見出し画像

私の欲しいのは正論ではなかった

自分の中に横たわる根深い傷に向き合うときは、
どうしてもその記憶を自分の頭の中で再生する必要があって
その「再生」は傷の「再体験」ということになる。

自分がフラッシュバックで苦しんだことでわかったのだけど
フラッシュバックを起こしているときは、記憶がキレイに再生されて
自分の目の前で見事に映像が「見える」。

そのときの場面が、まるで今目の前で起きていることのように繰り広げられる。

以前、精神科のお医者さんに言われたことがあった。
「それは過去の出来事なのだから。今、目の前で現実に起きていることではないのだから。」と。

その理屈はとても正しい。

「それは今、目の前で起きていることではないのだから、今見えているものに囚われるな。」
と私に言いたかったのだろうな、と思う。

その言い分、すごくよくわかる。

でも。

正しい理屈が欲しかったんじゃないんだよね。

「今、目の前で起きていることではないのだ」ということは、私が一番よくわかってる。
それは「私の体験」なのだから。

私が体験してきたことなのだから、誰よりも私が一番よくわかってる。

今起きてることではない。

でも、私の目の前では「記憶」がキレイに再生されていて、その映像が現実として私には見えてる。

それは、私にとっては、「今起きてること」と全く同じこと。

一番つらい映像が頭の中で再生されると
脳は「危険!危険!危険なことが起きてるぞ!!」と狂ったようにあらゆる〈警報〉を掻き鳴らす。

とんでもない危険から私を守ろうと、脳は必死に自分の仕事を果たそうとする。
できる限りの、ありとあらゆる警報が私の脳の中で響き渡る。

それこそ、脳ミソのパニック状態。

その警報は、自分で止めることなんてできないんだよ。

止めたいんだよ。止められないんだよ。

警報の止め方があるのなら、それを教えてよ。

あの頃の私は、自分の言いたいことを全く医者に伝えられなかった。

今でもつらい記憶はつらい記憶のままだし、
思い出せば誰かに胃をぎゅーっと掴まれてひねり潰されるような痛みが走る。

でも、それでも今はもう、フラッシュバックの苦しみはずいぶんと薄まったし、思い出すことも怖くはなくなった。

私の脳ミソはずいぶんと穏やかでいてくれるようになった。

でも、あの時の私の苦しみに「正論」をぶつけてきた医者に対してのわだかまりは、まだ完全には手放せずにいる。

でも、こんな私のザラザラした気持ちを伝える必要もない気がする。

私の脳ミソはずいぶん静かでいてくれるようになった。
不必要に暴れ回ろうとしなくなった。

だから、それでいいのだと思う。

静かになってくれた私の脳ミソが、これから先
たくさんのワクワクする出来事を拾い上げて私に見せてくれたらいいなと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?