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乙骨憂太と五条悟と人でなしの話

※単行本20巻までの情報に基づきます。だいたい妄想と幻覚です。
※個人の感想です。乙骨のキャラについてはまだ掴みかねているところがあります(今後の活躍に期待)。

サマリー:人の姿をして人の振りをしているだけの人でなし五条悟を唯一人間扱いした乙骨憂太の成長っぷりに感服した

先にこちらの記事を読むとよりわかりやすいかと思います。

五条悟の頑丈さと悲劇的要素

20巻の乙骨の台詞「先生に二度も親友を殺させない」は、乙骨の成長を感じると共に、五条の人間関係の変化を感じた。

五条悟は作中で堂々と「最強」の称号を冠しているが、一方で彼は人の心が欠如した、人のふりをしているだけの化け物でもあった。
その五条に対して、乙骨は「先生に二度も親友を殺させない」と言う。これは乙骨の成長をよく表している。
それと同時に、「永遠に壊れない頑丈さ」を誇る五条が(おそらく)初めて「いつか壊れるかもしれないもの」として扱われた瞬間でもあったと思う。

一般に、親友を殺すのは精神的に負荷がかかる。その上、一度死んだはずの親友をもう一度殺さなければならないのは、さらに残酷な仕打ちだ。
五条なら大丈夫だろうとみんなが思い、本人もそう思っているだろう。五条はたった一人の親友を手ずから殺してさえ、致命的なほどに傷つくことはなかった。
その五条へ、乙骨はまともに気を遣った。つまり、五条にも傷つく心があることを、少なくとも乙骨は想定し、配慮したのだと思う。

ここで改めて思い起こされるのは、五条の境遇に付随する悲劇的要素だ。
可哀想な境遇にいること自体よりも、それが可哀想だと認識されないことの方が可哀想ではないかと思う。
何故なら、可哀想と思われなければ、一切の同情も共感も得られないからだ。

わたしも五条が可哀想なキャラクターとは思っていないが(夏油の方がよほど同情できる)、五条に「可哀想」と思わせる要素が皆無なわけでもない。むしろ、探せばそれなりに出てくる。
本人が「腐ったミカン箱」と評する環境で生まれ育ったのは「不幸」と呼んでいい要素だし、たった一人の親友を殺す羽目になったのはまぎれもない悲劇だ。

ただ、五条本人が自分を可哀想な目に遭っているとはちっとも思っていないから、可哀想には見えない(繰り返すが、わたしは五条を可哀想なキャラクターとは見なしていない)。
実際、五条は非常に恵まれているのは間違いない。地位も権力も金も外見も、およそステータスとなりうる要素はほぼ兼ね備えている。
だからといって五条の不幸さは無視されていいわけではないが、彼は同情を受けるには強すぎる。

だから、五条悟は不幸というより不運だったのだと思う。
自らを強者と定義した夏油が他者からの憐れみを拒否して自ら地獄へ堕ちていったのと同じように、どこまでも強者である五条には共感が生じる隙がない。

同様に、被害者性で言えば、五条は全くもって該当しない。五条悟も夏油傑も不幸で不運ではあったが、被害者性で言えば圧倒的に夏油に傾く。
現実の非情さの前に、確たる正しさを見失いながらも正しく在ろうと無理して、折り合いがつけられなくなった夏油は、世界に壊されたようなものだ。夏油の加害者である側面は無視できないが、それと被害者である側面は両立する。
一方の五条といえば、全くの無傷ではないにせよ、徹底的なところまで壊れる事はなかった。
壊れなかった五条は、被害者には決してならない。

「壊れるまで被害者として認定されないから、救済の対象にならない」というのは司法の穴のようでもある(とかく、このような精神的に追い詰められる過程の描写は現実味がある。そこがこの作品の魅力でもあると思う)。
だから夏油は追い詰められ、同じように日車も限界を迎え、七海は逃げ出し、そしていつまでも壊れない五条は救う側に立ち続ける。まるで、壊れる心など最初から持ち合わせていないかのように。

壊れないと知っているものを心配する人はいない。
それは揺るぎない安心感でもあり、人を人として扱わないという意味ではむごいことでもある。
でも、たしかに五条は壊れなかったし、これからも壊れることはない。

そういう、人の姿をして人のように振る舞う人でなしを、けれども己の本質に枷を嵌めて人の中で生きようと人のふりを続けるなら、人と呼んでもいいだろうと思っていた。
でも、20巻の乙骨は、いともあっさりと五条を人間扱いした。
――ので、わたしは激しく動揺した。

五条悟が夏油傑(だったもの)の姿を見て、バグみたいに一瞬だけ動きが止まったのを乙骨は見ていないはずなのに、その一瞬だけ本物の人間みたいに感情を呼び起こされた五条を見ていないはずなのに。
その一瞬が致命的だったことを知らないはずなのに。
乙骨は、ただの一般論を五条に当てはめた。

わたしは「人の振りをして人の姿をしているだけの人ではないもの」がとても好きで(市川春子とかすごく好きです)、「でも人として振る舞うのならば、それはやはり人なのだ」と以前、五条に対して書いた。
それが今、乙骨によって回収されているのはとても素晴らしいことなのだと思う。

皆が最強であるところの五条悟を最後の頼りにするのに対して、乙骨が「先生に二度も親友を殺させない」と思うのは、前作の主人公として正しく成長した(から主人公として引退した)からだろう。

夏油との一件で、残されるどころか自らの手で幕を引いた五条悟は、普通の人間なら同情の対象になる。しかし、五条はあんまりにも強いから、同情される余地がない。これが彼の悲劇たり得るはずだった要素であり、「最強」の影に隠れたそれに、乙骨だけが気を遣う(七海は既に死亡し、硝子は傍観者的な立場でいる)。

教師に教え導かれる生徒という立場でありながら、乙骨は五条をただの人間と認識し、五条の心理的負担に思い至った。これはとても大きな成長だと思う。
ともすれば神聖視されがちな教師(親も同様であるが)も人間であると意識できた乙骨は、大人への一歩を踏み出していると言ってもいいだろう。

弱者を救える力を持つ強者にすべてを押しつけた結果、夏油はつぶれてしまった。
たとえできるとしても、全部五条一人がやればいいわけではいけないと悟ったから、五条は教師になった。その教えを乙骨は正しく受け取った。
五条がどんなに強いからといって傷つけていいわけではない、いつまでも傷つかない保証はない、と。

五条も夏油も壊れないものと見なされて、壊れるまで使い倒された。
夏油が壊れても五条は壊れなかったけれど、本当に壊れるものかどうかを抜きにして「壊れるかもしれないのだから」と五条を案じる乙骨は、それだけの力を得たと言ってもいいかもしれない。
(乙骨がそうやって五条に気を払うことができるようになって、五条もさぞ鼻が高いだろう。ほら見たか、僕の自慢の生徒だよって)

バッドエンドから受け継がれるもの

夏油との人間関係が不均衡に陥って友情を崩壊させてしまった五条は、乙骨で一定の成功を見せた。
夏油の与えた感情を返さなかった五条は、乙骨に与えた感情を乙骨から返された。
これはとてもきれいなバッドエンドの回収だったと思う。

20巻の乙骨は成長著しい。
もちろん、彼の本質はそのままだ。リカが再登場したが、そのおぞましい姿に、相変わらず乙骨は何の感慨も示さない。普通の人みたいな顔をして、でもどこかがずれている。

乙骨はリカに誰かを傷つけてほしくなかったけれど、その姿に対して何とも思っていなかった。今もそれは変わらない。
外付けの術式と呪力の備蓄――つまりは倉庫にリカという名前をつけているのに、死んだ時の里香でも成長したイメージでもなく、化け物そのものだった姿を与えている。
乙骨はリカの姿を嫌悪したことが本当にないのだ。

そういうところに乙骨の雑さがよく現れている。外見に頓着せず、自分の出自にすら興味を示さないのは、一周回って精神的余裕さえ覚える。
そして、その雑さというのが最強であるがゆえの五条の特性であり、乙骨もまたそれを獲得しつつあるように見える。

乙骨は死闘を繰り広げている最中、「なんで自分のためなんかに戦うのか」と問う。これが烏鷺の逆鱗に触れるのだが、乙骨には煽っているつもりは一切ないようである。
無自覚に煽るようなことを言うのは、自分の言葉が相手にどう受け止められるかどうでもいいから、相手がどんな反応をしても自分に関係がないと思っているからだ。

乙骨は自分のためには生きないが、自分の命を軽視している風でもない。
彼が自分のためではなく大切な人のために生きると言うのに精神的不安定さをあまり覚えないのは、真希やパンダや狗巻が自分を大事にしてくれると確信して自分の守りを明け渡しているからではないだろうか。
つまりは、仲間への信頼と信頼を受けられる自分への自信だ。

0巻を読み返してみると、乙骨は大人しそうな外見のくせして、夏油にみんなを傷つけられると「ぶっ殺す」などと暴言を吐く。
そういう激しい情動を持っているから、里香が怨霊になってしまう。愛が深い人間は憎しみも深いからだ。

しかし、その頃の不安定さを今の乙骨はけっこう払拭したように感じる(逆に言うと、イカれ具合は増した)。
孤独の中から這い出してようやく手に入れた友達と信頼する先生なのに、乙骨はどちらにも依存しない。それどころか、五条に対しては辛辣なところがある。自分のためには生きないのに、他人を行動の指針にしているわけでもない。

たとえば伏黒が「俺が一人で400点獲る」と言ったら「自分の命と引き換えなのか?」と不安しかないが、乙骨が言うと絶対的な自信を感じる。むしろ、あんなに頼りなかった乙骨が成長しているな、とすら思う。
自己肯定感の差というか、物語におけるポジションの違いから来る人格造形の差と言っていいのかもしれない。
(ただ、サスケポジションの伏黒もナルト=虎杖に不健全な形で嫉妬せず、五条に稽古を頼み、自分を磨いて強くなろうとするので、そのあたりはとても健全な精神構造ではある。年齢の違いもあろうが)

精神的な不健全さをあまり感じないという点でも、乙骨は(元)主人公らしいと思う。
もちろん乙骨はこれからも経験を重ねて成長するだろうけれど、もう未熟ではない。
乙骨は成長物語の主人公が持つ青臭さを脱臭し、主人公として引退した今、だんだん五条に近づいてきているようにも感じる(虎杖にとっては頼れる先輩だ)。

乙骨のなかなかに雑な性格には、最強を冠するキャラクターの性格付けに近づいているという印象を覚えた。
強大な力を持つ者は瑣末なことを気にかけない。というより、かけていると進まないからあえて目に入れないところもある。
五条は誰でも救えるかもしれないが、一人で全員を救うのはさすがに骨が折れるだろう。どんな些細なことでも助けを求められたら、さしもの五条でも手が足りない。だから、細かいことは(意図的に)見落とす。

そういう五条の雑さは、ぴたりと乙骨に嵌まったようにも思う。
乙骨は普通の家庭出身だから、いい意味で五条の特別さを重視しないところがあったのだと思う。
五条は良くも悪くも雑な性格で、それが裏目に出たのが夏油で、いい方向に転がったのが乙骨(と虎杖)なのかもしれない。
(もしかしたら、五条が反省を活かして自分の雑さをより良い方向へ向けられるように努力したのかもしれないが)

乙骨は夏油と違って、適切な指導者がいたから変に捻じ曲がったりしなかった。そういう意味では、一見してちゃらんぽらんで教師にふさわしくない五条は呪術師を育成する側として最低限の要素は満たしている。
一端の大人と見なされて、その実まだ大人ではなかった夏油の穴を埋めるように、ただ強いだけの乙骨を、五条はきちんと学生扱いした。
乙骨が五条に頼りきらないのは、里香ごと化け物扱いされていた自分を「そんなの大したことじゃない」といい意味で軽く扱って普通の生徒と見なし指導してくれたからなのだろう。
(七海や伊地知も虎杖をきちんと学生扱いするので、そのあたりは皆が夏油の反省を生かしているようにも感じる)

五条悟は鏡のようなものだ。
彼は強すぎるあまり、相対した人のさまざまな感情を掻き立て、それらを向けられてもびくともしない。揺れるほどの情がないからだ。
五条を見る側が自分の見たいものを投影して好きに解釈しがちだから、本編中に彼の視点で語られる部分、モノローグで語られる内心はあまり多くない。
(そしてこれを書いているわたしも、彼を通して自分の見たいものを見ている点は否定できない)

そういう扱いをされ、五条本人もまた当然だと思っていても、「でも五条先生も殺したら傷つくんですよ」と言える乙骨には感服する他ない。
乙骨は既にその境地を脱しているから、五条を鏡と見なさず、その向こうに人間が見えている。
たとえ傷つかない、壊れないものであっても、「僕はあなたを大事に思っているので」と示すのは大切なことだ。それが上手くいかなくて夏油は折れてしまったのだから。

終焉した物語の再開

成長した乙骨は、五条が望んだ姿のままなのだと思う。
「最強」を冠し、一人で何でもできてしまう圧倒的強者を「壊れるもの」として扱う乙骨は、かつて五条が夏油へ接して欲しかっただろう、いつかの誰かの姿だ。

いくら頑丈で壊れないからといって、石を投げ続けていいわけではない。
今まで「叩かれても壊れなかった」ことを以て、これからも「叩かれても壊れない」ものとして扱われている五条も、いつかは壊れるかもしれない。
壊れるものと同じ姿をしているのに、壊れないものと見なしていいのか?――乙骨はこれにはっきりとNoを出した。

五条と夏油の物語は悲劇に終わった。
夏油傑にとっての悲劇は、五条悟が人間ではなかったこと、それなのに人の姿をしているがゆえに惑わされ、錯覚してしまったことだ。
でも、これらは五条がまるきり悪いわけではない。五条の振る舞いすべてを肯定するつもりはないが、少なくとも二人のすれ違いは、悲しいほどの事故だった。
五条は生まれ持った性質のまま生きていて、生きることを許されるほどに強かった。ただ、五条と同じくらいの強度の人間がいなかっただけだ。
だから、誰も夏油の悪行を肯定せず、けれども夏油が好きだったという己の感情も否定しなかった。それほどまでに追い詰められた夏油に理解を示しながらも、行いを許すことはなかった。

神に近づこうとした夏油はどこまでも人で、どれだけ人に近づこうとも五条は人ではなかった。

完璧なものが損なわれるさまは美しい。
完璧さゆえの美しさを失いながらも、欠けているがゆえに美しい。人間味に欠けるがゆえに神のごとき完璧さでいたものが、心を獲得して人に成り下がる――神としては零落するが人間としては完成に近づくという矛盾もまた、美しさのひとつの形だ。
だから、最も人に近かった頃の五条悟はきっと美しくなくて、でも彼を人にした夏油傑と一緒にいた時は美しかっただろう。

終わった物語に先はない。五条と夏油の関係は、片割れの死を以て完成した。
生きている限り関係は変わってゆくものだ。裏を返せば、死んでしまえばその時点で関係は不変になって「完成」してしまう。
五条と夏油の関係は、これ以上ないほどに「完結した物語」だった。

二人の関係は完膚なきまでに終わってしまったけれど、五条はまだ生きている。生きている以上、他者との関わりは生じ続け、その関係性も時を追うごとに変化する。
それをすっかり忘れていたのを、乙骨の台詞でわたしは思い出した。五条も今を生きているのだと。
(五条はクズだけど人の振りはけっこう頑張ってるから、その努力をわたしくらいは見てやるよって気持ちでいたら、乙骨が何のてらいもなく五条に気を遣ったのはさすが前作主人公である)

血統や地位や呪術の才や体躯、容姿すら恵まれた五条悟を誰もが羨み嫉み憎む中、五条に純粋な好意を向けて対等な立場にいたのは夏油傑だけだった(硝子は異性であるのと、深入りしない性格で少し距離がある)。
この二人の関係性に代替はない。けれども五条はまだ今を生きているから、彼は変わらなくても彼の周囲の人間は変わり続ける。
変わり続ける周囲は、いつか五条に小さくとも何らかの変化をもらたすだろう。そのうちの一人が乙骨なのだと思う。

五条と硝子は互いに完成しているところがあり、全くの不変ではないにせよ安定している。
そこへ入ってきた乙骨はまだまだ成長して変化する側にいるから、いい意味で関係性の変化が訪れる予感のようにも見えた。

夏油は五条を人の姿をして人のふりをしている人でないものから人にした。夏油を失った後の五条は人のふりが上達した、人の姿をしている化け物に戻ってしまった。
けれども乙骨は、誰もが自分とは違うものと見なす五条を、自分と同じ人として扱う。
(とはいえ、乙骨もだんだん人の枠をはみ出しているようにも見える)

乙骨は夏油の代わりになろうとしているのではない。彼はあくまでも五条を「先生」と呼ぶ。
五条悟の対等な立ち位置は、夏油傑が生涯にわたって占めている。乙骨もそこに座りたいなどとは思ってないだろうし、丁重にお断りするだろう。
でも、五条を最も人間扱いしているのも乙骨なのだ。

乙骨は五条との付き合いはさほど長いわけではない。2年生の中では最も遅れて入学したし、それまでは一般人だった。
たとえば伏黒は幼少期より五条に振り回され連れ回されていただろうし、七海や伊地知は学生時代より五条のわがままに付き合わされていただろう。
乙骨は五条との付き合いは浅い方だ。だからこそ五条を特別視しないのだと思う。
乙骨は、ただの人間しか視界にいなかった時の価値観のまま、自分の強大な力をコントロールして、呪術師としての自分を受け入れてなお、そういう「ごく当たり前」の気遣いを忘れない。
どこか人からはみ出しながらも人としての感覚を忘れず、「最強」に近づいている。これは五条とは異なる「最強」への道でもある。

乙骨がいくら五条を人間扱いしても五条は人間にはならないところが二人の関係性の重要なところだ。
五条がもう一回夏油の姿をした何かを殺したところで別に傷ついたり、まして壊れることもないけれど、それをわかった上で「でも先生にそれはやらせない」と乙骨は言うのだろう。
人の姿をした人ではないものを、それでも人でいるのだと。


ところで五条はどこまでも人間にはならないが、乙骨の前では殊更に人間のふりをしなくてもいいのではないだろうか。
乙骨は五条があんまりにも人の心を無視した行いをしたら、静かに咎めるだろう。そういう意味でも、五条は安心して人のふりをしなくて済むかもしれない。
であれば、乙骨は五条が背を預けるに足る位置へ――後継として着実に歩んでいるのだと思う。

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