなのに。そのためのマタニティマークなのに。


嬉しかったこと

一度だけ、快く席を譲ってもらったことがある。その日は引き継ぎのために本社に出社した日。引き継ぎに時間がかかり、自分の仕事が終わらず思ったよりも残業になってしまい、へとへとだった。ノートPCも持ち歩いており、荷物も重かった。残業したことにより案の定、帰宅ラッシュに巻き込まれてしまい、ドア付近を確保することも出来ず、お腹を圧迫されるのも怖かったので座席の前に立つことにした。

やはり誰も目の前に立つ人の鞄なんて見向きもしないため、マタニティマークに気付いてもらえず、「まぁしょうがない」と思っていた。しかし、二駅ほど過ぎた所で目の前に座っていたお姉さんが気付いてくれ、席を譲ってくれたのだ。お姉さんも仕事帰りで絶対に疲れているはずなのに。正直めちゃくちゃ疲れていたので、過剰なほどのお礼を言って有難く座らせてもらった。本来であれば当たり前のはずの優しさや気遣いがとても嬉しくて涙が出た。

私は今までマタニティマークに気付いてあげることが出来ていただろうか?快く席を譲ってあげることなんてしたことあっただろうか?そんな自問自答をするようになった。
当たり前のことを快く当たり前に出来るってなんて素晴らしいことなんだと感動した。


なんでもSNSのせいにする

でも、やっぱりマタニティマークには賛否両論あるのを知ってるから、SNS時代はそういうのが見えちゃうから、堂々とはできない。

「私、妊娠してるので、気を遣ってもらえませんか?」って見せびらかしてるような気持ちになってしまう。不妊治療してる人が見たらやはり嫌な気持ちになるのだろうか。「妊娠は病気じゃない」と普段通りの生活を要求するおじ様たちが見たら悪態つかれるんじゃないか。

私はきっとSNSに毒されてしまっている。世の中そんなに怖い人たちだらけじゃないことは知っているのに。「あぁ、もう私だけの命ではないんだな」と感じる。人間保育器としての役割を果たそうとしているんだ。自分の身を守るとか、そういう危機管理能力が人よりもかなり低かったはずなのに。自分の身を守らねば、腹に巣食うクリーチャーは守れない。なんとももどかしい。


守る人になりたい

世の中色んな人がいて、色んな意見があるからこそなんだろうけど、少なからず【守られるべき人】は守られる世の中であってほしい。妊婦だけじゃない、老人、子供、身体の不自由な人、【守られるべき人】は思っている以上に多い。そういう人たちが当たり前に優しくされる世界であってほしい。私は当たり前に【守られるべき人を守る人】になりたい。

スマホばかり見てしまうけれど、少し顔を上げたら助けを求めている人がいるかもしれない。ほんの少しの時間でいい。周りを見渡す時間を作ろう。見た目じゃ判断できない人もいるかもしれない。間違えていたとしても、その当たり前の優しさはきっと自分に返ってくると思うから、自己満だっていいじゃないか。謙遜する必要なんかなく「私は優しい人」でいいじゃないか。謙遜が日本人の美徳とされているけれど、謙遜と遠慮は違うし、行動するのとしないのとじゃ大違いだ。

私が身重じゃなくなって、守る側の人間になったら率先して行動しようと思った出来事だった。


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