僕がアナウンサーになったきっかけ(福本義久)
■不思議な繋がり
2023年7月1日
エスコンフィールドHOKKAIDO
北海道日本ハムファイターズ対オリックスバファローズ
この試合の実況を担当していた僕は
とても不思議な気持ちで放送席に座っていました。
2023年7月1日
この日、母校・奈良県立郡山高校
野球部元監督 森本達幸さんの葬儀が行われました。
恩師の葬儀の日に
プロ野球の実況をしている僕。
深い繋がりを感じずにはいられませんでした。
僕が抱き続けた志に
恩師の存在が大きく関わっていたからです。
■それでも僕は放送席に座った
さかのぼること1週間
学年の連絡網でそれは伝わってきました。
「監督さんが亡くなられた」
※郡山高校野球部員は森本監督のことを
敬意を込めて「監督さん」と呼びます。
そして7月1日に葬儀が執り行われる、とも。
「7月1日は、プロ野球実況の日だ・・・」
正直に言うと、実況を代わってもらって
葬儀に参列したい気持ちがありました。
でも、僕の代わりに急に野球実況を担当する人のことを考えれば
短期間での準備が大変であることはよく分かっていました。
そして何より・・・
監督さんがそれを許さないだろう、と考えました。
なぜなら監督さんは
目の前の仕事を放棄する人間を認めないし
選ばれて座ることができたその場所を
手放すことは許さないからです。
7月1日の葬儀は同学年の代表に任せました。
僕はアナウンサーとして
自分が一番やりたい仕事に全力投球。
こうして僕はこの日
放送席に座っていたのです。
監督さんはとても厳しい方でした。
「一に勉強、二にマナー、三に野球」
これは3年間で何百回と聞く郡山高校野球部の信条です。
■「一に勉強」
郡山高校野球部は県立高校です。
野球推薦枠はなく、入試を突破した人間だけで構成されます。
その上で全国制覇経験もある
私立の強豪高天理高校や智辯学園を倒して
甲子園に行かなければなりません。
ミーティングでは野球のことよりも
普段の勉強の大切さ、大学進学を目指すこと
世のため、人のため、社会のためになることを説かれます。
■「二にマナー」
郡山高校野球部のバッグには
「郡山高校」と「○○(名前)」が刺繍されます。
そしてそのバッグは通学中、
常に外に向けておくことが義務付けられています。
自分が「郡山高校野球部の一員」であり
「部員としてあるべき姿を日常から対外的に見せる」ことで、
いつでも応援されるチーム、愛される人柄であることを求められ、
恥ずかしい行動をとることができないようにしていました。
制服の着こなし、通学の電車での態度など
誰か一人でもマナー違反をすれば部全体に影響します。
応援したいと思ってもらえる「郡山高校野球部」であるために
野球よりもマナーを大切にしなければならないという考え方でした。
■「三に野球」
監督さんは野球推薦枠のない県立郡山高校を率いて
これまで春夏を通じて11度、チームを甲子園に導いています。
「thinking baseball」を掲げ、
たとえ強豪校に技術や体力で劣っていても
総合力で相手に勝る。
そのためには「心技体」
特に「心」の部分を強く持つことを
いつもおっしゃっていました。
■ある打席の記憶
思い出すことがあります。
高校2年春の県大会準決勝
相手は智辯学園
1点ビハインドの9回2死1塁
マウンド上には智辯学園の3年生エース
長打で同点
ホームランなら逆転という大事な場面
「代打・福本」
打席に入った僕・・・
結果は・・・
見逃し三振。
ゲームセット。
そこから夏の県大会が終わるまでの3か月間
毎週土日に行われる練習試合で
僕は「1打席も」チャンスを与えられませんでした。
そのときのことを監督さんに
直接聞いたことはありません。
でも、15年以上の月日を経て
監督さんの伝えたかったことが分かります。
「バットを振る準備のない人間は打席に立つ資格はない」
部員100名がその1打席を狙っている。
戦うことを放棄するのなら
その椅子に座ることは許されない、と。
その後、最終学年になって戦列に復帰できましたが、
この3か月間が高校生活で一番忘れられない期間でした。
■甲子園で見た光景
冒頭、アナウンサーになるきっかけが
恩師と大きく関わっていると記しました。
大学生3年生になり、僕は『テレビ局』への就職を考えていました。
アナウンサーは選択肢にはありましたが現実味はなく、
ディレクターとして野球に携わり、
野球中継や選手のドキュメンタリーを作りたいと考えていました。
そんな中、OB訪問で
テレビ局に勤めている方を探している僕に
監督さんが関西のテレビ局で働いている方を
紹介してくださったのです。
その方は関西で活躍されているスポーツアナウンサー。
仕事をしているところを見せてくれると、
待ち合わせた場所はなんと甲子園。
取材に同行させてもらい、
その日の中継中は放送席の横に座らせてもらうなど、
監督さんから紹介していただいたこともあり、
夢のような体験をさせてもらったのです。
しかもその日は
阪神タイガース・新井良太選手のサヨナラホームランで幕切れ。
満員の甲子園球場、ファン総立ち、地鳴りのような歓声
実況アナウンサーが立って実況する瞬間を
放送席の横で目撃してしまいました。
これをきっかけに僕の中で
ディレクターとアナウンサーの志望度が逆転。
野球が盛り上がっている北海道のテレビ局に
アナウンサーとして採用されたのです。
■ふたたび放送席
2023年7月1日
アナウンサーになるきっかけを与えてくださった
監督さんの葬儀が始まる午前11時。
不思議な気持ちでグラウンドを見つめていました。
人生において大切なことを教えてくれた方
野球を教えてくれた方
野球に携わり続けるきっかけをくれた方
そしてその恩師の葬儀の日に
野球に携わっている自分。
1シーズンで実況を担当するのは5試合ほど。
その日が重なったことは偶然とは思えませんでした。
■開かなかった屋根
この日の試合は
エスコンフィールドHOKKAIDOで初めて
屋根を開いて開催されるルーフオープンゲーム
僕にとって様々なことが重なった日に
初めて屋根が開き、光が差し込む中で
実況ができたら凄い縁だなと勝手ながら思っていたのですが・・・
悪天候が予想され
屋根は開きませんでした。
でも、それさえも、監督さんに
「まだまだ先は長く、アナウンサーとして人として未熟である」
とたしなめられているように感じました。
■新たな挑戦
この3月でアナウンサーとして丸10年。
そして10年間勤めたUHBを退社し、新たな挑戦をします。
自分の人生において大きな影響を与えてくれた恩師
その恩師に導かれたアナウンサーという道
この10年を大切に。
チャンスがくる努力をして
そのチャンスを活かすため全力でバットを振る。
新しいステージで社会に貢献できるよう精進します。