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「二次被害」から、「二次加害」になったけれど

いじめやハラスメントや性暴力について、「加害者による、被害者に対する人権侵害」という「非」をスルーしたまま、被害者の「傷つき」や「苦しみ」に対してのみ、加害者が謝罪することは、「加害の矮小化」であり、「二次加害」にあたるという指摘は何度もされています。
「あなたを傷つけ、苦しませてしまったことを、お詫び申し上げます」だけとか、「あなたは傷ついたと感じたのですね。お詫びします」とか、それもそうなんですが、そうじゃないと感じます。

加害者のくせに被害者の感情に手をかけて、被害者の感情をなんとかしようとする前に、加害者自身の加害を認め、説明することが求められています。きっと。
被害(感情)ではなく、加害に言及してくださいよと。
「こっちの心配? とかする前に、自分のケツふけや!」です。
信頼できないと感じる相手から、感情にふれられるのは危険と不快を感じるもので、「侵害」にあたります。
「こっちを心配するふり(侵害)で、自分の非を誤魔化す? とかなんなの?」と、被害者はショックを受けるのみならず、混乱し、「ショックを受ける私のほうがおかしいの?」とすらなってもおかしくないと思います。

「加害」をすんなり認める人は珍しいといいますか、すんなり認めてくれたなら、「加害」とか「被害」とか、言い立てる前に事が収まるように思います。
あるいは、加害者は最初から「つけこんで」加害(人権侵害)をなすのです。
ですから「被害を訴える人」がいる場合、すでに「大事」なのだと思います。

いじめやハラスメントや性暴力の「被害」を訴える「被害者」がいるとき、同時に「加害者」がいます。そして「被害者」でも「加害者」でもない、「第三者」がいます。
不思議なくらいたくさんの「第三者」が、「加害者」とそっくりの、「被害(感情)にはふれるが、加害(人権侵害)にはふれない」ようにふるまいます。
たとえば学校で、決して「いじめ」と認めない先生もいるでしょう。「遊びですよ」「仲よくしたいのですよ」と言い張ります。「よい先生」は、「いじめられた(被害)と感じたんだね」「辛かったね」と、いじめられた子どもをケアします。しかし「よい先生」だからなのか、いじめた(加害)子どもや、いじめ(加害)についてはごにょごにょします。
同様のふるまいで「被害者」を追い詰める光景が、X(旧Twitter)ではたびたび見られます。
するともう、被害者の方たちは、「苦しい」「辛い」と吐露すれば誤解されると恐れられ、びくびくしながらか、言い訳しながらでないと「苦しい」「辛い」と言えなくなったり、できるだけ言わなかったり、もともと言わないようにされているとうかがえますが、さらに言わないようにする理由がそれになってしまい、かといって、まったく言わなければ「なかったこと」にされてしまうので、ときどきは言わなければと、言う理由もそれになってしまう等々と、葛藤と困難が尽きないように、私には見えます。

でも実は、これは、解決されるはずだったのかもしれません。
2005年、マツウラマムコ氏は次のように書かれています。

 「二次被害」は現在「被害者が二次被害を受ける」というように使われており、主語が被害者になっている。「二次被害」の加害者の責任を明確にするため「二次加害」と言い換えるべきである。「二次加害」といえば、例えば「支援者が二次加害を被害者にふるった」というふうに加害者側の責任を明確にして使える。

マツウラマムコ『「二次被害」は終わらない—「支援者」による被害者への暴力—』(『女性学年報』第26号、2005年)

なるほど、分かりやすいです。これなら「被害者の感じ方の問題」にされずに済むと思えます。
Youメッセージ/Iメッセージの話にも通じそうです。「あなたが辛い思いをしているとは、ごめんなさい」/「私が加害して申し訳ありません」は、異なります。

そして2024年の現在、「二次加害」という言葉は広く知られるようになりました。
しかし残念なことに、「二次加害」を用いてもなお、被害のうち感情という部分のみ注視され、それ以外の「人権侵害(加害と被害)」が矮小化されがちです。わざとなのかと疑いたくなる矮小化も繰り返されていると感じます。


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わざとなの? そんなはずはないから、そう思う私がおかしいの? と被害者が感じるとき、相手のほうがおかしいというか、いわゆるヒステリーや解離(? だからわざとも大小ふくまれますが、やはりヒステリーや解離?)にも寄っていたり、さらには被害者は一人なのに、加害側は集団(ヒステリーや解離?)で、ますます混乱したりもするように思います。