多拠点生活プラットフォームを1年利用してみて感じたこと。
この1年間、多拠点生活プラットフォーム「ADDress」を利用して生活していた。
以前、約1ヶ月利用した際に感想を書いたが、今回あらためて1年間の感想を書いてみようと思う。
この1年間で自分の感覚はどのように変わったのか?
今回はその確認。
多拠点生活をやってみた感想
とりあえず、心は豊かになった気がする。
今まで出会ったことがないような人達と出会い、会話して仲良くなったり、一緒にごはんを食べたり遊びに行ったり。
知らない土地に行き、知らない道を通り、知らない店に行き、知らない景色を見る。
多拠点生活を始めると、いわゆる旅で体験するようなことを日常的に行うこととなる。
そういった環境に置かれれば、おのずと心は豊かな方向にいくものだと思う。
計画などは立てずにうろついて、偶然の出会いを楽しむ。
全く知らない人と意気投合し、新たな活動がはじまる。
このような生活は、ある種の幸福感をもたらしてくれた。
もちろん、予想外のアクシデントにあったり、散財したり、ムカつく奴もいたりと、良いことばかりではないが、それも含めて人との関係性が心を豊かにしていく。
といった感じは、1ヶ月間も多拠点生活をしていれば感覚的に掴めていく。
多拠点生活を1年間やってみた感想
ここからは1年間多拠点生活をやってみた感想を書いていく。
ただ、あくまでも僕個人が感じた感覚なので、決して「多拠点生活を続けていくとこうなる」といったものではない。
多拠点生活を1年間続けてみて、得た感覚とは?
端的に言うと、自分が何者かよく分からなくなった。
初めて出会った人に「どこから来たの?」と聞かれても、何と言えば良いか迷う。
出身地を言ったり、メインで居住している場所を伝えることになるのだが、それもどこか違和感がある。
自分というアイデンティティの置き場が無いような感覚。
当然だけど、自分の家や部屋を所有していないので、基本的には借り物の部屋で生きている感覚がずっと続く。
もちろん、職業であったり信条や趣味であったり、自分のアイデンティティを置いておくものは土地だけではない。
しかし土地に関しては、自己を置いておく対象を失うことで、本当に不思議だが、自己を担保する何かが薄れていく感覚がある。
孤独というわけでもない。
むしろ圧倒的に関わる人は増えたし、多様になった。
しかし、常に自分はよそ者なのだ。
その自覚が、土地へのアイデンティティを失わせていく。
そして帰る場所もないので、自分が何者かも分からなくなる。
正直この感覚は言語化が難しいので、この表現が適切か分からない。
ただ、そういう微妙な感覚を抱えながら生きているのは間違いない。
もうひとつ補足すると、それはそれで面白い、と個人的には思っている。
人は個体ではなく集合体ではないのか?
この感覚をもとに、一つの仮説が生まれてきた。
それは、
人、そして自己というのは、身体的な個体だけではなく、自分が相互作用している土地やコミュニティなどの集合体も自己ではないのか?
もっと正確にいうと、相互作用している関係性そのものが自己ではないのか?
という仮説である。
人は自己というものを、自らの個体単体だけでは、なかなか感じ取ることができない。
なぜなら、人は集合体の関係性の中で、自己を認識していくから。
渋谷に住む人なら、渋谷の〇〇さんだし、青森に住む人なら青森の〇〇さんなのだ。
しかし、土地に帰属していない自己は、単に〇〇さんとなる。
ちなみに、名前もなければ、もはや自己を表す言葉すらよく分からなくなる。
「わたしは、わたしです。」
極端な話だが。
自己を認識するための関係性というものが人にはあって、それを失ったり認識しにくくなると、自分が何者かよく分からなくなる。
そのため、自己を置ける土地を見つけだし、そこにある程度住み着く、という生活にシフトするのも有りだと思う。
そうやって自己を取り戻すのだ。
この仮説に関しては別のnoteにも書いた。
しかし、自己を集合体の関係性そのものと見た場合、個体としての悦びはどうなる?
先程の仮説を色をたとえにしてまとめると以下のような感じになる。
・自己を個体とした感覚は、ある特定の色に染まった状態(単色)
・自己を集合体の関係性とした感覚は、複数の色がうごめいている状態(多色のうごめき)
単色としての悦びは、自分の色が世界に大きく存在し、固定化されていくこと。
これはわかりやすい。
現代社会での成功、みたいなものだ。染まって染めれば良い。
では、多色のうごめきとしての悦びは何か?
自己は常にうごめいているから固定化はできない。
多色のうごめきとしての悦びは、いかに美しいうごめき(自己)であるか。
すなわち、いかに美しい関係性で生きられるか、だと思う。
何を美しく感じるかは人それぞれだが、その美意識を元に、最高の美しい瞬間を目指す。
最高の美しさに出会ったら、また次なる美しさへとうごめきだす。
その有限性に宿る美しさと無限にも思える自己の拡張を繰り返すことが、本質的な悦びなんだと思う。
***
単色とは、ある特定の価値観を、全世界の唯一なものとして捉えるオンリー思考と言える。
多色のうごめきとは、ある特定の価値観を、無限に拡がる全世界の一部として捉え、複数の価値観と共存していくウィズ思考と言える。
最近では資本主義がこの世界を崩壊へと向かわせている元凶だ、みたいな文脈の意見をよく見るが、本質的には資本主義が悪いのではなく、資本主義を唯一のものとして捉える視点が問題なんじゃないかと思う。
世の中がある特定の価値観だけで構成されているという視点・オンリー思考が、抑圧と反発という永遠に終わらない争いを生み出す。
本当は資本主義の文脈以外の世界は無数に存在しているのに、
そして本当は自分たちも資本主義以外の世界に触れているのに、だ。
ちなみに、このオンリー、ウィズの考え方は、Chim↑Pomの卯城さんが書いた文章に超超超影響を受けて使用している。
オンライン上に自己を置くことはできないのか?
かなり話が脱線してしまった。
ちなみに、自己を置ける土地を失った対処として、オンライン上に自己を置いてみようとしたこともある。
具体的には、多拠点生活プラットフォーム内にはFacebookグループ上でのコミュニティもあり、そこに自己を置いてみるという作戦である。
同じような生活様式をしている人間同士のオンラインコミュニティなので、遠隔でもどうにかなるんじゃないか、という発想である。
しかし実際に試してみた結果、うまくいかなかった。(あくまでも個人的な感覚だが)
やはり一緒にフィジカルな空間を共にして生活していないと自己は置きづらいな、というのが率直な感想。
むしろ、無理に自己を置こうとして関係性を深めようとすると、予想以上にいさかいやすれ違いが生まれ、自己を置くどころか関係性を断ち切ってしまう方向に動いてしまう。
つまり、境遇が近い仲でも、空間を共有している「身体性」があるかどうかで、関係性に自己を置けるかどうかが変わってくる。
この「身体性」というのは、かくも偉大で僕らの理解を飛び越えた存在なのだな、と思わされた。
僕たちの身体は、無数の感覚がオルタナティブに存在している、という事実を体験として教えてくれる。
ちなみに、オンラインは視覚情報と聴覚情報しかやり取りできない、という意見をよく聞くが、さいきん違和感を感じるようになってきた。
僕は、オンラインでも文脈を通して、触覚や味覚嗅覚に影響を与えることはできると考えている。
たとえば、オンライン上でエッチな話を共有すると、視覚でも聴覚でもない別の感覚器が刺激されたりする、とかだ。
(刺激の強いものは空間を飛び越えやすい…?)
以上のことを踏まえたうえで、個人的にオンラインで自己を置くとしたら、コミュニティの人数は少ない方が良いように感じる。
5人程度の、プロジェクトなどの目的を共にしている関係性。
つまり、中心に何かを置いた小集団であることだ。
そして、中心に置くものは、青リンゴの精神が良いと考えている。
青リンゴの精神についてはこちらのnoteに書いている。
青リンゴの精神とは、僕らが個々に感じていながらも暗黙的に共有する“ホンモノ”のことだ。
それは、趣味でも信念でも仕事でも家庭でもいいのかもしれない。
あとは、認識しやすいかどうか、人口的なものかどうかで、うごめきのデザインは変わってくる。
土地というのは、そういう意味でとても認識しやすいホンモノなのだ。
ついでに、ホンモノについてのnoteも貼っておく。
だんだん文章が意味不明になってきたかもしれない。
まあいいか。
共異体という概念
さっきから、集合体での関係性自体が自己である、という考えについて書いてきたが、この考えを表す概念を考えてみた。
それは、「共異体」という概念。
元々は昔読んだ記事の中に出てきた言葉なのだが、非常に印象に残った言葉なので使用させてもらう。(記事の内容は忘れてしまったが…)
異なることで自己を認識し、共にいることで意味を生み出し、体をなす存在。
それが共異体としての自己であり、人の正体だ。
…と思う。
外に開かれた内向きの文化
ここからは共異体とは別の気づきについて書いていく。
何箇所かの土地を訪れていると、強い感動を覚える時とそうでもない時がある。
感動を覚える場所とそうでもない場所の違いとは、何か?
それは、その土地に文化があるかどうか。
もっというと、外に開かれた内向きの文化があるかどうか、である。
その土地で内向きに醸成されていった営みとも言える文化があり、
外から訪れた人もその文化に参加できる状態があるかどうか、ということ。
僕はドネスティックな文化に入りこめた時に、感動や高揚感、そして幸福を感じる。
例えば、外に開かれていない内向きの場所とは、どういうものなのか?
最近では地方の空き家などを活用して、とても雰囲気の良い家が作られていたりするのをよく見る。
そういうところは写真の見栄えもよく、いかにも文化を感じさせる雰囲気の建物にワクワクさせられる。
…が、それだけで終わったりする。
ひととおり部屋や近所の写真を撮って、食事をしてみて終了。
その土地に滞在している間、誰とも出会うことなく、誰とも話さずその場を去る、なんてこともある。
外から来た人間が文化を感じにくい。
実際には地域文化があるのかもしれないが、外に開かれている状態ではないと文化は感じ取れないのだ。
まあ、積極的に自分から入っていけば案外受け入れられたりもするので、このバランスは微妙なところだが。
逆に、外に開かれてはいるが外だけを意識した場所もある。
ホテルのように、外から訪れた人を顧客として扱い、満足度ような指標を追う。
おすすめの観光スポットも整備されており、人との会話は客と店員という関係性から脱却しづらい。
こちらの場合でも偶然の心地よい出会いは生まれにくい。
内向きのコミュニティに触れさせてもらえないからだ。
カウンターで作られた笑顔を見せられるより、裏口で一緒にタバコを吸いたいのだ。
***
別に完璧である必要はなく、おもてなしがあるのかないのかよく分からない、建物もよくみるとボロが出てたりしていても、そこに文化を感じ取り、うごめきとして参加することができれば、それはかけがえのない価値となる。
見知らぬ人と出会い、旅人と地域のコミュニティが混ざり合って交流する。
謎の宴会が始まって、朝まで熱く対話する。
内向きのコミュニティでドネスティックな営みが存在し、なおかつ外から来た人が参加することもできる。
このバランスが重要なのだ。
だからこそ、面白い人が集まるし、出会って心を通わせられる。
シェアリングエコノミーには、プラットフォームが必要なのか?
今後、個人的にはプラットフォームにこだわらず、ゲストハウスなどを通して自分独自の多拠点生活を探していこうと思う。
これは多拠点生活に限った話ではない。
いわゆるシェアな生き方に関しては、プラットフォームで準備されたものでもいいのだが、究極的には自らの関係性を拡張していくことで自ら創造していくことが豊かさに通じると思うからだ。
理想は自分の美意識に忠実なうごめきを描くこと。
価値とは関係性のことであり、そこに何を流通させるのか、何で認識するのかであり方が変わる。
お金を乗せれば経済活動になるし、余剰の物と併せて乗せればシェアリングエコノミーになる。
そこに何を乗せるかはそこまで重要ではなく、自己となる関係性の拡張こそが重要なのだ。
そして、その関係性にホンモノを乗っけることで、うごめきは美しさを生み出していく。
なので、自ら創造したいと思っている。
本質的にプラットフォームに求められているのは、顧客同士のコミュニティでもLTVでもカスタマーサクセスでもなく、自己となる関係性の拡張を支援していくことなのだと思う。
同じ枠内に生きる続けると、緩やかな絶望がおそってくる。
とは言っても、プラットフォームは拡張のきっかけ作りには最適なので、
多拠点生活、シェアな生活をしてみたい方は、まずプラットフォームを利用した方が圧倒的に良いし、何より早くて安心。
そう考えると、プラットフォームサービスのメタファーは街ではなく、トンネルなのかもしれない。
プラットフォームとは何なのか?
そもそも、プラットフォームとは何なのか?
昨今注目されているプラットフォームとは、GAFAを代表とするようなテック企業が構築した世界の文脈だと、個人的には思う。
Googleはインターネット検索のプラットフォーム、Facebookでは個人情報のプラットフォーム、といったように、あらかじめ用意された世界で対象となる情報をやりとりする。
プラットフォーム上でやりとりされた膨大な情報は、そのプラットフォーム自体の価値を上げる。
そして、人々もプラットフォーム上での情報流通の便利さを享受する。
そのようなモデルを、情報などの無形資産から物や空間などの有形資産に置き換えたものがシェアリングエコノミーという名のプラットフォームビジネスだと思う。
有形資産なので、基本的に物理的なものをやりとりする。
物理空間でのやりとりになる分、より、中での関係性が重要になってくる。
プラットフォーマー達はそのやりとりをどうやったら円滑にできるのか、どうやったら多くの人が良い関係性を構築できるのか、と言ったところを日々アップデートしているわけだ。
その便利さがあるから、この世界(プラットフォーム)により多くの人がより長く留まろうと思う。
それがいわゆるネットワーク効果というやつで、プラットフォーマーに恩恵を与えていく。
ネットワーク効果を得るには、コミュニティが重要、居心地の良さが重要、安心感が重要、となるわけだ。
そのためか、プラットフォームは街としてのメタファーで語られることが多い。「これからの時代の、新しくて居心地の良い生き方ができる街があるから、みんなそこに住もうよ」ってやつだ。
たしかに、居心地が良いし、新しい生き方・最先端の世界にいるようなキラキラした感覚で、高揚感も得られる。
しかし、街をメタファーとした世界は、個人的に違和感を感じるようになってきた。
違和感を感じるのはなぜか?
その世界が唯一の世界で、その中に適合できるかできないか、それによって居心地の良さが決まる。
というオンリー思考が、プラットフォーマーの意思とは関係なく勝手に蔓延していくからだと思う。
あくまでも僕個人の感覚だが。
しかし、人は個体ではなく共異体。
異なるもの同士が共にいる存在なので、全ての人がその用意された世界に適合できるなんてことはない。
適合できない人はどうなるか?
その空間に適合するために自己を抑制するか、逆に反発するかだ。
そして、その抑制と反発は、争いやヒエラルキーを生み出していく。
まさに現代社会の縮図。
そして、このプラットフォームの世界は唯一なものではない、と気づいた人たちがあふれ出ていく。
街の価値感は、多くの人が長く居ることだ。
プラットフォームはその価値を求めて、器の大きさや深さを追求する。つまり大きくして存続させる方向に進んでいく。
それはビジネスとしては当然のことなのだろうけど、抑圧と反発をより大きい同調圧力で覆うような感じに見えてくる。
「世界は無数に存在している?ここはその無数とも言える多様な人々が生活できる唯一の世界なんだよ。」
と、究極のオンリー思考ができあがっていく。
***
しかし僕は、プラットフォームのメタファーはトンネルだと言いたい。
唯一の世界などはなく、あらゆる世界がオルタナティブに存在している。
オンリー思考からウィズ思考へ。
世界は多色のうごめきであることに気づく必要がある。
その気づきを得るには、今まで自分が感じたことない新しい感覚を体験したり、新しい思考に触れて、自己を拡張することだ。
その拡張をよりスムーズにできるようにするのがプラットフォームだ。
なので、プラットフォームはトンネル。
一瞬で山を越え、新しい世界に出会うのだ。越境する、とも言う。
トンネルの先に何があるか?その期待を胸に抑圧の中を進み、そして、抜けた先にある広い世界に自己が拡張され、新たな感覚を得る。
トンネルの価値観は、抜け出すことである。
プラットフォームを通して新しい世界に出会い、自己を拡張する。
その先の世界でうごめく。
プラットフォームは唯一の世界ではなく、唯一の世界からオルタナティブな世界へ導いてくれるトンネル。
抜け出すことを価値と置いた場合、プラットフォームの求めるあり方も変わるだろう。
たとえビジネス的な文脈では間違っていようとも、そもそも世界はそれだけではないのだ。
そして、自分が何者かよく分からなくなってしまった時は、自ら外に開かれた内向きの文化を作ってしまえばいい。
最後に
抽象的かつ脱線だらけ、個人的なバイアスのかかった偉そうな長文で、こんな文章を最後まで読んでくれる人がいるのかは謎だが、1年間を通して感じたことはそんなところである。
実際のところ、途中でコロナ流行などがあり、なかなか移動や交流ができない時期もあったし、多拠点生活以外での個人的な変化も大きくあった。
note自体も、この1年間ほぼ毎週書き続けているのだが、1年前とは書いていることも、書くスタイルも目的も全く違う。
僕自身も、うごめき続けているということなのだろう。
ちなみに僕自身は、熊本県の宇城市というところで新しく開業する予定のゲストハウスにしばらく住む予定。
開業した際はこのnoteに情報を追記するので、僕と話してみたい、文句を言いたい、酒を飲んでみたい、料理を作りたい、アート作品を作ってみたい、何かしら活動してみたいという方は連絡してもらいたい。
別に革新的でなくとも、しかし本質的な、メインストリームの周辺にあるオルタナティブな文化を、共に編んでいけたらうれしい。
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