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付属品、あるいは装飾品①

 亮介が結婚すると知ったのは、たまたま開いたFacebookでだった。
 今日も口うるさい部長はいつもと変わらず口うるさく、いやいつも以上に絶好調で口うるさく、私は残業を余儀なくされたし今週も休日出勤が決まった。広告代理店の営業に休みという文字はないらしい。
 ついこの間桜が開花し、やっと春が顔を出したと思ったら、もう日中は蒸し暑いくらいだ。冬がくる前は、極寒の毎日が待っていると思うと気が滅入ったが、次はうだるような夏の暑さが待っているというんだから気が滅入る。四季は日本が誇る宝だと言ったのはどこの偉い人だろう。
 ただいま、と呟くけれど明かりのついた部屋からは何の返事もなく、私はキッチンで水を一杯飲むと純也を避けるように寝室に入った。大学時代から付き合い始めた純也とは、社会人になった春から同棲を始め、もうすぐ丸3年が経つ。業種こそ違えど同じ代理店で働いている彼とは、会社では愚か、こうして家に帰ってからも仕事ばかりで特に目立った会話もない。純也はリビングで仕事をし、ソファで寝たあと朝早く家を出る。私は寝室で仕事をし、ダブルベッドで寝たあと朝早く家を出る。そうして暮らしてきた1LDKの部屋には、恋人同士の甘い空気感など毛頭なく、漂うのは疲れたため息と諦めに似た虚無感だけだった。
 このあいだ後輩と飲み会をした時に、それってマンネリ超えて別れ話秒読みじゃないですかなどと不躾な物言いをされたことを思い出す。不躾だったけれど的を得ていて、その言葉は後輩の要領のいい生き方をぎゅっと凝縮して表しているような気さえした。
 くたびれてきたブランドものの鞄をベッドに放り投げると、そういえば純也と同棲してから初めて二人で買ったのはこのベッドだったと思い出す。ダブルベッドを買うかシングルを二つ並べるかで揉めに揉めた末、結局私の意見が採用されてこの青いシーツのダブルベッドになった。引越し代の残りを二人で出し合ってなんとか買った、特に高くもお洒落でもない普通のベッドだったけれど、それでも私は今よりずっと幸せだったように思う。
「週末も仕事?」
 軽くシャワーを浴び終え、缶ビールを取り出すためにキッチンへ行くと、純也が珍しく声をかけてきた。うん、とだけ答えると、そう、と空元気のような妙に明るい声が返ってくる。
「俺も」
 じゃあなんで聞いてきたんだろう。最近はもっぱら純也の考えていることがわからない。
 すでにPCに向けられている視線が私に戻ることはないと判断し、私はコソコソと寝室へ戻る。どうして自分の家でコソコソなのかわからないけれど、コソコソが似合うような歩き方が、この家の中では癖づいてしまった。
 ビールに口をつけると、中はまだぬるかった。そろそろ冷蔵庫も買い替え時かなと思いながら、仕事の続きをしようとPCの電源を入れる。お酒を飲みながら仕事をしているなんて部長に知られたらまた口うるさく説教をされるだろうなどと考えながらマウスを動かしていると、ふとFacebookのブックマークが目に付いた。
 スマホを買い替えてデータ移行に失敗してから、アプリを再インストールすることも面倒くさくて放置していたFacebook。もっとも随分前から頻繁に開くこともなくなっていたので、大して生活に影響はなかったのだけど。
 たぶん、仕事で疲れていたんだと思う。もしくは酔っていたのだ。その時はなぜかそのFacebookを開く気になり、カチッとマウスでブックマークをクリックした。やたらと長い読み込み時間の後、見慣れない仕様のホーム画面が開く。最近のSNSは、ちょっとログインしない間にすぐに仕様がアップデートする。やっぱり見るのはやめようかなと思いながら、もうどこで知り合ったのかも忘れたようなリア充たちの投稿を流し読んでいると、やたらとコメントが多くついている亮介の投稿を発見した。その時までFacebookで繋がっていたことすら忘れていたくらいだったし、みんな何にそんなに反応しているんだろうと一瞬疑問に思ったものの、その答えはすぐに出た。亮介と、決して美人ではないが可愛らしい顔をした女の子が笑顔で写ったツーショット写真。二人の手には、婚姻届が握られていた。

 翌日、気合で仕事を夕方までに終わらせた私は、待ち合わせのためカフェにいた。少し遅れるとの連絡が入っていたので、先にビールを頼み、一人グラスを傾ける。
「悪い、遅れた」
「いつものことじゃん」
 言いながら学生時代からこの男――亮介は、大事な時ほど人を待たせる人間だったなと思い出す。
 昨晩、Facebookの投稿に衝撃を受け電話をすると、二つ返事で今日会うことを引き受けてくれた。大学を卒業以来一度も連絡を取っていなかったのに二つ返事だなんて、本当に軽い男。
「で? いきなり連絡してきてどうしたの? 俺の結婚がショックだった?」
「ショックっていうか、衝撃だったの」
「何が違うんだよ」
「全然違う」
 亮介は私と同じビールを頼むと、「適当に食べ物頼んでいい?」と聞き、本当に適当なのかと思うくらいのスピードでサラダと肉料理とその他3つくらいのメニューを注文した。
「まぁ、つまり美咲は俺に未練たらたらってことだな」
「そんなわけじゃないじゃん。ただの友達だし」
「友達ねえ」
 ニヤニヤと笑うこの笑い方が嫌いだった。いや、当時は好きだったのかもしれない。要するに、私と彼はそういう関係だった。友達という言葉ではくくれない、そういう関係。
「ていうか、俺ともう会わないって言ったのはお前だろ。何にそんなに未練があるんだよ」
「だから未練とかじゃないって」
「じゃあ何? 祝福してくれんの?」
「そんなものしないよ。私より先に結婚するとかありえない」
「ああ、それで怒ってんの? にしたってこのタイミングで会わないだろ。俺ら何回ヤッたと思ってんの」
 何回ヤッたか覚えてるの?
 聞き返す前に店員がビールと料理を持ってきて、そこで会話が一度途切れる。こうして会話が途切れるたび、私たちはキスをしたし、セックスをした。セックスをした後は、お互いがそれぞれのパートナーの元に戻る。私たちはそうして過ごしてきた。
「とりあえず、再会を祝して? かんぱーい」
 もう半分も中身が残っていない私のグラスと、亮介のグラスがぶつかる。カチン、と小気味いい音が響いて、なんだか気が抜けた。
「いやー、しかし、時の流れだねえ」
「何が?」
「ほら、結婚? 俺たちもそんな年齢になったんだなって」
 亮介は当事者のくせにまるで他人事のように笑いながら、適当に頼んだ料理に手をつける。私に断りもなく調味料をかけたので顔をしかめて見せたら、同じものをもう一つ注文された。
「俺だけじゃなくてさ、多いじゃん最近、結婚報告をFacebookにアップするやつら」
「まあ、そうかもね」
 高校時代に仲の良かった女友達が、ある日突然、純白のウェディングドレスの写真を載せた時のことを思い出す。結婚式は呼んでねなんてお互い言い合っていたのに、結局仲がいいと思っていたのは私のほうだけだったらしく、彼女の周りにはちらほら当時の同級生の姿があった。
 その話を亮介にすると、二股なんてする女は縁起悪くて呼べなかったんじゃんと笑われた。二股ではなくセフレがいただけ、とすかさず訂正しておく。
「つか、まだあの彼氏と続いてんだね」
「そうだけど、それが何?」
「だって俺と浮気してんのバレたんだろ? それでもう会わないって俺はフラれたわけじゃん」
「だから浮気じゃなくて、あなたはただのセフレなので」
 訂正しながら、それも浮気というんだっけと頭の片隅で考える。終わりが見えなかった就活も落ち着き、あとは卒業を待つだけだと浮かれていた学生時代、純也に、男がいるだろうと聞かれたのだった。どこからバレたのか知らないけれど、とにかくその時は平然を装って堂々といないと答えた。すると、なぜか同棲の話を持ち出された。
「……まぁ、本当はその時に終わるべきだったんだろうね。無理して同棲始めたけど、やっぱり上手くいきっこなかった」
 亮介は何も答えずに、見慣れた銘柄のタバコを取り出すと、100円ライターで火をつけた。美味しそうに煙を吸い込み、吐き出す。そういえばこいつとのキスは、いつもタバコの味がした。
「よくわかんねぇけど、別に端から無理ではなかったんじゃないの。お前、Facebookで馬鹿みたいに浮かれてたじゃん。同棲スタートしましたーとかって」
 そういえば恥ずかしげもなくそんな投稿をしたこともあった。今のうちに消しておこうと携帯を取り出すけれど、もったいない気がしてやめる。
「そんなこと、よく覚えてるね」
「まぁ、俺は結構ショックだったからね。お前らが同棲始めたの」
 亮介はタバコの火を揉み消すと、グラスを煽った。
「でも、好きなんだろ?」
 亮介に聞かれ、最初は何のことかわからなかった。首を傾げる私に気付いたのか、亮介はもう一度口を開く。
「その彼氏のこと、美咲は好きなんだろ?」
 すとん、と鉛のように、その質問が胃の中に落ちてきたようだった。リビングでPCに向かう純也の背中を思い出す。最後にその顔を正面から見たのは、いつだっただろう。
「……わかんないよ」
 搾り出すように本音を告げると、今度は亮介のほうが訝しげな顔をする。
「じゃあ別れたいの?」
「うーん、それも、わかんない」
 純也と別れ、荷物をまとめて、家を出るところ。幾度となく想像したそのシーンが、頭の中で鮮明に再現された。何度想像してもやっぱり、リアリティがない。ただ、自分が最後になるのは耐えられない気がした。二人分の荷物で溢れるあの部屋が空っぽになるのを見るのは、耐えられない気がした。
「なんかさー、よくわかんねぇけどさ」
 亮介はぐっと伸びをすると、同時に出てしまったとでもいうように大きなあくびをする。
「また、同じこと繰り返してるだけに見えるけど。俺には」
「同じって?」
「昔も、そいつと付き合ってたのに俺とそういう関係だったわけだろ? そんで、またお前はこうして俺と会ってるじゃん。彼氏が嫌がるってわかってて、繰り返してるんだろ?」
「会うのとセックスするのは違うよ」
「同じことだよ。一度セックスした相手と会うことは、セックスすることと同じことだって」
 亮介の言葉はすっと私の中に入ってきた。意味がわかるような気もしたし、わからないような気もした。
「でも今日は、本当にそういうことはしないからね」
 念を押すと、亮介は肩をすくめて見せる。その姿が私を馬鹿にしているように見えて、むっとした。
「別に、俺も期待してたわけじゃないし。そもそも既婚だし?」
「そうじゃん。私、不倫なんて絶対無理」
「だよなー。あー、もうちょっと遊んどけばよかったかも」
 大げさに悔しそうな顔をする亮介に、少しだけ笑ってしまう。
「じゃあなんで結婚したのよ」
「しゃーないでしょ。デキちゃったんだから」
「その言い方さぁ、彼女が聞いたら泣くよ? ああ、もう奥さんか」
「へーきへーき。俺、嫁のこと大事だし。少なくともお前よりは」
「そういう人がこのタイミングで女と会うかね」
「お前が電話なんかしてくるからだろ」
 打てば響くような、この会話が心地よかった。純也相手だと、たぶんこうはいかないと改めて思った。

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