_書く_という禅

「書く」という禅

『書ける人になる! 魂の文章術』という本を読んだ。この本のなかで、著者のナタリー・ゴールドバーグさんは、「書くことには座禅と同じ効用がある」と述べている。ここでいう効用とは、瞑想のことだ。ひとつの行為に没頭することによって、自我が消える。無我の境地に至り、自然と一体になることだ。

一方で、こうしたエッセイを書いているときもそうだが、僕はものを書くとき、不安を感じる。自我の檻に囚われていて、とても無我の境地とは程遠い。

この違いは、どこから来るのだろう?

答えは、他人を想定しているか否かにある。他人、つまり読者を念頭に置くということは、読者の反応を気にしているということだ。もちろん、普通はこうしたことを気にしつつも書き進めていくのだが、僕の場合は不安障害のせいで、どうしても読者の存在が壁になってしまう。

しかし、読者の存在を除外し、好き勝手に書いていくと、話は変わってくる。ただ自分の心のなかに浮かんできた言葉をひたすら書く。文法なんて気にしない。そうした文章を書いているときは、確かに座禅と同じようだ。たとえば、僕は誰にも見せない日記を毎日つけているが、そのときは不安なんてまったく感じない。もっとも、日記なんて簡単な記録なので、無我の境地なんてものには至れないが。

無我の境地。それこそ、今の僕が求めているものだ。不安や恐怖は自我から生まれる。無我の境地に至ることで、そうした鎖から解き放たれる。

書こう。

ひたすら書こう。

もちろん、ずっとタイピングしていたら指が痛くなるので、休憩は必要だが。

また、不安自体が消えるわけでもない。ひとたび自我の世界に戻れば、不安はまたやってくる。それに、書くことによって人生が向上するわけでもない。

だがそれでも、1日中ずっと不安に苛まれているよりはましだろう。

書こうじゃないか、心に浮かんでくる言葉を連ねていくだけの、めちゃくちゃな文章を。


サポートしていただけると、生きる力になります。