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漫画とうごめき#12

漫画家・望月峯太郎(望月ミネタロウ)さんの作品『ドラゴンヘッド』を独自の視点で読み解きながら、連想される事柄や文化、思考を綴っていきます。

※このnoteは全力でネタバレをします。漫画『ドラゴンヘッド』をまだ読まれていない方は、まず先に『ドラゴンヘッド』を読まれてから、本エピソードをお楽しみください。


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漫画の紹介

ドラゴンヘッド自体は、かなり有名な作品ですよね。
調べてみると、連載開始は1994年。 そっから6年間、週刊ヤングマガジンで連載されていた漫画なんですね。
なので、もう30年近く昔の作品。
ただ、全然古さとかは感じなくて、むしろ今の時代になって改めて考えさせられる内容なんじゃないかな、とかって思うんですよね。
おそらく30年前と今の社会状況の違いを考えると、 見え方も大きく変わるんじゃないかと。

あらすじ

修学旅行の帰り道、東京の中学生を乗せていた新幹線が、 浜松あたりのトンネルの中で脱線事故を起こしちゃうんですね。
というのも、富士山が大噴火してしまって、 一気に世の中がひっくり返ってしまうぐらいの 大地震が起きるわけなんですよね。
で、トンネルの出入り口も崩壊して、完全に閉じ込められちゃうわけなんですけど、 生き残ったのはわずか3人の中学生だけで 他の乗客や先生、同級生たちは全員死んでしまうんですね。
この生き残りの子たちが 突如降りかかった極限状態の中で、 狂気と苦悩と戦いながら、脱出して 東京を目指す、といった話です。

グレーリノ

「もしも富士山が噴火したら?」というディザスター作品ですけど、 実際にコロナ禍であったり、毎年のように災害が起きている現在の日本の状況を考えると、 単なるSFの話とも捉えられないリアルさを感じますよね。
実際に起きる可能性のある災害。しかしなんらかのバイアスによって 対応を後回しにされるような災害のことを「グレーリノ」「灰色のサイ」ていうんですけど、 この富士山噴火も正にグレーリノの一つですよね。
一度走り出したら止まらないサイのように、 いざ発生すると止まることなく襲い掛かる災害、グレーリノ。

イメージする力

ただこの漫画は、危険だからちゃんと対策しようとかそういうのではなく、 その極限状態での闇にある恐怖や人間の狂気、 そして人が持つ想像力、イメージする力という、普段あまり気づかないが確実に存在する「何か」を描き出した作品だと思うんですよね。

実際に作中では、トンネル脱出した後の世界、
外の世界も凄まじい状況になっていて火山の灰が降りつづけて、昼も夜もわからないぐらい真っ暗だし、いきなり真っ黒い竜巻が起きたり、壊滅的な大地震が頻発したりで、とにかくやばいんですよね。
ネットも電話もテレビもつながらなくて、 ほとんどの人が状況を掴めない暗黒の中での恐怖に見舞われるわけなんですが、
そんな中で多くの人がその状況に恐怖して、さまざまな挙動を起こすわけなんですね。

身体中に変な模様描いて変な儀式したり、
自分の腹を切ったり、
またある人たちは、この状況に絶望して自分の家族もろとも人を殺しまくって暴徒化したりとか、 狂気に満ちた行動をとるわけなんですよね。

自然環境も人の社会もどちらもヤバいことになる。

ただそういった狂気も、 基本的にはみんな心の安定だったり、安全を求めたり今の状況に意味を見出そうとした結果だと思うんですよね。
今まで安心安全快適に守られていた当たり前が、根底から崩れているのだから新たな当たり前を作り出そうとしてる、みたいな。

で、特に象徴的なのが 3人の生き残りの中学生のうち、ノブオっていう男の子がいるんですけど、このノブオがだんだん狂っていくんですよね。
外界から遮断されて真っ暗な闇の中に、 怪物の存在を見出して、身体中に変な紋様を書き入れて謎の儀式を始めたりするんですね。
この儀式がやばくて、ミニラって呼ばれている、生きていた時は竹刀を持って生徒をビビらしたりするような、分かりやすいぐらい嫌な学生指導の先生がいるんですけど、 そのミニラの死体を引っ張り出してきて神のように祀り出したりするんですよね。
いわゆる古代の人類が、闇夜の恐怖やその当時では得体の知れなかったさまざまな自然現象に対して畏怖の念を覚えて、 その人智を超えた何かを人間社会に取り込もうとした行動にどこか近しいものを感じますよね。
アニミズム的な何かを、ですね。

妖怪について

で、以前ネットで読んだ妖怪について研究をされている方の論文を思い出したんですね。
この論文自体もかなり示唆深くて面白いんですけど、妖怪というのは日本に昔から存在するものですよね。
鬼であったり河童だったり、水木しげるのイメージですね。
で、この妖怪という存在は近代において盛んに研究されたんだと。
柳田國男などの作品でも、日本各地の妖怪について分析されていたりしますしね。

で、そういった妖怪というのは、昔の人々は実際に妖怪を見ていたんだと書かれています。 それは視覚的だけではなく幻想的もしくは想像的に見ていたんだと言われてるんですね。

なので、妖怪はかつて「見えるもの」であった。

それが近代から現代にかけて、自然科学の発展と安心便利な世界の構築によって少しずつ「見えないもの」になっていった。
しかし、完全に見えなくなるということではなく、妖怪というのはどこか人の意識に少し残っている。 姿形を変えながらですね。
この妖怪というのは、なんなのか。

古代での妖怪の話が分かりやすかったんですけど、
古代においては、妖怪というかオニの時代だったんだそうです。
ただ、それを具体的に意味する実体というのはなくて「心の鬼」という言葉に頼っていたそうなんですよね。
で、心の鬼というのは、「罪の意識」であったり「自分自身の気のとがめ」だったりの「よこしまな心」を指していると。

この心の鬼が言われ出す流れが示唆深いんですけど、元々はオニと呼ばれるのではなくて心の闇であったと。
「心の闇をそのまま放置している限り、人は永久に闇の正体不明さに脅えるばかりである。 だが、それを一旦「鬼」と名づけてしまえば、不可知のものが人間の理解の範囲に取り込まれることになる。言うなれば、不可知で不可視の現象を言語によって絡めとるという認識方法だ。
こうして「心の闇」は「鬼」となり心の中の他者として独立してゆく」
とあるんですね。

なので自らの正体不明なよこしまな心、闇を「心の鬼」として言語表現で認識して他者にしていたわけですね。

この心の鬼は、火だったり音だったり暴風雨の凄まじい気配を媒介として、恐怖を感じるような現象に見出していき、それが鬼になっていくわけですね。
そう考えると、妖怪というのは人の心を原点に、イメージによって形作られているもので、その営みの中で得体の知れない「見えないもの」を人が理解できるものにした。
それが具体的な「見えるもの」になったと言えますね。

そこの根底にある人の心というのは幸福が中核にあると。
人は往々にして幸福でいたいわけなんですが、その裏には不幸があるわけですね。
で、この二つはお互いに存在を補填している言葉であるわけなんですけど、この不幸を感じることは恐怖と通じるものがあるんだと。
で、恐怖の原点は死である、と書かれています。

そう考えると、幸福でありたいと思う人間らしい心が、恐怖を感じさせる素でもあるってことですよね。
ノブオも、闇に得体の知れない何かを同時に自分の心にある何かを見出して心の鬼、妖怪を見ていたわけですね。
狂ってるとしか言えないノブオの行動は、ある種とても人らしい行動でもあったのかも知れないですね。

恐怖ジャンキー

あとこれは、この漫画の中でも核心的な部分なんで、聞いても平気な方だけ聞いてもらいたいんですけど、
後半では脳から恐怖を感じる器官を取り除いたりして、恐怖を感じない人々が出てくるんですね。

彼らは恐怖を感じないから、この壊滅的な状況でも上の空で生活していたり、もう感情がないような無気力な感じで漂っていたりするんですね。
ただその一方で逆に恐怖という感情に飢えだして、自分達の体を傷つけたりして恐怖を感じようとする「恐怖ジャンキー」にもなっているんですよね。

その恐怖ジャンキー達のリーダーみたいな奴がいるんですけど、 そいつが語ることっていうのが、
狂ってる感じではあるんですが、どこか芯をくったようなこともいうわけなんですよね。

まず、自分達が見ている世界は認識によって変わる。
自分達が見たい世界を見ているだけなんだ、という唯識論のような観念論のようなことを言うんですよね。

で、そんな中でも人は死を排して安心便利な世界に生きてきた。

そうすることで人は死に鈍感になっていた。

しかし、死と生は表裏一体であり死に鈍感になると言うことは、生に鈍感になる。みたいなことを言うんですね。
今の壊滅的な状況の先にある究極の恐怖を求めている、とかいうんですけど、 まあ狂っているわけですが、しかしこの生に鈍感になっていると言う事実は確かにあるな。とも思うわけです。

心の鬼が見えなくなっているっというかですね。

death LAB

例えば「deathLAB」と言う団体があるんですよね。
コロンビア大学の中で2013年にできた研究チームなんですけど、 死を都市の中心に取り戻そうという活動をされているんですね。

彼らの代表作品で「星座の広場」というのがあるんですよね。
ニューヨークとブルックリン間にある、マンハッタン橋に数千個もの光るお墓をぶら下げる、ていうアイデアなんですけど、
それによって墓地でありながらも、交通のインフラとしても機能する施設を作るってわけですね。

お墓の中には無数のバクテリアが住んでいて、そこに死体を入れるとゆっくり1年かけて、骨もろとも分解されていくと。
で、この分解の時に発生する熱やガスをエネルギーとして、光が生み出されるという仕組みです。

ただこのアイデアはただ過激さを求めたものではなくて、実際に今後ニューヨークや日本の都市において、生まれる人の倍以上の人が死ぬ社会になっていくと。
その時に起きる墓地面積の問題や形式化している葬式の在り方などに向き合う時代がやってくる。
その身近になっていく死とどう向き合うのかを、今の時代から真摯に考えているのがDeathLABなんですね。

恐怖ジャンキーが言うように、世の中が便利で快適になっていくにつれて、死というものは遠ざけられタブー視されるようになってきた。
しかし死というのは、とても身近なもので逆に遠ざけることによって、妖怪化していっているのが現代ではないかと。

まあ、だからどうあるのがいいか?とかは分からないですけど、 今後色々考えたいところですね。
個人的には、死体が分解されながら光る墓で道路が照らされるとかは、「なんかええな」て思ったりしますね。

食べる

また漫画に戻ると、その恐怖ジャンキーたちはある特殊な食料を食べることで、恐怖を感じなくなってるわけなんですね。
なんか東京の地下に隠されていた食料で、それを食べると特殊な成分で恐怖を感じなくさせる、というやつです。
つまり人としての在り方が食べると言う行為によって変異していったわけです。

ここにリンクする話で、逆巻しとねさんという方が、書いているコラムを思い出したんですね。

人はその主体としての存在は食べると言う動詞によって、規定されながらも変異すると言う話ですね。

どういうことかというと、人は光合成ができないので常に人ではない何かを摂取し続けなければならないんだと。
それは多くの場合、食べるという行為であるわけですね。
その異種を食べるという行為によって、実は人は、個人としての存在が揺るがされているんだ、というお話です。

例えば人というよりも食べ物の方で一旦考えると、イメージしやすいと思うんですけど、
キャベツという食べ物は育てられ方や流通のあり方や、品種改良などによって普通の消費者には分からない微細な変化にさらされているわけですね。

それは「それぞれ同じものと言えるのか?」といったらそうではないはずなんですけど、 それでもキャベツという言葉、名詞によって、
それらの緑色の塊は同一性を担保されているわけです。

なので言語的に同じであり、キャベツというアイデンティティがそれにはあるんですけど、それそのものの存在自体が何なのかという存在論は不問にされているわけですね。
で、そういった対象を食べる主体である人も、言語的に存在を担保されているわけですが、その存在自体は変化していってるわけですね。
それこそ10年前の自分の身体から見ると、今の自分の身体は異常であるかもしれない。

なので個人として自分のアイデンティティが保たれていると言えるのは、あくまでも我々が、自分というものは生まれてから死ぬまで代謝を続ける、自らを一貫した存在であると信じる慣習の水準での話に過ぎない、と言われてるんですね。

ドラゴンヘッドの中でも、食べるという行為によって恐怖を失った人たちが出てきます。
彼らは、もはや食べる前と食べた後では、同じ存在であるという風にはとても思えない状態になる。

また本人達も、自分というもの、生きているという感覚というのを失ったがために恐怖を求めて異常行動を繰り返す恐怖ジャンキーになったわけです。 これはもう〇〇さん、〇〇くんという名詞での担保からも外れ、何なのかよく分からない存在になる。

自分自身というのは、一体何によってそのアイデンティティ、個人としての存在が担保されているのか分からなくなりますね。
ただ少なくとも、我々が思っているほど確かなものではないのかも知れないです。

認識論

そう考えると、人というのは何か?死とは何か生きるとは何か?みたいなことが揺らいでいったわけです。
「一体自分とは何なんだ?」みたいな。
かつてニーチェは認識論的な観点で、我々が認識しているのは認識したい意思によって認識していると言っていました。

つまり認識すらも意思なのだと。

さっきの妖怪の話でも、人はそもそも世界を想像的に認識しているんだと書かれていました。

希望

そう考える中で、 この漫画の主人公の男の子、テルっていう子なんですけど、 テルは話を通しおおむねずっと希望みたいなものを持ち続けているんですね。

その挙動は、この絶望的な世界の中では 圧倒的に異質で 「この希望を持つていうのは何なのか」て思ったりするわけなんですよね。
人は頭の中でイメージをして恐怖を感じる。
しかし主人公は、このイメージと向き合い恐怖に負けないよう立ち向かいながら希望を持ち生き続ける。

そう考えると、彼が単に主人公的な良き存在として、ただ描かれているようにも見えるわけなんですが、
もしかしたら「人が希望を持つ要素」 みたいなものを描かれているのかも知れないと思っていてですね。

ひとつ仮説としてあるのは、 主人公は自分の家族が生きていることを信じて東京に戻ろうと頑張ったり、 この世がどうなっているかを見たいという思いや、 もう一人の生き残りの女の子に対する想いだったり、 人や未来に対してイメージの力を発揮しているように見えるんですね。

ゆっても出会う人が死にまくったり、死体の中を歩いていく状況ですからね。
その状況で自分の家族の生存を信じていたり、 未来に何かしらの希望をイメージするというのは かなりの楽観主義的な視点も持っていると思うんですよね。 だからこそ、恐怖に負けずに動けたように見えるんですね。

ラディカルオプティズム

ここで、その希望を持つことの条件みたいなのが見えてきたのですが、
このテルのあり方っていうのは「ラディカルオプティミズム」という概念で言い表せるんじゃないかと思ったんですよね。

この概念は、tortoiseと言うイギリスのスローメディアが出している考え方なのですが、直訳すると「過激な楽天主義」ですね。
楽天的、というと何だかいい加減な感じがしますけど、彼女らは「この楽天さがないと、希望も生まれない」と言ってるんですね。

で、希望がなければ変化はないんだと。
恐怖にそのまま取り込まれるだけなんだと。 なので愚かにならずに楽天的でいるっていうのは、過激なこと、ラディカルなことだよね、ってことで「ラディカルオプティミズム」と呼んでるらしいです。

ラディカルオプティミズムというのは、愚かになることなく建設的に楽観的であること。

イメージの力

ドラゴンヘッドのラストも、そういった希望をベースとした人のイメージの力を想起させる感じで終わるんですよね。

人のイメージする力は恐怖でもあるし希望でもある。
で、このイメージする力は現実を変えるほどの力がある、と言うことでしょうか。

余談ですが、最近中野雄介さんというアーティストの個展に行ってきたのですが、 なんとなく、中野さんの作品や思考からは「 メディア-イメージ-身体」みたいなものを感じたんですね。

その時感じたことを羅列すると、
メディアから情報を接種して、言語的に思考する。
思考されたものは、さまざまなメディアで表現される。
イメージは身体を通して、具体化して、我々の現実を変え、 現実は我々の身体とイメージに影響を与える。

このメディアとイメージと身体の連鎖みたいなものに、人の営みがあるというのを中野さんの作品から感じました。
なんか、これがドラゴンヘッドに感じた「イメージとは何か?」という問いの答えなんじゃないかと。
いや、答えなのかは分からないけど、でも人はイメージなんだなと思いますね。
それは名詞的なイメージではなくて、イメージなんだと。

ちょっと最後、言語化できなかったですけどこれで今回は以上です。


Podcast本編はこちら

https://open.spotify.com/episode/7zFfhcRZYmgjg6X48EOsbq?si=u09ta0O1QeuWSM7z_umr5A


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