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字幕なしの映画から見えた、コミュニケーションの本質

アルフレッド・ヒッチコック監督の映画『鳥』を字幕なしで鑑賞した。実は日本語吹き替えだった、などというオチではなく、字幕版なのに字幕がなかった。

なぜこうなってしまったのか? 『鳥』をGoogle Playでレンタルしたからだ。レビュー欄を見ればわかるように、Google Playで配信されている『鳥』には字幕が表示されないという不具合がある。数年前からずっとこの状態らしい。そのことに気づかずレンタルしてしまった。

明らかな不具合なので早く修正してほしいものだが、それはそれとして、字幕なしで見たことで新たな発見があった。

まず『鳥』のあらすじについて、簡単にまとめておこう。筋はかなりシンプルだ。「ある日突然、世界中の鳥が人間に襲いかかってくるようになる」。これだけ。なぜ襲いかかってくるのかは明らかにされない。映画はひたすら、この災害に翻弄される主人公らの様子を描くことに終始している。

発見というのは、登場人物の台詞がわからなくても、なにを言いたいのかがだいたいわかる、ということだ。英語のリスニングができず、日本語の字幕がなくとも、だいたい登場人物同士の関係が察っせてしまう。誰が誰に対してどんな感情を抱いているのか、手に取るようにわかる。

なぜなのか? あらすじがシンプルだから、というのもあるだろう。だがそれ以上に、登場人物の表情や映画のカット割に注目していると、自然とわかってしまうのだ。

描いている意味がわかる。つまり、映画とのコミュニケーションが成立しているということ。

これらのことから、コミュニケーションで重要なのは言葉ではないと言える。最も重要なのは、感情を素直に表現すること、そして相手に注目することだ。そうすれば言葉がわからなくても、コミュニケーションは成立する。

近年、フィクション作品の感想で「なにが言いたいのかよくわからない」という感想を目にすることが増えた。もちろん、作者の表現が下手くそだという場合もあるだろう。しかし一方で、「言葉だけしか見ていない」受け手側の問題である場合も多い。

『鳥』のラストカットは、車で家から逃げていく主人公らを、鳥たちが監視者のように見ている場面だ。安全な場所であるはずの家を捨てる行為、車の向かう先が薄暗い雲に覆われていること、鳥たちの威圧感。これらを合わせれば、ラストカットが「人間社会の終わり」を意味していることは明らかだ。「ひょっとしたら希望があるかも」などという余地は存在しない。もしここに希望を見出し視聴者がいたとすれば、その者は映画ではなく、自分の願望を見ているに過ぎない。

言葉だけしか見ていない人間は、そのうち言葉すらも見なくなり、ただ自分の願望だけで物事を見るようになる。コミュニケーションができない人間の誕生だ。


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