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苦痛の人生と『夜と霧』

ついに仕事が再開してしまった。やはり、つらい。出勤の時点でかなり体力を消耗する。これも自宅待機に慣れきってしまった反動か……。

名著『夜と霧』を読んだ。第2次世界大戦時代にナチスの強制収容所に送られてしまった精神科医の回顧録。この本からひとつの学びを得た。

現代では当たり前のように知られていることだが、ナチスの強制収容所に入れられるということは、死が直前に迫っていることを意味する。有名な「ガス室」のほか、待遇そのものも地獄だったようで、餓死や病気で死ぬことも珍しくなかったという。著者のように、生きて戻れた人間は奇跡というほかない。

本書の重要な点は、そのような地獄的な環境下にあっても、人間としての尊厳を失わなかった者たちがいた事実を明らかにしていることだ。他者を励ます者、数少ない食料を分け与える者、自然の美しさに気づく者、そうした人々の存在は、精神の自由というものが確かにあるのだと確信させてくれる。

とりわけ、個人的に刺さったのは、後半の記述だ。彼らは、安易な希望や幸福に縋ろうとしなかった。収容所では、希望に縋った者ほど早死した。そして収容生活から解放されたあとも、これまでの地獄を帳消しにするような幸福は存在しないと理解していた。

これは、姫呂が最近、薄っすら考えていたことと一致する。つまり、幸福によって苦痛を帳消しにしたいと思うからこそ、苦痛に悩まされるということだ。そうではなく、幸福は偶然に左右されるもので、苦痛の人生が敷かれたならば、そこから逃れることはできないと覚悟する。そうすることで、苦痛はなくらないにしても、別のなにかに目を向けることができるようになる。

簡単に言えば、幸福を人生の目標にするのは危険だ、ということだ。人間は幸福をコントロールすることはできない。それよりも、苦痛のなかでなにか意義のあることを見つけるほうが、より大切なのだ。

また、著者は「苦しみに耐えている人は、それだけでなにかを成し遂げている」といった旨を述べており、ここにも発見があった。現代では、生産や創造を行うことに価値がある、という価値観が当たり前のように語られているが、そうした考えは、生産も創造もできない人間には価値がないという危険な方向へつながってしまいかねない。このことは忘れないよう気をつけていきたい。


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