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五条悟の「青春」、あるいは「心」と「意味」と「規範」の話

※単行本13巻までの情報から推察した内容に妄想と幻覚をミルフィーユのごとく重ねています。
そろそろ真面目に五条悟への考察を書いておこうと思ったら8000字近くになった。どうして。

「五条悟と夏油傑の『青春』の話」と「夏油傑の差別感情の話」の続きなので、先にお読みいただくとわかりやすいと思います。

(ちょっと矛盾していることを書いているような気がしますが、気が変わったということでお願いします。そのうちまとめて修正します)

五条の「青春」とは

五条にとっての青春はモラトリアム期間だという話を上記の記事でしたが、そもそも彼にとっての青春は、ひどく歪な形をしている。

五条の世界はとても狭い。古い呪術師の家系(たぶん直系)に生まれて、義務教育も受けていなさそうな五条にとっての青春は、青春は夏油と硝子(と七海たち一握りの先輩後輩)しかいない。
硝子は全く詳細が出てきていないけれど、夏油は(生真面目な性格の割に素行が悪そうだが)一般家庭出身で、五条よりもたぶん世俗に詳しい。両親とそれなりに良好な仲のようで、高専に入るまではごく普通に生活を送ってきただろう。実は非術師に排斥されていて、彼らを猿と蔑む原因になったかもしれないけど、少なくとも置かれた環境としては「普通」を知っているはずだ。
(夏油の過去次第でいろいろと解釈が変わるので、早めに明かされてほしい)

五条は高専を卒業すれば、呪術師として、五条家の人間として行動を縛られる。生まれた時から引かれた一本道を歩むしかない。それ以外の選択肢は初めらから取り上げられている。
世界が閉じているのは、五条の方だ。

五条を見ていると『とある魔術の禁書目録』の一方通行を彷彿とさせる。繰り返される「最強」と、敵意あるものは指一本触れることもできない能力なんかがそっくりだ。一方通行の能力の本質(加速器、アクセラレータ)が現象の観測・解析・再現だったあたりもちょっと六眼っぽい。
一方通行は孤独のさなかに置かれたせいでコミュニケーション能力の欠如が著しく、人との距離の取り方がわからないところがあったが、五条にもそんな気配を感じる。

彼の言う「青春」とは、「普通の青春」への憧れが多分に含まれているのだと思う。だから若人には「青春」を与えてやりたくなるのだ。自分の青春――「五条」から解放された「悟」でいられた期間は、惨憺たる有様で終わってしまったから。ただのモラトリアムとして、何も考えなくて馬鹿げたことができる日々こそが大切だから。


五条の「心」について

真人(とそれに影響された順平)は人の心を魂の代謝と呼び、まやかしと形容した。これはむしろ五条の方に当てはまると思う。

五条の軽薄で胡散臭い態度は「人の振り」ではないかと思う時がある。
本来の五条は冷酷さを兼ね備えている。強い呪霊を祓う際にある程度の犠牲を想定しているし、自分にとって重要ではない赤の他人は、数で捉えているような節も見受けられる。
以前、五条は人間関係に順位付けが行えるタイプと書いたけど、教団の教徒を殺そうとあっさり提案できたあたりからもそんな気配がした。

情がないわけではない。現に、出会って間もない虎杖の死に際して本気で怒っている様子を見せた。
でも、虎杖を純粋に自分の生徒としてかわいがろうとしていた以外に、虎杖を上層部への切り札としていた冷徹な打算もなかったとは言えないだろう。無機質な本質を情で覆い隠しているのではないか。

高専時代の五条はあまりにも表情が豊かだ。いっそ過剰なほどに。
口も態度も悪く、ぎゃあぎゃあと友人と騒いで先生に怒られている。とても良家の子息らしい振る舞いではない。というより、露悪的にすぎる。まるでわざと反抗的に振る舞って周囲を試しているようだ。
(思春期にこういう態度を取ること自体は別に不思議ではないと思います)

その態度は、高専を卒業して教職に就いても直らない。世界のすべてに牙を剥くような思春期の不安定さは表立っては鳴りを潜めたが、いい年をした大人の振る舞いには見えない。
先日のアニメ9話がそうだったが、七海に対して下ネタを言って気を引こうとするなんて小学生男子じみた幼さだ。(10話もちょっと意味がよくわからないですね・・・・・・)
でも、本人の情緒があまり育っていないのであれば納得できる。
あえてそういう振りをしている線も十分考えられるが、どちらにせよ、大人にはなりたくないのだろうと思う。物わかりがいいだけの大人には。

もしかしたら、高専で夏油たちと接して、人の振りを始めたのではないか。人間らしさを取り繕った表層の人格が、あの軽薄で傲岸不遜で傍若無人な態度ではないか。

心は目に見えない。態度や振る舞いや表情、あるいは言葉尻から推し量るしかない。
そのひとつの表情は、一種の学習の産物だ。狼に育てられた双子は表情が乏しかった例からわかるように、感情の表出にはインプットが必要になる。ある状況下でするであろう反応を学習し、そのように感情を表現する。
五条の過剰なほどの豊かな表情は、心の動きが乏しいが故に、誇張して表出しているからではないだろうか。

甚爾に直球で「化物」と呼ばれたように、五条は人間扱いされていない。数百年ぶりの六眼と無下限呪術の抱き合わせとして、実家では下にも置かない扱いをされているだろう。
(五条悟の誕生によって廃嫡された兄がいそう。無下限を持っていて、人格は比較的ましだったから悟をそれなりに可愛く思ってしまって、そのせいで苦悩して悟の物心つくかつかないかの頃に自殺していると地獄感が増していいと思います)

夏油はほぼ間違いなく初めての対等な存在――友人で、夏油たちを通して人としての振る舞いを学んでいた部分もあるのではないかと思う。化物として生まれ落ちた五条悟を、あの軽薄かつ不遜な態度を取ることで人の形に押し込めている、みたいな。

しなしながら、無下限呪術の完成によって、人の形から再びはみ出してしまった。
五条には人の心を推し量る能力は求められていなくて、だからそういう方面を育てられなくて、五条と夏油は決定的に決裂した。

有り体に言って、五条は人の心がわからない。唯一の親友と呼んだ夏油の心を、とうとう理解することはできなかった。
五条がいなければ、夏油は「俺(私)たち最強だから」だなんて無謀な万能感を抱かなくて、何でもできるだなんて錯覚することはなくて、無常な現実を直視し失墜することもなかっただろう。
夏油は二人で最強だと思っていたから、一人で最強に成ってしまった五条に、どれだけ二人組のつもりでいたとしても結局、自分は五条の隣に並び立つ存在ではなかったんだと突きつけられて、ますます心が離れていったのだろう。
そういう心の機微は、五条にはわからない。そういう風に育てられていないから。人との関わり方は、人と関わることでしか学べないので。
閉じた世界に生きてきた五条には、呪術の研鑽よりもはるかに難しい。

いやはや、コミュニケーション能力を育てられていないと大変なことになりますね。自業自得だけど、やはり環境的な要因は否定できないし、そういう意味では五条も血統と術式に振り回されて不幸なのかもしれない。本人は自分を不幸だなんて思っていないでしょうけど。

親友を殺してみせたところで、五条は壊れたりしない。この世でもっとも頑丈な存在みたいに、彼が最も価値を高く置いていたはずの夏油でさえ、五条を壊すことはできなかった。

親友が裏切るなんてこれっぽっちも思っていなくて、本当に信頼していたけど、いざ殺してみても明日は永遠に続くし別にそれで心が折れたりしなくて、相変わらず最強の名をほしいままにして普通に立っていられるのに、ふとした瞬間に隣に立つ人が永劫に失われたことを思い出して寂しさを覚えるくらいの冷淡さがあるんじゃないかと思う。
表層の情は傷ついても、深層では判断を過たない。それが正しかったと知っている。けれど、無機質なほど冷徹に判断を下すくせに、情は捨てないのだ。
無下限呪術の完成で肉体的に傷を負うことのなくなった五条に唯一傷を負わせ、永遠に消えない傷跡を刻んだ夏油は、傷ではなくて、もう傷跡なのだろう。
逆に言えば、唯一の親友たる夏油だからこそ、傷跡を残せたのだけれど。

五条のわざとらしいほど軽薄な態度は夏油が去った後でも、夏油を殺した後でも継続している。まるで青春の残滓を引きずっているかのような。人の振りをしていたら人になってしまったような。

超絶箱入り息子の五条は、学生らしい楽しいことも悪いことも、お菓子の味も、全部夏油から教わっているといい。
煙草だけは硝子から教わったけど、不味くてすぐ捨てていそう。たまに硝子の煙草に手を出しては「こんな不味いもんよく吸えるね」って言って、硝子に煙を顔に吹き付けられていると思う。二人きりになった部屋で、一人分の空間を空けて。

「人の振りをした人ではないもの」だった五条に、人としての振る舞いを教えて、そういう自覚を持たせたのが夏油だったかもしれない。
そう考えると、一生懸命に人の振りをしているいじらしさみたいなのを、ちょっと感じないでもない。


呪術師にとっての「意味」、あるいは規範の話

天に二物も三物も与えられた五条が唯一持ち合わせていないのはまともな人格だが、その代わりに五条を縛り、人たらしめているのは「規範」なのだと思う。

「コイツら殺すか? 今の俺なら、多分何も感じない」
「いい。意味がない。見たところここには一般教徒しかいない。呪術界を知る主犯の人間はもう逃げた後だろう。懸賞金と違って、もうこの状況は言い逃れできない。元々問題のあった団体だ。じき解体される」
「意味ね、それ、本当に必要か?」
「大事なことだ。特に術師にはな」

天内理子が死ぬ原因になった教徒たちを殺そうと提案する五条を、夏油は止めた。感情の赴くままに殺したところで「意味がない」からだ。
ここで言う「意味」とは、一般人に手を出しても天内理子は戻ってこない、成果が得られないということ。何をしても戻らないのだから、法に悖る行為は許されない。「意味」もなく破れるほど法は緩くないからだ。
(戻ってくるなら、もしかしたら、殺してしまったかもしれない。でも、この時点の夏油に法をはみ出す覚悟はまだないだろう)

この場面の「今の俺」――すなわち術式の核心を掴んだ五条は、人の理を外れかかっている。だから、人の心は機能を停止し、何も感じない。天内理子のために怒りを感じない。意思がないわけではないけれど、その意思は人の心を置き去りに、人外じみた発想をする。
元より人外であった本質を押さえ込んでいた箍が外れかかっているようにも見えた。

呪術師が必要とする「意味」とは、ともすれば人知を超えた力で暴走しがちな呪術師を人の領域に留めるための枷なのだと思う。深淵を覗く呪術師が深遠に飲み込まれないための命綱、呪いという怪物に身を落とさないための砦。
法で裁けない呪霊を相手にする呪術師たちは、法でなくて「意味」を必要とする。
「意味」とは、人やら法やらを守るために必要とされる理由付け。社会の一員として生きていくための行動指針と言ってもいいと思う。
呪術師だって社会を構成する一要素でしかなくて、呪術師だけで社会を存続させることはできない。

血筋と才に恵まれ、何でもできる五条は、周囲に畏怖されているはずだ。指先一つで日本を壊滅させるような奴には、何かをしでかさないための枷が必要になる。それに相当するのが「意味」、ある種の規範だろう。

前述した『とある魔術の禁書目録』の一方通行は、すべてに対して無関心な態度を取ることによって、他者を不用意に傷つけないようにしている側面があった。凶悪きわまりないベクトル操作能力は普段は『反射』に設定されて敵意を跳ね返すだけで、敵意のない者には何も発動しない。
五条にもそういう側面があってもおかしくない。

そもそも、五条にはこの世の人間はみな有象無象と認識しているようなところがある。高専の友人、先輩、後輩、先生などのごくわずかな一握りの知り合いだけが、五条にとって価値のある命だ。
だから、「何も感じない」状態の方が、実は五条にとっては自然なのではないかと思う。

五条に期待されているのは血統と術式であって、本人ではない。このへんが伏黒と共通しているというか、術式が遺伝性である以上、そうなるしかない。
社会的に良識ある人格などというものは一銭の価値もなく、せいぜいが五条家の人間としてふさわしい振る舞いくらいだろう。それにしても教育が偏っているように見えるけれど。
(肉体と魂と心の話は別記事で詳しく書きます)

五条は非術師を「猿」とは呼ばない。蔑むこともない。自分以外のすべてが等しく無価値だから。そこに呪力の寡多だとか術式の有無だとかは関係ない。現代で唯一、無下限呪術を完璧に扱えるSSR六眼を持って生まれた五条にとっては瑣末な差異だ。
でも、夏油が虐殺を引き起こしたことを、五条は間違っていると判断する。唯一の親友よりも社会的な正しさ――規範に従う。
化物を人の形に押し込めて社会につなぎ止めるための楔が、五条には深く打ち込まれている。ノブレス・オブリージュにも似た義務感を負って、それを義務とも思わず、ひどく無機質に選択する。
規範を執行する機構じみて、あまりに強固な規範意識だ。

五条にその気があれば、逃げ出すことだってできる。追っ手は五条より弱いのだから、逃避行が失敗するはずもない。でも、そうしない。モラトリアムを楽しんではいても、その先から逃れるつもりは皆無だ。
口では夏油の綺麗事をポジショントークと言って嫌っていたけれど、彼は誰よりも、社会の枠組みの中で生きなければいけないことを理解している。それこそ、夏油よりも。
(一方通行の話をすると、彼もまた、自分以外の人類がいなくなった世界では文明的な生活が営めないなどと言ったりするので、「最強」を冠するキャラクターは得てしてそのような性格になりやすいのかもしれない)

一人で完結する生き物として生まれ落ちた五条悟は、己を社会性の生き物に規定している。健気なほどに。


「最強」に負わされる義務

五条は術式の核心を掴んだ時、「天上天下唯我独尊」と言う。本来の意味よりも世間に流布した「自己中」的な意味合いに最初は見えたが、やはり本来の意味のほうなのかもしれない。

「唯我独尊」とは、「唯だ、我、独(ひとり)として尊し」との意味であり、それは、自分に何かを付与し追加して尊しとするのではない。他と比べて自分のほうが尊いということでもない。天上天下にただ一人の、誰とも代わることのできない人間として、しかも何一つ加える必要もなく、このいのちのままに尊いということの発見である。しかも、釈尊は生誕と同時にこの言葉を語られたと伝えられている。これは、釈尊の教えを聞いた人々が「釈尊は、生涯このことを明らかにせんとして歩まれた方である」という感動を表現したものである。
http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000qsb.html

Wikipediaの方では、「欲界・色界・無色界の三界の迷界にある衆生はすべて苦に悩んでいる。私はこの苦の衆生を安んずるために誕生したのだから、尊いのである」という解釈が載っている。
「五条悟だから最強なのか? 最強だから五条悟なのか?」はこのへんと対応しているようにも読める。

肉体と血に付与された術式と六眼は、五条悟と区分することはできない。肉体のない五条悟は五条悟ではないからだ。
呪霊と違って、人はみな肉体を備え、肉体のない者は人ではない。
(この話も別記事で詳しく書きます)

最強ということは、責任を負わされるということ。何でもできてしまうから、何かをしなかったことにさえ理由と責任を求められる。
伏黒の「救う範囲」について、人生は選択の連続で、選び、選ばなかった責任を負う必要があると書いたが、五条はその幅があまりにも広い。そして、それを抱えて壊れずにいられるほどの強靱さがある。一人で世界を背負わされてなお、しっかり背筋を伸ばして立てるほどの。

何でもしないようにしている、というのは、一人だけ強くても意味がないということなのだろう。誰も彼もが五条に頼ってしまってはいけないから。「俺だけ強くても意味がないらしいですよ」と彼は言う。五条が最強であっても、世界は五条一人で成立するわけではない。

夏油は正しく天秤を持とうとしているのではないか、と以前書いた。裏を返せば、夏油は天秤を持って生まれなかった。
あらゆるものを平等に計るためには、人であってはならない。心を持ってはならない。心は情であり、情は人を惑わすからだ。
だから、天秤を持っていたのは五条の方だった。たった一人の親友すら天秤に載せることを厭わない冷淡さを備えて。冷酷と言ってもいいかもしれない。
五条は夏油と非術師を天秤に乗せ、非術師を選んだ。非術師を愛しているがゆえの行動ではない。博愛主義が誰も愛さないように、五条は冷徹に平等だ。親友さえも例外ではなかっただけ。

天内理子に同情していたのは、五条の方だったのだと思う。生まれた時から定められた道。自分は他とは違う「特別」な存在と言い聞かされ、育てられる。
「特別」がいいとは限らない。「普通」にこそ与えられる平穏とは無縁だからだ。だからこそ、青春へ憧れる。何もかも与えられた「特別」な五条には、決して手に入れられないから。

ことあるごとに五条をたしなめていた夏油は、一八〇度転換して違う「意味」を選択してしまった。
残された五条は、対して価値も見いだしていないくせに「意味」を――規範を守り続けている。全く正気のまま、先陣を切って積み上げた屍を踏みしめて一歩ずつ地獄へ登っていく。
口先では反抗的だった五条の方が、人として正しい判断を下すのだ。
自分は「最強」だと、五条はことあるごとに口にする。自慢でもなく事実を述べる風に。そこに気負いはない。ある種、救世主の役割を負わされているようにも見えるのに。

たぶん、五条の一回目の我が儘は高専東京校への入学で、二回目が教職に就くことなんじゃないかと思っている(東京の高専に来て一生懸命、京都訛りを直す五条がどこかにいるといいなと思います)。
自分がまともな教育を受けていないくせに教育者になろうだなんて、って嘲笑を浴びながら「一人だけ強くても駄目だから」と全然向いていない方向に強引に進んでいったんじゃないかと思う。それを可能にするほど才に溢れていたのは幸か不幸か。

無機質な本質を覆い隠すまやかしの心を、五条はまやかしではないように装って、自分の一部としているのではないか。
だが、まやかしが本物のように見えたなら、それは本物と何が違うのだろう。人間は「本当の自分」一人だけではなくて、複数のペルソナを使い分けている。表層の人格だって、自分の一部だ。
人の形をして、人と同じように振る舞うのなら、やはりそれは人なのだと思う。


そろそろ矛盾点がありそうで加筆修正の必要が出てきたのと、縦書きオールド系明朝体を愛してやまないので、今までの呪術廻戦の記事(とこれから書く順平と真人の話)を大幅改稿して本にしたいと思います。
1月24日エアブー発行です。電子版と紙版の両方を用意しますので、よろしければどうぞ。



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