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20年の東京暮らしの果て

2022年6月末。
人生の半分以上を過ごした東京首都圏近郊暮らしを終えて、この度故郷である宮城県仙台市に拠点を変える事を決めた、わたくしUGYAUうぎゃう

美大を卒業してから、その日暮らしの底辺アーティスト活動をし続けた20数年。
華々しい栄光があったわけではなく細々と続けていた私のアート活動でしたが、それでも辞めずにUGYAUとして活動し続けた気持ちや原動力をまとめておこうかなと思いました。

これは単なる一個人の人生振り返り徒然で、その時々の気づきの備忘録的なものです。
そして、ここまで私を連れてきてくれた、私に関わる全ての皆様へのお礼状みたいなものです。


自分のアーティスト活動を例えてみると、
大空を目指して飛び上がってみたもののそこまで高い場所に羽ばたける事もなく、常に地面スレスレの低空飛行をする鳥。
みたいなものだと思っています。

上空を見上げてばかりであまり前は見てなかったので、自分の行先もよく分かってなかった。
ただ、スレスレだけど地面に落ちずに飛び続けてはいた。

かなり危なっかしくはありましたが、
飛ぶことをやめなかったお陰で自分は今望む場所にたどり着けたかも知れない。
そのように感じております。

そんな危うい東京暮らしの飛行経路を綴ります。
過去の振り返りはパッとしない話の繰り返しで、少々愚痴っぽさもあるかも知れない…。
いつもの投稿とはちょっと違うかもしれませんがお読みいただけましたら幸いです。


プロフィール

2022.4葛飾区立石 COFFEE縁日にて

1977年 宮城県仙台市出身
2000年 東京造形大学 デザイン科デザインⅠ類(今の造形学部グラフィックデザイン領域)卒業

一旦仙台に帰省後、2003年から東京に移住。
調布市→千葉県市川市→東京都葛飾区と数回の引越しをし、葛飾区内を転々としながらトータル20年。

非正規雇用で働きつつ細々とアーティスト活動を続け今に至る。


アーティストUGYAUの危うい飛行経路 

大半が挫折と苦しさの積み重ねだったアーティスト活動の日々でございました。

好きなものを好きなように描いた
20代前半

初のDesign Festa出展時 vol.11 2000年5月


この頃は根拠のない自信だけを持っていて、大した画力もないのに自分は人気者のアーティストになるはずだ!などと思っておりました。
まあ一言で言えば若かったなあ…、と言うことなんですが。

ファンタジーなものや和風なものアールヌーボーやアールデコが好きなので、
この頃は特にテーマもなく思いつくままにカッコ良さそうな雰囲気のイラストを描いてました。
戦略とか何もなし。思いつくままに気の向くまま。
自分にはセンスがあると思ってたし、それで何とかなると思っておりました。

好きなものを描いているだけでは受け入れて貰えない事を痛感した
20代後半

数年活動を続けていると周りのアーティストと自分を比較することが増えました。
比べるほど自分に足りないものを痛感し、それまで持っていられた自信はどんどん無くなって行きます。絵が上手い人なんてゴロゴロしてるし、センスの鬼の様な人も掃いて捨てるほどいるのです。

オリジナリティ・自分らしさだけは無くさないようにしなければ!と言うこだわりだけ握りしめていて、もはや執着になっていたような気がします。
その時代の世の中のニーズに合わせていくことは負けだと思っていたので、柔軟な対応もできず自我ばかりが肥大化して行った。

世界からは何も認められていない自分にとっての心の支えは、その時お付き合いしていた方との共依存で保った自己有能感だけだった様に思います。
生活は本当に苦しかったのですが東京から地元に帰ることは逃げであり、そんな敗者にはなりたくないと言う恐怖と共に過ごしていた気がします。


"私は人とは違うんだ"と自意識ばかり肥大して現実を見れない
30代前半

女だと30になるってことは一つの関門みたいなところがあると思うのですよね。
結婚する人はしているし、大卒で企業に勤めた人はそれなりの仕事もやらせてもらえるようになってきたりとか。

そのどちらも得られずにいた私は益々
"アーティストとして成功しなければ!"
と言う強迫観念が膨れ上がり始めるわけです。
自分にはそれしか残ってないから。

そして30歳の頃、FUNDOSHI FANTASYを描き始めました。 


ふんどしと言うキーワードをお客さま達が喜んでくれて、私も楽しくイメージを膨らませることが出来たのが描き始めたきっかけです。
ですが、

"何か人とは違うことを!"
"唯一無二のコンテンツなら他と比較される恐れからも逃げられる"

そんなネガティブな感情もありました。

狭いコミュニティの中ではありましたが、お陰様でFUNDOSHI FANTASYはある程度の認知度を得られて、
皆様に楽しんでもらえる作品へと少しずつ成長させて頂きました。

とは言え大々的にバズったわけでもないし、"一部の界隈では"と言う程度。
(主にDesign Festa)
実績として大きく言えるような感じでもなかったけれども、多少はお客様に支持もされた。

その微妙な立ち位置が、自分の人生とメンタルの不安定さに直結した感じもありました。

限定的なわずかな成功を大きく見せようとする卑しい自分がいる事に気づきました。
虚勢を張って人からは良く見られたくて、内心は何もかもに怯えてビクビクしていた…。

そして自分一人では創作活動にも生活にも限界を感じていた33歳の頃、ご縁があってアート活動をプロデュースしていただく事になりました。

この時期は2011年という震災のあった年。
地元である宮城県仙台市も多大な被害を受けていて、それに対して何もできない自分に不甲斐なさが募っていました。
違うアプローチでの創作活動でUGYAUというアーティストに箔を付け、その時の能力以上の評価が欲しかったのだと思います。

立派に額装された原画と複製画

作品を描く事以外は全て周りがお膳立てしてくれる環境。
先生と呼ばれながらお客様とお話しし、作品の販売はスタッフの方が上手に進めてくださる。
しかしこれは結局、1年間だけの短い契約で終了となってしまいました。
今までとあまりにも違う作品発表と接客の仕方に私自身が慣れることが出来なかったのです。
ただ、この契約のお陰で私個人ではまず無理だった遠方(大阪や岡山など)で作品を展示していただき、これまでとは違うアートの世界を体験出来たことは大変貴重な経験となりました。


小さな成功とそこから湧き上がる不安定な感情。
覚悟を決めて挑戦した取り組みも長くは続かず終わってしまう。

羽ばたいて電線の高さくらいには飛び上がれたかと思った次の瞬間には、また地面スレスレに戻っているのです。

アーティスト活動が波に乗らないので、企業に勤めるような普通の暮らしに憧れる気持ちも次第に滲み出てきます。
でも、自分にそんな生き方は絶対無理と思う拒絶心もあって心はいつも二律背反。

だいぶ、メンタル不安定になっていたんじゃなかろうかと思います。

丁度その時働いていた職場もクレームの受付の電話対応だったことや、その時お付き合いしていた方とうまく行ってなかったこともメンタルには悪影響あったかも。

この期間徐々に自尊心と虚栄心の狭間で心が苛まれ、その結果自己肯定感がズドーンと地の底へと落ちました。
自分はなんてゴミ人間なんだろうと思いました。
まさに闇堕ち、と言った感じです。


全て振り切って1人になり、自由と心細さの中で体がおかしくなった
30代後半

色々あって1人になり、猫一匹を連れての一人暮らしを始めました。

元は行き倒れ野良猫だった愛猫、ティオラテフ氏

ぬこ様に癒されつつ、全ての時間を自分の為だけに使えるのはなんて心地よいことか、と大いに自由を謳歌。
新しいご縁もつながり始めて沢山の小さな展示に参加させていただき、思いつくまま好奇心の向かうままに動きました。


そうする中でクレームの電話番を辞め、モノづくりをしている会社に勤め始めました。
機械操作のためのオペレーターのバイトとして入り、その後は作業員として日々工作仕事をしました。

東京の下町ののんびりとした雰囲気の中、広い作業場がある町工場。
大きな電動工具や一般的には見られない材料類がその辺にゴロゴロしている。
創作も好きですが工作で何かを作ることもやはり好きでしたので、働きながら工具の使い方を覚えていったりモノづくりの知識を増やせるのは楽しかった。

その職場は毎日が文化祭の前の1週間と言えば良いでしょうか。
仕事内容をざっくり説明すると、有名なお店や企業のオープンや改装に合わせてのサイン・ディスプレイ作りです。

そこで得た技術と知識と、ゴミ捨て場から拾った材料の切れっ端をありがたく利用させていただき、
自分の個展やイベント出展の時には見栄えのする看板やブースを作らせてもらったりもしました。
従業員価格でステッカーを作らせてもらったりも。
社会的に底辺労働者だった私には大変ありがたい環境でありました。

でも、アーティストとしてなんとか立ちたいという思いだけは持っていたため、バイトで週四勤務と言う不安定な非正規雇用の私。
残業と休日出勤をバリバリとこなす社員さん方がいる中で、1人気楽に中途半端に働く私をクビにしなかった会社には感謝しかなかったけれど、同じくらい申し訳なくも感じました。

不安定でさほど責任感も伴わないで済むバイトという働き方。自分で選んだ道だけど生活するのがやっとこさの自転車操業暮らし。
何とか楽しくアーティスト活動は出来ても、生活費はいつもカツカツで大きな勝負に出る余裕がない。

きっとこのまま年老いて、誰にも気づかれずにアパートの中で孤独死するのかなあ?と頭をよぎる事もしばしば。

そんな未来への不安からか自律神経をやられて、胃腸の調子がおかしくなったのもこの頃からの事…。

ポジティブな出来事とネガティブな出来事とを味わいながら、緩やかに息詰まりかけていた日常生活。
しかし同時にそれらの日々はアーティストUGYAUにとって自身の方向を変えるきっかけを与えてくれもしたのです。


もがいた先に見えてきたもの

サイン・ディスプレイ作りは縁の下の力持ちです。
主役はお店であり、そこで売られている商品であり、依頼主の企業様。
サインを作っている下請の町工場は、世間からは名前も認知されない存在です。
でも、日々お店のオープンという締め切りがあり、そこに向けて従業員全員がてんやわんやしながらサイン(装飾物)を用意する。
そして、夜中や早朝の時間帯に作業をして、店舗に取り付けをする。

後からオープンしたお店で自分の作ったサインが取り付けられているのを見た時には、なんとも言えない達成感がありましたし、心の中では「あのサインは私が作ったんやで!」とドヤる気持ちでニヤニヤした。

それはアーティストとして自分や作品を全面に出すのとは真逆の事でした。
そして、私にはそれがとても楽しく感じたのです。

元から、隠れていたいタイプのアーティストだったUGYAU。

プロデュースされて“先生”なんて呼ばれてチヤホヤされた事もあったけど、やっぱりそれはストレスでしかなかった。
アーティストとして何かを発信はしたいけど、作品や私自身はむしろ透明でも良いのだと思いました。

見て欲しいのは作品を通してのメッセージなのです。


作品を作る過程から生まれた思考と発見の驚きを共有したい。
そこから得られた気づきによって、それを見た誰かの日常がちょっと良くなるキッカケになりたい。

なので、作品それ自体よりその構造を作りたいのです。

見てくれたその人の心がちょっと前向きになる為の後押し。
その為の場を作ること。

そうして、自分がやりたい事で出来る事はきっとは縁日を作る事ではないか?

その様な考えに至りました。


ようやくエンジンがかかってきた
アラフォー

エンジンがかかるのめちゃくちゃ遅…。

それ以前はおそらく気持ちだけが前のめりでエンストばっかりして、車庫から1mくらいしか進んでないくらいのポンコツっぷりだったのではないか。

鳥的に言えば、巣から飛び立つ為の飛行訓練が今ようやく終わりを迎えたのかも!?
(ちょっとありえないのんびり加減ですな。)


サイン・ディスプレイの会社で働き始めてしばらくした頃に、アーティストとして念願だった初個展を開催したのですよね。
それも地元の仙台で!

職場での能力フル活用した個展会場外装ディスプレイ


そのあたりから人のご縁がつながってきて、仙台、郡山、東京、個展やらショップさんとのコラボ展やら街の商店街を使っての展示イベントやらと、
次々に経験させていただきました。

浅草での東京初個展
豊島区東長崎での街中展示
仙台のファッションビル内でのセレクトショップとのpop up展示
個展 @仙台
2020年 コロナ下で行った銀座からのオンライン個展
同年 ちゃんとお客様を迎えられた銀座個展
そしてたどり着いた、2021年COFFEE縁日
2度目のCOFFEE縁日、2022年

ショップとのコラボ。
街の片隅の小さなお店の中での展示。
お客様を呼ばない、配信と通販と入札で開催したオンライン個展。
coffeeとアートのコラボ縁日。
作品も販売はしてるけどそれ以上に並んでいる雑貨アイテム、そしておみくじ。

それらは、アートコレクターさんが望む(と思われる)純粋なアーティストからしたら、とても邪道な活動方法でしょう。
作品のみで勝負していないわけですからね。

私の場合はどちらかと言うと、作品が出来上がる過程こそ見せてしまう。
完成形にたどり着くまでのぐるぐるした考えとか突拍子もない思いつきとか、上手くいかずに七転八倒する様子も込みで構造の一部だと思うからです。
その一部の思考の道のりはこのnoteにあれこれと綴っております。

若い頃はスタイリッシュで、カリスマ的で、超絶技巧なアーティストに憧れましたけど、自分はそんなものにはなれないと、ようやく気づいたわけなのです。
なんなら、自分は絵を描くのが好きじゃないんだと言うことにも気づいてしまったくらいです。

でもそれは諦めではなくて、自分のことやっと認められた瞬間でもあったのです。


42歳。私はようやくアーティストUGYAUになれた。

自分は何者でもなかったなあと身に染みて、
今ある自分を上にも見ず下にも見ず受け入れた。
ある日、ふとそれは起こりました。

なーんだ、自分はこれでいいんだなあって。
全部をただそのまま受け入れられるようになりました。

自分の事をクソ雑魚ゴミ人間と蔑んでいる期間が長かった私が、そこから抜け出すに至った思考過程とアートの話は、
こちらの"まじないと呪いの話"のマガジンにもアレコレ書いております。
もし興味あればそちらも是非。

そうして自分を受け入れられる様になった私は、周りの視線に怯えることがなくなりました。自分の好奇心に素直になりました。
興味のあるものにはとことん突き進み、気持ちに乗らないコトやヒトに自分の時間を割かないでいる事が出来るようになったのでず。

つまり自由になったと言う事でしょうかね。

こうあるべき、とか
こうあらねば、とか
架空の誰かからの謎の束縛を受けなくなりました。

たとえ他人が私の行動を馬鹿にして無駄なことをしていると批判してきたとしても、心にダメージを負わなくなりました。
攻撃してきたその人は私じゃないから、私の行動の楽しさがわかるはずもないからです。
ああ、この人は狭い自分の世界の中で決めつけてくる、想像力があんまりないヒトなんだね。って思うだけ。
20代だったら、ショックを受けてちょっと泣いてやけ食いして吐く、までしてたかも知れないけど、
40過ぎたら図太くなるもんです。

我ながら晴れ晴れした顔である


45歳。
人生の本編はこれからだ。

そして今44になったUGYAU。今年の夏には45になってしまいます。
一般的にはオバサンと言われる真っ只中の年齢や。

しかし私の心は割と軽やか。
世の中には勉強してみたい事がいっぱいだし、これからやりたいこ事も体験したい事も、山のようにあります。

そんなタイミングで私は東京を去ることにしました。
生まれた街、地元である仙台市への移住を決めました。

以前は、“地元へ帰ることは人生の敗者である”とすら考えていた私なのに、
今はそんな風にはちっとも感じない。

どこに居たっていいじゃないかと思えるし、
何がどうなっていくのか想像ができなくてwktkしかないなあ、と言う気分なのです。

コロナ下でオンライン個展などを経験した事で、どこに居てもアートの発信が出来ると感じられたのは大きい。
発信する方法とスキルは工夫と努力でいかようにも作れるなとわかりました。
世の中にはどんどん便利なサービスが出来ているし、面白いなと思ったことをどんどん試して成功するまでやってみればいいだけです。

それに3.11以降、私にとって“地元に帰る”と言う事の意味は大きく変わりました。

地元貢献に関わっていける可能性が東京にいるよりも遥かに大きくなるのです。
20年の私の知らない仙台をフットワーク軽く知ることが出来、その中で積極的に動いていける。

3.11の時地元にいることが出来なかったと言う気持ちは、震災地域の出身者ならばきっと誰しもが持つ心の負い目じゃないでしょうか。

私は自分に経済的余裕があれば、とか
社会貢献できる仕事をしていれば、とか
何度も思いました。
しかし、売れないアーティストを続けてしまった自分。

いつかちゃんと地元に恩返しができる様な活動をするんだ!

何をどうやって?は全くわからなかったけど、そんな野望をずっと持っていたのです。

なので、仙台へ移住してそこで働いていく事に、むしろめちゃくちゃ興奮している。今、とても胸が躍っています。

仙台市南部拠点地域おこし協力隊になります!

仙台への移住を決めて次の仕事はどうして行こうかな?と考えていた時に、知り合いづてに地域おこし協力隊の募集があることを知りました。

地域おこし協力隊とは

[地方への人の流れを創ることを目指し、地方自治体が、都市部の人材を過疎地域や離島などの新たな担い手として受け入れ、地域力の充実・強化を図る取組]です。
※総務省HPより

令和3年で全国に協力隊として活躍されている方は6000人になるとの事。

今回の募集は仙台市太白区に出ており、
仙台市から委嘱されて活動するお仕事です。

仙台市南部拠点地域とはJR長町(ながまち)駅周辺を中心とした市南部の中心地で、仙台市の副都心的な位置付けだそう。
そんな場所ですでに活動されている団体等の活動支援、各団体等の連携促進による新たな価値の創造を行い、街を活性化する事が任務の様です。

今回の募集要項の中に、"アート活動を通しての地域や商店街さんなどとも連携をした活性化"と言う様な事がありました。
それをみた時に、
これはもしやUGYAUのこれまでのアーティスト活動経験が全て活かせるのでは!?
と気持ちが高鳴りました。

アーティスト活動20数年の果てにたどり着いた
"アートを通して縁日を作りたい"
"誰かの役に立つきっかけを作りたい"
と言う目標と
"地元貢献がしたい"
と言う願いが同時に叶えられる、夢の様なお仕事なのですよ!!

そしてすぐさま応募をし、オンライン面接と現地での最終面接を経て、
大変ありがたいことに隊員の一人として活動させて頂くことになってしまいました!!(私の委嘱日は2022.7.1です)

仙台市太白区の公式HPより

まだ活動前で何をどうしていけばいいのか分からないことがだらけですが、私の経験と持っているスキルを活かして頑張ります。
より良い地域づくりと、地元の皆様の役に立てる様な活動にアーティスト目線で関わっていこうと思っております。


これから先はどんな風景が見えるだろう

いや、正直全くわかりません(苦笑)
未知の世界です。
でもきっと素敵な景色がたくさん見えてくることだけは確信しています。

慣れない活動と新たな生活に戸惑うことも多いかも知れませんが、問題が起こったとしても常に楽しく乗りこなしていこうと思います。
一人途方に暮れる様な時には、周りの人から手を差し伸べてもらえる様な人間に成長していきたいとも思います。
なので、UGYAUがもし泣きそうになっていたら、その時はどうか何卒よろしくお願いいたします…!


これまでで一番の長文になってしまったこの記事を、最後までお読みいただきまして本当にありがとうございました。

これからは仙台市南部拠点地域おこし協力隊としての情報発信もやっていきつつ、
もちろんアーティストUGYAUとしてもモリモリ活動していこうと思います。
coffee沼も変わらずズブズブと探索していく所存です。

地域おこし協力隊用のInstagramアカウントも作りましたので、よろしければそちらも是非フォローして下さい。

売れない底辺アーティストUGYAUの長きに渡った飛行訓練にお付き合いくださった皆様!
ギリギリ低空飛行で跳び続けられる様に支えてくださった皆様!

本当にお世話になりまして、ありがとうございました!!!

皆様のおかげで今ここにやってきました。

このご恩はこれから
新UGYAU(シン・UGYAUか?)の活動を通してお返ししていこうと思います。

改めまして、これからもどうぞよろしくお願いいたします。


#ugyau   #アーティスト #アート活動 #東京暮らし #地方移住 #地域おこし協力隊

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