愛することと不安障害

『愛するということ』という本を読んだ。

数十年前の本だが、現在にも通じるものがある。人々は自分が愛されることばかり考えていて、他人を愛する努力をしていない、というものだ。

心に突き刺さった。自分にも当てはまることだったので反省した。

いや……反省というのは、少し違う。なんというか、わかった気がした。

僕は不安障害を抱えている。不安障害の正体は、人を愛せない障害なのではないか、と思った。

本書では、愛というものを次のように定義している。

愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。

不安になるのは、「他者から愛されるかどうか」が自分のなかで最優先になってしまい、そのことによって恐怖が生まれるからだ。

そのため、能動的な「愛する」という活動ができない。

しかし、それがわかったところでどうすればいいのか?

本書では、「愛することは技術である」とも述べられている。つまり、他者を愛するには努力を要する、という意味だ。

努力で、自分の障害が乗り越えられるだろうか?

わからない。

だが、生きることを選択しているかぎり、学ばなければならない技術だ。

具体的に「こうすればいい」という方法論はないが、努力の方向性は示されている。

愛を達成するための基本条件は、ナルシシズムの克服である。ナルシシズム傾向のつよい人は、自分の内に存在するものだけを現実として経験する。外界の現象はそれ自体では意味をもたず、自分にとって有益か危険かという観点からのみ経験されるのだ。ナルシシズムの反対の極にあるのが客観性である。これは、人間や事物をありのままに見て、その客観的なイメージを、自分の欲望と恐怖によってつくりあげたイメージと区別する能力である。

以前から、不安障害は一種のナルシズムだと思っていたので、「ナルシズムの克服」「客観性の獲得」という方向性は、間違っていないだろう。

そして、もうひとつ大切なのが、「信じる」ということだ。

愛することができるかどうかは、ナルシシズムや、母親や身内にたいする近親相姦的な固着から、どれくらい抜け出ているかによる。また、外の世界や自分自身との関係において生産的な方向性を育てる能力が、どの程度身についているかにもよる。この脱出、新たな誕生、覚醒の過程で、ある一つの資質が必要条件となる。それは「信じる」ということである。愛の技術の習練には、「信じる」ことの習練が必要なのである。
愛に関していえば、重要なのは自分自身の愛にたいする信念である。つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。

これらのヒントを意識していこう。

繰り返すが、障害を克服できるかどうかはわからない。しかし、やってみなければ始まらない。

生きているからには、始めなければならない。



サポートしていただけると、生きる力になります。