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みらいが呼んでる③【最終話】

 腕の中でぐずぐずとうごめいていたみらいが、ようやく静かな寝息を立て始めたとき、ガチャンと盛大な音がした。驚いたのか、目を覚ましたみらいがぎゃーと泣き出す。疲れた顔の和之は雨でびしょびしょに濡れた鞄を放り出し、ソファに座ると、雨でびしょびしょに濡れた肩をはらった。
「何、みらい起きてるの?」
「うん、ちょうど寝そうだったんだけどね」
 嫌味を込めて言ったのに和之には全く伝わらなかったようで、テレビのリモコンを取ると、音量を上げる。
「夕飯は?」
「あー、できてはいるよ。野菜炒めと、お鍋の中にお味噌汁が」
「あっためて」
「え?」
 みらいを抱っこしながら、私は聞き間違いかと薄笑いを浮かべる。
「見てわかるでしょ、今は手が放せないから、自分でやって」
「ああ、いや、あかりが立ってるから。ついでにコンロかけてくれたらいいんだけど」
「みらいを抱っこしたまま火はつけられないでしょ」
 それでも和之は鍋を温めるわけでもなく、抱っこを変わってくれるわけでもなく、ただぼーっとテレビを眺めていた。あったかいご飯なんて、私はみらいが生まれてから一度も食べた覚えがないのに。悔しくて、ぐずぐずのみらいをベッドに寝かせると、味噌汁の鍋を火にかける。青い炎がぼっと燃えるのと同時に、ベッドに寝かされたことに気付いたみらいが大声で泣き始めた。
「おーい、みらい泣いてるよ」
「和之があっためてって言ったんでしょ」
「なんで寝かしつけてないんだよ、もうこんな時間だろ」
「寝ないんだもん。みらいだってそういう日もあるよ」
 再び抱っこして、ゆらゆらと身体を揺らす。けれどみらいは、一向に泣き止まなかった。
「おむつは?」
「汚れてないよ」
「ミルクの時間じゃないの?」
「さっきあげたばっかりだもん」
「じゃあさ、この部屋寒いんじゃない?」
「それは和之が濡れたままだから」
「じゃあ、」
「そんなに言うなら和之が代わってよ!」
 思わず声を張り上げると、みらいの泣き声が大きくなった。和之は何を言い返すでもなく、黙って私のほうを見ていた。そうだった、今日はちょっとだめな日だったんだ。だめな日だったのに、和之の相手をするべきじゃなかった。
「俺だって疲れてるんだよ。あかりはいつもピリピリしてるし、大体さ、お帰りくらい言えないの? いっつも怒ったみたいな顔して」
 和之だって、ただいまって言わないくせに。叫び出したいような泣き出したいような感情が再び蘇り、苦しくなって私は心臓を拳で叩く。ドンドン。苦しい。ドンドン。苦しい。
 和之は、はあ、と大きくため息をつくと、財布だけをポケットに入れて立ち上がった。
「ちょっとあかり、頭冷やしたほうがいいんじゃないの。俺、外で食ってくるから」
 和之はガチャンと大きな音を立てて出て行った。普通は頭を冷やすために私が外に出るんじゃないのかと唖然としたけれど、次第にふつふつと怒りが沸いてくる。泣き叫ぶみらいを抱えたまま、どこにその怒りをぶつけたらいいのかわからずますますイライラした。
「いい加減泣き止んでよ、うるさいよ」
 赤ちゃんって、大人の言葉がわかるらしいよ。飲み会で子持ちの上司に教わったとかなんとかで、和之が嬉しそうに話してきたことがある。胎児だってママの声に反応するくらいだから、赤ちゃんならわかっていたとしても不思議じゃないと私は特に感動もしなかったんだけど、和之はそれが気に入ったらしく、言葉遣いには気をつけようと約束させられた。愚痴や文句もみらいには聞こえているんだから、絶対に声に出して言わないこと。その日からずっと守り続けてきた砦は、けれどみらいが泣き止まないというただそれだけで簡単に崩れ落ちた。一度言葉にすると、イガイガのようにずっと喉の奥に詰まっていた何かが溢れてきて、だめだと思うのに止まらなくなる。
「私が疲れてるのわかんないの。みらいが寝てくれたら仕事ができるのに、締め切り延ばすこともなかったのに、ご飯もあっためられるのに、和之が出て行くこともなかったのに、どうして泣き止まないの。みらいは私を困らせたいの」
 次から次へと畳み掛けるように言葉を吐き出す私に、みらいは、ああーと泣くだけだった。こっちはこんなに本心を伝えているのに、みらいの気持ちはどうして伝わってこないんだろう。こっちはこんなに愛しているのに、みらいはママを愛していないの。
「いい加減にしてよ! 泣きたいのはこっちのほうだよ!」
 ああーと泣き続けるみらいをベッドに寝かせる。乱暴にしたつもりが、けれどいつものようにそうっとみらいを寝かせた自分に、大丈夫、まだ大丈夫と言い聞かせる。何が大丈夫なのか自分でもよくわかっていなくて、けれどみらいは何が気に食わないのか、身をよじりながら更に喚いた。キッチンで、鍋が吹きこぼれる音がする。ああ火をかけっぱなしだったと思いながら、けれど一度吹きこぼれた鍋は、元には戻らない。
「みらいは、どうして生まれてきたの」
 私たち夫婦の希望になるべく生まれてきた私たちのみらいに、なぜ、私が苦しめられているのか。
「私がいつママになりたいなんて言ったの」
 泣き喚くみらいをベッドに寝かせたまま、コンロの火を止めると、パソコンに向かう。書きかけの下手くそな絵を見ると、喉のイガイガが蘇ってきた。みらいの泣き声がわんわん響く部屋でペンタブを握り締めるけれど、手は、頭は、一向に動いてくれない。何時間もそうしていたような気がするのに、私がパソコンの前に座っていたのはたった数分で、泣き過ぎてごほごほとむせるみらいの声でハッと立ち上がる。
 逃げたい。唐突にそう思った。ついさっき見た、虐待のニュースが脳裏によぎる。
 頭を冷やさなければと思った。ちょっと五分くらい、外の空気を吸いに行くだけ。そのくらい放っておけばみらいも泣きつかれて寝るだろうし、まだ寝返りも打てないから事故になる危険もないだろうし、ちょっと、五分くらい出て行って、それから仕事をしなくちゃ。
 みらいの泣き声を聞きながら、玄関に向かう。このドアをどう開けたらあんな和之みたいな乱暴な音が出るんだろうと思いながら、靴を引っ掛ける。ちょっとだけ、ちょっと外に行くだけ。ガチャとドアを開けた瞬間、あーっとみらいの声が一層大きくなった。
「まーまー」
 ドアを半開きにしたまま、動けなくなる。
「まーまー」
 足が、地面に張り付いたように動かない。かわりに、ドキドキと鼓動が早くなった。
「まーまー」
「……こんなときに、ママって呼ばないでよ」
 ただの泣き声が、そう聞こえただけだと思う。ううんもしかしたら、完全に私の幻聴だったかも。けれどみらいのその悲痛で切ない泣き声は確かに私の耳にはママと言っているように聞こえて、私を呼んでいる気がして、私を求めている気がして、私に行かないでと言っている気がして。
「あー」
 慌ててベッドに戻った私を見ると、みらいは一瞬ほっとしたように息をついた。そして、すぐにあーあーと泣き出す。なんだ、やっぱりママって聞こえただけじゃん。どこか拍子抜けしながら、みらいをそっと抱き上げる。生まれたばかりの頃はあんなにふにゃふにゃだったみらいは、この数ヶ月でずっと人間らしくなった。ぎゅうっと優しく抱きしめると、赤ちゃん独特の香りが鼻腔を貫いて、涙が出た。今まで泣き叫んでいたのが嘘のようにぴたりと泣き止んだみらいは、そんな私を慰めるように、機嫌のいい声を上げ始めた。
「うー」
「なんだよ、嬉しいの?」
「うーあー、あー」
「うん、ごめんね怒って」
「あーあー」
「許してくれる?」
「まーまー」
「……はいはい、ママだよ」
 私が、あなたのママだよ。

 ガチャンと乱暴な音がして、驚いて玄関を見ると、雨でびしょびしょに肩を濡らした和之が立っていた。雨でびしょびしょに濡れたコンビニ袋をソファに置いて、私とみらいを見る。
「……ただいま」
「……お帰りなさい」
 久しぶりに、挨拶をした。今日も無事、最愛の人が家に帰って来た。その喜びを分かち合う挨拶を、私は今日、久しぶりにした。
「デザート、買ってきた。夕飯にしよう」
 和之はそれだけ言うと、コンロの火をつけた。味噌汁がすでに沸騰していることに気付き、慌てて火を止めながら、炊飯器をあけ、しゃもじしゃもじと見当違いの場所を探し始める。コンビニ袋の中には、私が妊娠中やたら甘いものが食べたくなってたときによく買っていたアイスが二つ入っていて、まずこれを冷凍庫に入れられる夫だったら満点だよなぁ、というかソファが濡れちゃうんだけどなぁと思いながら、それでも満点じゃない和之だから好きになったんだろうなと思った。
 和之は、傘を差すのが苦手な人だった。まっすぐ傘を持っていても、いつもその身体は濡れていて、私は決まって嫌がる和之の傘に無理やり入った。自分の傘あるじゃん、肩が濡れるだろと言いながら、和之はそれでも私と並んで歩いた。みらいが歩けるようになっても、同じことをしようか。でもさすがに三人で一つの傘は厳しいかもしれない。そんなことを考えていたら、なぜだか笑えた。
 さっきまでの不機嫌さが嘘のように、あっという間に寝付いたみらいをベッドに寝かせると、和之と並んでご飯を食べた。
「理想と現実の、バランスが取れてない感じがするの」
 そう言うと、和之はちょっと考えた後に、みんなそんなもんでしょ、と笑った。何ヶ月ぶりかわからない、あったかいご飯は、お茶碗からはみ出すくらい山盛りに盛られていてたけれど、私はそれを完食した。
 その日は、夢を見た。みらいと二人、明るい道を歩いていたはずなのに、私が後ろを振り返った瞬間、急にあたりが真っ暗になりみらいが泣き出す。何も見えない暗闇の中で、みらいをどうあやせばいいのかわからず私も途方に暮れる。そんなとき、ふと誰かがランプを頭上に掲げてくれる。見ればそれは和之で、彼は「なんとかなるって」と笑って、かろうじて足元が見えるくらいの薄暗い道を歩いていく。一緒にみらいをあやしながら、一歩一歩、ゆっくりと。
 目が覚めたとき、私はなぜか泣いていた。道の向こうに光が見えていた気がしたけど、そこははっきりとは覚えていなかった。あの光は、今いる場所からどれほどの距離だっただろう。どれほど遠かっただろう。ただ、和之が照らしてくれた足元が、ギリギリ見えるか見えないかくらいの足元が、妙にリアルで、今の私たちにはとてもしっくりくるような気がして、なんだか泣けた。
 ああ、そうか。私はとっくに一人じゃなかった。二人でもなかった。もう随分前から、彼と一緒になると決めた瞬間から、私たちは三人で、一本の長く続く道を歩いていたんだ。

「漫画、ですか」
 思わず敬語になってしまった私にくすくすと笑いながら、美香は私の挿絵が載った育児雑誌をテーブルに置いた。なんとか締め切りギリギリに描き上げた、あのイラストだ。
「そう、挿絵の評判がよかったから、四コマを連載しないかなーと思って」
 私に抱きかかえられたみらいは、人見知りをするどころかむしろ美人な美香に興味深々で、愛想よくあーうー声を上げる。
「例えば育児中の実体験とか、子育て中のママが共感できるようなネタ、ないかな?」
 あるある、と、みらいが生まれて間もないとき、息をしているのか不安で五分おきに寝息を確認していたこと、休日、スーパーに行って帰ってきたら、和之とみらいがそっくりの寝相で寝ていたことなどを話すと、美香はいいねと笑った。なんとなく、幸せなエピソードばかりを選択して話しているように感じて、もっとリアルな話を、リアルな話をと考えるのだけれど、思い出そうとすればするほど、楽しい記憶しか出てこない。いつもあんなにつらいと感じているのに、どうして。
 ああ、そういうことかと思った。もしかしたらみんな、こういう風に子育ての過酷さを忘れていくのかもしれない。母の言った、お産の痛みを忘れちゃうという言葉の意味が、ようやく少しわかった気がした。
「みらいくん、ママがイラストレーターなんてかっこいいねぇ」
 美香が話しかけると、みらいはわかっているのかいないのか、あーと嬉しそうに笑った。
 美香が帰り、サンプルとしてもらった育児雑誌をぱらぱらと眺める。妊活中のママや妊娠中のママや子育て中のママのインタビュー。そのどれもが幸せいっぱいの記事で、妊娠中、産院の待ち時間に私も読んだなぁと思い出す。何かに追われるように必死にページをめくって、書かれた言葉を丸ごと暗記するかのように何度も読んだ。どこどこのハーブティーがお産にいいと聞けばすぐにネットで注文したし、どこどこのヨガ教室が一番人気だと聞けばすぐにレッスンを申し込んだ。けれど何を買っても何をしても、結局自分の置かれている状況に現実味がないことにはかわりなかった。育児雑誌の中のママのように、子供を抱きながら笑っている自分を幾度となく想像したけれど、結局私は想像とは違い、泣き、喚き、迷いながら子育てをしている。
 やっぱり、理想と現実は違うのだと改めて思う。理想の場所に辿り着いて初めて、そこが理想ではなく現実だったことを知る。お産の恐怖に震えたあの夜のリアルも、母としての実感が持てずに戸惑ったあの夜のリアルも、きっとどこにも書かれてはいなくて、きっと誰もが想像もしていなくて、けれど、それが現実だった。
 美香が帰ってしまい寂しくなったのか、急にぐずぐずと泣き始めたみらいを抱き上げる。「はいはい、ママがいるよー。ママはみらいのママだよー」
 変な音程をつけながら、当たり前のことを繰り返した。家事に育児にどんどん増える仕事。それに、和之の転職問題もある。きっとまた悩み躓くことはあるんだろうけど、まあ大丈夫だろう。私も随分和之の影響を受けているらしく、最近どんどん能天気になっている気がする。なんとかなるって。人生、なんとかなるって。
「さーて、忙しくなるぞー」
 理想と現実のバランスは、まだ取れない。


【了】

ご一読いただきありがとうございました。

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