見出し画像

よきことをなす人たちによる暴力・二次加害

 私は十年ほど前にサバイバーという考え方とであい、それ以来であったサバイバーの仲間たちとたくさんの話し合いを重ね、現在まで歩んできた。(…)
 サバイバーとは「生き残った人」という意味である。無力でかわいそうな「犠牲者」ではなく、過酷な暴力をさまざまな努力をして生きのびた人として、被害者の回復に役立つように被害者をとらえなおした言葉である。

マツウラマムコ『「二次被害」は終わらない—「支援者」による被害者への暴力—』/女性学年報第26号、2005年

(…)「被害者」とは被害経験のない「第三者」たちが暴力を受けた「私」に押し付けた立場である。暴力を受けた被害者がさらに暴力の責任まで押し付けられるということは、「第三者」は「第三者」であれば自動的に暴力の責任を免除されるということを示している。ならば、「第三者」が押し付けた暴力の責任を「第三者」にそっくりそのまま返すために「被害者」を引き受け、「被害者」という立場で思考しよう。(…)ポジショナリティである「被害者」とは、加害者や無意識の加害者である「第三者」に向かって語るときの「私」の覚悟である。

マツウラマムコ『「二次被害」は終わらない—「支援者」による被害者への暴力—』/女性学年報第26号、2005年

マツウラマムコ氏によるテキスト『「二次被害」は終わらない—「支援者」による被害者への暴力—』(女性学年報第26号、2005年)を中心に話を進めていきたいと思います。

上記引用より、みずから「性暴力サバイバー」を名乗るかたを、「性暴力サバイバーの◯◯さん」と呼んだりご紹介したりするのは時と場合により可であっても、「被害者の◯◯さん」はやはり「無し」だと感じました。
「被害者」「被害者の方」「被害を受けた◯◯さん」などの表現を、性暴力や二次加害を防ぐ一助になりたいと望み発言するときには避けられないことがありますが、あくまでカッコつきであり、あくまで私は「第三者」であると確認しながら代弁は避けるよう模索したいです。

と、申してすぐから、未熟ながら失礼いたします。

♢♢♢

2020年、弱者に対する援助、支援、福祉、教育などの「社会善」を掲げている団体や組織で発生したセクハラや性暴力が、相次いで明らかになりました。著名であり権威を持つNPO法人や社会福祉法人などの名前が上がり、衝撃を受けた人たちは少なくなかったとみられます。
同様の告発は続き、「ソーシャルグッド界隈の性暴力」「よきことをなす人たちによる性暴力」等呼ばれるようになりました。
「東京シューレ性暴力事件」もこれにふくまれます。【※脚注あり】

それはNPO法人 東京シューレによる宿泊型フリースクール事業において、利用者の子どもが、2000年3月から約一年間にわたり、成人スタッフから繰り返し性暴力を受けていたというたいへんな事件です。当時10代半ばだった被害者の方は、複雑性PTSDを発症し、大人になってから被害を自覚されました。2016年にスタッフと東京シューレを提訴し、2019年に裁判を和解で終えたのち再発防止を呼びかける報告会を開かれて、事件は新聞で報道されるにいたりました。和解にあたり東京シューレが再発防止に取組むことが条件とされましたが、2024年の現在まだ事件の再検証が求められているという心許ない進捗具合です。
事件は人里離れた山の中のログハウスで起きました。複数いるといわれる加害者は成人スタッフであり、被害者は保護者から離れた子どもたちでした。
児童性虐待でもあるこの性暴力は、大人—子ども、支援者—被支援者という上下関係を悪用したものといえます。

「ソーシャルグッド界隈の性暴力」「よきことをなす人たちによる性暴力」において、被害者に対する「二次加害」は苛烈なものでした。
それらに限らずさまざまな界隈の、さまざま人たちによる「二次加害」がSNSを通して多く見られるようになり、その深刻さや残酷さとともに「二次加害」という言葉も広まったとうかがえます。
「二次加害」によって命を失われたのではないかと思われる方もいらっしゃいました。

ここ数年で使われるようになったためか、「言葉は知っているけれど、何が『二次加害』にあたるのかよくわからない」との声があります。「なんでも二次加害になるのか」といった不平不満や揶揄も散見します。私自身もよくわからず、もっと理解したいと思い、あれこれ探しておりました。

ここでマツウラマムコ氏による「二次〝被害〟」の定義をご紹介したいと思います。
テキストが書かれた2005年の当時は、「被害者が二次被害を受けた」とはいっても、「加害者が二次加害を与えた」とはいわれず、表現のあり方からしても「暴力」の責任が一方的に被害者に押し付けられていたようです。
暴力の責任の所在および主語、目的語、述語などを意識しながら引用を読むと、「二次被害」と同時に「二次加害」をつかんでいけると思います。

 「二次被害」とは暴力の責任を被害者に負わせることや加害者を免罪することなどをいい、暴力と差別の被害をさらに大きくするような被害者への暴力だとここでは定義する

マツウラマムコ『「二次被害」は終わらない—「支援者」による被害者への暴力—』/女性学年報第26号、2005年

 (…)加害者は「暴力」という手段で被害者を支配しようとした。加害者は被害者が支配から逃れ、自由になることを望まない。(…)とすると被害者の回復を妨げ立ち直るのを遅らせるものは加害者側の立場で加害者の味方をするものだといえる。「二次被害」とは被害者の回復を邪魔するものなので、加害者側の立場で被害者に暴力をふるうものだといえる。したがって最初の暴力と区別するため「二次、、被害」というものの、「二次」であることは「二次被害」の加害者の責任をなんら軽くしない。「二次被害」の加害者は被害者への暴力の加害者であるということを、被害者も加害者ももっと認識してもよいはずだ。

マツウラマムコ『「二次被害」は終わらない—「支援者」による被害者への暴力—』/女性学年報第26号、2005年

そして、被害者でも加害者でもない人たちすべてが「第三者」であり、「第三者」は誰もが「二次被害」の加害者になりうると、マツウラ氏はいいます。この「加害者以外による被害者への暴力」は、視点によって「二次被害」にも「二次加害」にもなります。
「世間」も第三者であり、2005年の時点ではおそらく「二次加害」と表現しても通じず、「二次被害」と表現せざるを得なかったことも「二次加害」といえます。

さらにマツウラ氏は、「第三者」のうち、「支援者・援助者」「専門家」「研究者」をまとめて「支援者」としています。
そうして「支援者」に対する厳しい目が向けられます。

(…)なお以下では「支援者・援助者」「専門家」「研究者」をまとめて「支援者」と呼ぶ。それは「支援者・援助者」では「現場の経験」、「専門家」では「専門知識」、「研究者」では「研究結果」などと、それぞれを権威付ける根拠は異なるものの、これらの人たちが被害者に近づいてきて暴力をふるう立場であるということは同じだからである。

マツウラマムコ『「二次被害」は終わらない—「支援者」による被害者への暴力—』/女性学年報第26号、2005年

(…)「第三者」のなかでも支援者は積極的に近づき至近距離から暴力をふるえる立場にある。
 まず、支援とは何を指すのか考えてみよう。第一に、支援とは被害者の回復の役に立つものである。第二に、支援とは支援するために近づいてきた人によるもので、上下関係をはらむものであるといえる。
 (…)被害者を助けるとはつまり、暴力を受けた被害者の回復を手伝うということである。したがって、被害者の回復を助けないもの、被害者の回復の妨げになるものは支援とは呼べない。そのようなものは被害者を助けるものと被害者に期待させておきながら実際は被害者の回復を妨げるという点で、支援のふりをした支配であるといえる。

マツウラマムコ『「二次被害」は終わらない—「支援者」による被害者への暴力—』/女性学年報第26号、2005年

「支援者(支援者・援助者、専門家、研究者)」が「被害者に近づいてきて暴力をふるう立場」であるとか、「支援とは支援するために近づいてきた人によるもので、上下関係をはらむもの」というのは、理解しがたいと感じるかもしれません。
「支援を求めたのは、被害者のほうでしょう?」と一般的には解釈され、だから「支援者」から二次加害を受けたとしても、クライアントは自分自身を責めがちです。それこそが「上下関係」であるとマツウラ氏は指摘し、エミコヤマ氏(https://twitter.com/emigrl)もその指摘に着目します。

(…)元々友人だった同士で相手が困っている時に話を聞いたりすることを「支援」とは呼ばない(ただの友情だ)ように、対等な関係において困っている人を助けることは「支援」とは言わない、とマツウラ氏は指摘する。つまり性暴力やDVにおける「支援者」とは、はじめから「支援」が目的で、すなわち一方が他方を助けるという非対称な関係を作るために被害者に近づく人のことだ。そしてそうした「支援」は、簡単に「支配」に転化し得る。

DV被害者支援を志す人はマツウラマムコ著「『二次被害』は終わらない」に絶望せよ - macska dot org

性暴力を受けた被害者が、「支援者」に支援を求めたとき、その「支援者」の発言・行動・ふるまいが「被害者の回復を妨げ立ち直るのを遅らせた」ならば、それは「暴力」であると言い切ってよいと私には思われます。
繰り返しますが、支援を引き受けた「支援者」でありながら「クライアントの回復を妨げ立ち直るのを遅らせる」のは、権力勾配を考えればなおのこと、「暴力」や「加害」であると表現してもまったく大げさではないと思います。
そして、そのような「支援者による二次加害」を受けたたくさんのクライアントが、何も言わずに関係を断ち、泣き寝入りし、絶望しているものと想像します。支援者は、なぜクライアントが離れていったのか、懐疑も、想像もしないかもしれません。だって、支援者のほうが「強い」ですから。
クライアントは、個人情報も、被害という「弱み」の詳細も、一方的に支援者に知られています。支援者がクライアント本人や被害を分析し、ジャッジし、分類して名づけ、「ケース」として研究や講演や、商業出版で公に発表するのが見られます。あれらはクライアントや被害者本人の了解を得ているのでしょうか。いいかな? だめかな? と訊かれたところで、いやでもNOとはいいづらいと思いますが。クライアントも被害者も「弱い」のです。

しかしどうも、「被害者の支援を引き受けた支援者が、被害者(クライアント)を傷つけ、回復を妨げ立ち直るのを遅らせることがある」と想像がつかず、ぴんとせず、「そんなはずはない」とリアリティを持てないせいなのか、それともクライアントが「わきまえる」のがあたりまえとされているせいなのか、「被害者が加害者に向けるべき怒りを支援者に向け言いがかりをつけている」などと見なすことが、まだまだあるようです。
マツウラ氏による『「二次被害」は終わらない—「支援者」による被害者への暴力—』はそのタイトル通り、「支援者による被害者への暴力」について指摘し、論ずるものです。

 私はサバイバーと話し合っているうち、「支援者」と呼ばれる人たちに傷つけられた人がとても多いことに気づいた。その支援者のふるまいは加害者にそっくりであると思えることも多かった。
 DVや性暴力のことを知らない一般の人たちは支援者は被害者と一体であると思っている。だから被害者について知りたいと思うとき、支援者や研究者に話を聞く。なかでも民間の無償で取り組んでいる支援者は、行政機関での被害者への「二次被害」をも理解し、一番近くで被害者によりそっていると思われている。しかしサバイバーの一人として私は、無償または無償に近いにもかかわらず、自主的に被害者を支援しようとしている熱意の支援者でさえも被害者に「二次被害」を与えており、熱意があるほど支援者は被害者に「二次被害」を与えているということを受け入れたがらない傾向があると感じる。

マツウラマムコ『「二次被害」は終わらない—「支援者」による被害者への暴力—』/女性学年報第26号、2005年

「支援者」という「よきことをなす人」による性暴力事件がこれだけたくさん世に出ても、まだ、「支援者がクライアント(被害者)を傷つけ、回復を妨げ立ち直るのを遅らせることがある」と信じてもらえないのでしょうか。あるいは、そういうこと「も」あるとは認めても、「そういうこと」が「加害」であり「暴力」であり、避けられず生じてしまった場合は「回復」が目指されるべきものとは、認めてもらえないのでしょうか。みずから加害を与えたクライアントの「回復」に尽力しないどころか、無視したり、弁明を重ねたりする支援者がいても、「支援者として」問われることのないまま、「支援者として」活動を続けても問題ないとされるのでしょうか。ましてや、「人権問題やDV・性暴力加害/被害の権威として」講演に立っても世間は非難せず、加害を受けたクライアントが物申せば、クライアントのほうが非難されるのでしょうか。「被害者みんな」のために、「一人の被害者」が犠牲になってもよいのですか? といいますか、その「一人の被害者」の方は、「被害者みんな」が新たな二次加害を被らないためにもと、「被害を受けました」と声を上げ告発されているように私には見えます。

エミコヤマ氏は「支援者」の立場から、マツウラマムコ氏の『「二次被害」は終わらない—「支援者」による被害者への暴力—』を読まれ、テキスト:DV被害者支援を志す人はマツウラマムコ著「『二次被害』は終わらない」に絶望せよ - macska dot orgを書かれたようです。
エミコヤマ氏は、「マツウラ氏の論には救いがない」といい、以下のように述べます。

被害者支援を志す人は、全員この論文を読んで一度その「救いようのなさ」に打たれて絶望のどん底まで落ち込むべきだと思う。わたし自身を振り返っても、元サバイバーとして「自分なら優れた支援者になれる」と思い込んでシェルターに勤務し、そこで自分のフェミニスト的な「良心」の限界に気付き絶望したところから今の取り組みは出発している。支援者たちが「自分は被害者たちを助けたい」「被害者と対等の立場で支援している」というフェミニスト的な「良心」に絶望しなければ、かれらはいまこの分野で必要とされている制度改革を遅らせることしかできないのだ。

DV被害者支援を志す人はマツウラマムコ著「『二次被害』は終わらない」に絶望せよ - macska dot org

どうかそうしてほしいと思いました。
おそらくは何度も何度も救われず、絶望された「被害者」の方たちがいらっしゃるだろうと想像したとき、なおのことそう思います。

noteで「子ども若者分野のソーシャルワーカー」を名乗るみのたん氏は、2021年の4月、7月に「二次加害」について記事をアップされています。
サバイバーを踏みにじる「二次加害」の暴力|みのたん (note.com)
隠声7:ソーシャルグッド界隈に蔓延る二次加害(セカンドレイプ)|みのたん (note.com)
みのたん氏は「支援者」のお立場から、「ご自分と同じ支援者たち」が、「ソーシャルグッド界隈の性暴力による被害者」を責め、追い詰め、「二次加害」をなすのをとめたいと願い、記事をアップされたものと思います。
「具体的な、二次加害の例」が多く挙げられていて、まずはそれらの発言や行動を避けることが可能です。「何がどうして『二次加害』なのかよくわからないけれど、『二次加害の加害者』にはなりたくなかった」私にとってもたいへんありがたく、お世話になった記事です。

大手老舗フリースクール、業界のインターネットメディアNPO、社会福祉法人の大御所活動家……2020年以降、「社会的善(ソーシャルグッド)」のために活動しているはずの団体——それも無名ではなくかなり著名な権威的存在の——における性暴力事件が相次いでいる。

性暴力が赦されざることであることはもちろん、驚くべきことに、それらの団体や関係者の事後対応が、あまりに組織防衛的、自己保身的で二次加害(セカンドレイプ/セカンドハラスメント)が酷すぎることがさらに炎上を招く……というところまで共通している。

隠声7:ソーシャルグッド界隈に蔓延る二次加害(セカンドレイプ)|みのたん (note.com)

「よきことをなす人」から性暴力にあった被害者に、「よきことをなす人」たちが二次加害を与えている様子は、「『支援者』による被害者への暴力」の「入れ子」のように見えます。
私は「東京シューレ性暴力事件」の裁判原告の方のX(https://twitter.com/Zg2a4qB6NPnbG2e)をフォローしていますが、原告の方の状況はまさにこの「入れ子」とうかがえます。
この複雑な暴力について、原告の方は非常にていねいにわかりやすく説明してくださっています。
被害者に説明させるのは、すなわち暴力の責任を被害者に押し付けることになり、本来あってはならないことですが、引用させていただきます。

私がこれまで色んなサバイバーさんとお話をしてきて実感しているのは、「よきことをなす人たちの性暴力」の問題の特徴は加害者を「文句なしにひどい人」と片付けられないからこそ、被害者自身も、加害者の周囲の人達も、社会も、葛藤が生じ、被害者が声をあげるのが難しかったり、周りも被害者側に立てないという特徴があることです。
そのせいで、そもそも被害者と一緒に声をあげて下さるアクティブバイスタンダーが圧倒的に少ないということ、そして、そういう人がなかなか増えず、同じ人達がずっと声をあげつづけていて、みんな疲弊してきてしまうという問題がずっとあります。

被害者が声をあげる時にも、加害者が「よきこと」をなしてきた人であるからこそ、そこで助けられている人達のことも考えてしまい声をあげるのをためらってしまうという特徴があります。

加害者の周りの人達や同業者も、被害者の訴えを聞いた後も「あの人はこれまで多くの人を救ってきたのだから、その功績を考えると批判できない」とか「加害者は素晴らしい人なんだから、性加害なんて信じられない」とか「加害者の問題が公になれば、支援を受けてきた人達や業界全体が困るのだからなるべく騒ぎたくない」とかで、普段性暴力について問題視するまともな発言をしてきた人達にさえ、被害者の訴えなどなにごともなかったように振る舞われ続け、隠蔽されるという特有の苦しみがあります。

社会に「性暴力を加害」と理解してもらうことがまず難しく、隠蔽されやすい特徴があります。

🏳️‍⚧️原告@東京シューレOG 避難垢(@Zg2a4qB6NPnbG2e)さん / X (twitter.com) 
午後4:28 · 2024年3月21日
午後4:29 · 2024年3月21日
午後4:31 · 2024年3月21日
午後4:33 · 2024年3月21日
午後4:34 · 2024年3月21日
午後4:35 · 2024年3月21日

社会に「支援者による性暴力を加害」と理解してもらうことが難しいのと同じ理由で、「支援者による二次加害を加害」と理解してもらうのも難しいと感じます。

♢♢♢

私も、黙っていようとしゃべろうと、「被害者」の方たちを傷つけていないはずはないと思います。「あの方に、あれを言ってしまった」と具体的に人と言葉を思い出し、後悔することがあります。自分が辛いからと、よく思い出せないこともあります。私も、二次加害をふるう「第三者」の一人です。
ただ私は支援者ではないために、支援者の方たちに比べれば、「被害者」に対して与える影響が少ないといえるかもしれません。つまりは「支援者」の方たちのお気持ちやご苦労はわからないので、そんなやつにいわれたくないと、支援者の方たちに思われて当然かと思います。
それでも、「支援者」の方たちにも、支援者ではない「第三者」の方たちにも、「被害者」として語るマツウラマムコ氏や、「支援者」として語るエミコヤマ氏やみのたん氏のテキストに目を通していただけるなら、そして「東京シューレ性暴力事件」の裁判原告の方のX(https://twitter.com/Zg2a4qB6NPnbG2e)をフォローし知ろうとしていただけるなら、わが子の不登校を経験した一人の母親としても、たいへんありがたく存じます。


【※脚注】
フリースクールでの性被害、和解「居場所の安全守って」:朝日新聞デジタル (asahi.com)
フリースクールの子、性暴力から守れ 10代でスタッフによる被害、今も苦しむ30代女性:朝日新聞デジタル (asahi.com)
奥地氏、東京シューレ理事長退任 スタッフ性暴力問題で:朝日新聞デジタル (asahi.com)
「二次加害だ」批判された文科省イベント中止、有名フリースクールで起きた「性暴力事件」とは? - 弁護士ドットコム (bengo4.com)
有名フリースクールで発生した性暴力事件、「置き去り」にされた被害者が望む「検証」のあり方 - 弁護士ドットコム (bengo4.com)