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ここにいても、いいですか

普段使っている言葉で、人生も成功も変わります」

有名な実業家の言う通り、私の外資系社員としての生活は「言葉」で終わってしまった。

暴言を吐いて解雇されたわけではない。ただ、自分が同僚に対して思ったり、時折口にしていたネガティブな発言の数々が積み上がることで、私は自ら社内での居場所を徐々に壊していき、被害者意識にまみれて退職することになった。今年の七月のことだ。

三年前に結婚した夫には、年齢のことも考えて一度不妊治療に専念したいから、と退職の理由を説明して、承諾を得た。それまで人工授精を何度か試してはいたし、まったくのでまかせではなかった。

こうして専業主婦となったわけだけれど、失ってみてはじめて分かる会社員でいることの有難さの数々と、人生100年だとしたら、これから60年もある先の生活への不安が一気に押し寄せてきて、軽々しく会社を辞めたことへの自責から、生まれて初めて「これが鬱?」という状態に陥った。

何より自分を苦しめたのは、過去の自分の愚かさだ。

思い返せば恵まれた環境を与えられていたのに、感謝を忘れて、同僚に優しくするという人間としての基本中の基本すらできていなかった。

「驕った人間は、40歳以降人生を転げ落ちていく」。冒頭の実業家も、そう言っていた。

私もこのまま落ちていくのだろうか?そう思うと恐怖と不安が全身を支配し、体外受精に取り組もうとしているにも関わらず食欲が落ち、不眠症になった。そして、そんな自分を嫌悪する日々。

思い余った私は、海外の元上司にメールを送る。「どうか、復職させてほしい。もし戻れたのならば、態度を改めて、同僚が一緒に働くことができて幸せだと思えるような存在に絶対になる」と。

一週間後に来た返答は、NOだった。

元上司とは来日する度に一緒に飲みに行く仲だったため、私はほぼYESだろうと踏んでいたこともあり、復職の依頼をしたから会社に戻るかもしれないと予め夫には伝えていた。

それが、NO。

ダサいねー。惨め。何やってんの?

自分を責める言葉が、とめどなく溢れてくる。

絶望感で目の前が真っ暗になったものの、結果が分かったら知らせて、と言っていた夫に努めて軽い調子でLINEした。「断られちゃった。やっぱり出戻りなんて都合よすぎだよねー」。

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夫の前では、普通でいること。

退職以降、それだけは厳しく自分に課していた。

リモート勤務もなく、中小企業で忙しく働く夫に対して、自分の意志で仕事を辞めた妻が家の雰囲気まで暗くしてしまっては、存在価値がゼロどころかマイナスになってしまう。

心配させないように、一緒に食事をする時は笑顔で無理やりごはんを流し込み、眠れなくてもベッドから出ず、眠ったフリをしてじっと朝を待った。復職でこの状態から抜け出せると思ったのに・・・。

「こんな有り様じゃ子供もできないかも。いや、できたとして、お金は大丈夫かな?今の1LDKのマンションからは引っ越さなきゃいけないし、私いつから仕事できるかな?というか、もう正社員で雇われることは無理なんじゃないの?どうなるの老後・・」

とめどない不安の嵐に必死で蓋をして夕食を作っていると、夫が帰ってきた。ハーフボトルのシャンパンを持って。

「え・・どうしたの、それ?」

「ん、まぁいいじゃん」

ほかほかと湯気を立ててる白米とお味噌汁、豚バラのオイスターソース炒めが並ぶ食卓で、スーツから部屋着に着替えた夫がシャンパンをグラスに注ぎながら言った。

「俺はね、会社に戻れなくて良かったと思ってるよ。不器用なくせに、頑張り過ぎなんだよ。何をそんなに心配してるかわからないけど、まぁ飲んで。一人じゃないんだから、手を取り合いながらやっていこうじゃないか。はい、乾杯」

私に渡したグラスにカチッと自分のグラスをぶつけて、夫は美味しそうに、普段は飲み付けないシュワシュワと泡が舞う金色の飲み物を口にした。

夫はどうやら私の様子がおかしいことに気づいていたらしい。彼の優しさに、強く押しとどめていた心の堰が崩壊していく。

仕事を辞めたのは純粋に妊活のためではなく、自分の未熟さが理由だったこと。井の中の蛙で天狗になりきっていた、恥ずかしい人間だったこと。コロナで先行きが見えないこんな状況で一人家計を背負わせてしまって、本当に申し訳なく思っていること。自分はあなたが考えているほど社会人としてのスキルがないので、以前ほど稼ぐことは二度とできないかもしれないこと。子供はほしいと思っているけど、こんな後悔や心配ばかりしている母親なんて、赤ちゃんは選んでくれないよね・・本当にバカでごめんなさい、ごめんなさい。私はグラスを手にしたまま、泣きながらまくし立てた。

思えば、夫の前で泣くのは初めてだった。一日のハードワークの末に帰宅すれば、大泣きする四十歳の無職の妻。とんだ悪夢だ。

そんな私を見つつ、彼はにやりと笑いながら言い放った。

「いいんだよ。結構ね、その不安定なとこが面白いよ。一緒に暮らしてると」

「・・・何よそれ」

片手でぐしゃぐしゃになった顔を押さえながら、私も少し笑っていた。

笑ったついでに、シャンパンをひとくち。ちょっと泡が抜けてしまったけれど、夫のいない日中はほぼ何も食べていないため空っぽの胃にはちょうど良かった。そして、シャンパンと豚バラは意外によく合った。

きっと会社で辛いこともあるだろうし、先々の展望がそう明るい業種にいるわけではない夫が、微塵の憂いも見せずに私を励まそうとしてくれている。

結婚してすぐに二人で選んだペンダントランプの柔らかな光の下で、全身に充満していた不安が少しづつ温かいものに押し流されていくと同時に、「この人が苦境に陥ったら、私は犯罪以外なんだってやってやる」、そんな覚悟が沸々とお腹から湧いてきた。

この不意打ちシャンパンナイト以降、徐々に食欲も戻り、眠れるようになった。もうすぐ培養してもらった胚を体内に入れるので、万全に身体を作っていかなくては、と張り切っている。

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不安はいつでもまだそこにいるけれど、きっと誰しもそうなのだろう。こんな時代に100%の安定なんてどこにもない。放っておくとついネガティブな方向へ流されてしまう心をつなぎ留めながら、今日という日を懸命に生きている。

だからこそ、これから関わるどんな人にも、もっともっと優しくなろうと心に決めている。これからは、ポジティブな言葉だけを口にしよう。周りの人を笑顔にしよう。1LDKの、私たちの小さな食卓をその源にして。


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